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「ノルウェイの森」に感動 [映画]

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 きのう東京に出たついでに、たまたま時間が空いたので、昼過ぎの有楽座で「ノルウェイの森」を見ました。前から見たかったのですが、出かけるのがおっくうなのと時間の都合がつかなかったので、ついつい見そびれてしまったのです。
 ぼくはシニアなので、いつも1000円なのですが、この日はファーストデイとやらで、だれでも1000円。それでも400ほどある座席は50足らずしか埋まっておらず、閑散としていました。ちょっと冷えたのか、ラストに近いところで尿意をもよおし、トイレに駆け込んだため、5分間ほど見そびれてしまったのが悔やまれます。
 それでひとことで感想をいうと、感動しました。大空にかけのぼる感動というのではなく、静かに地面に横たわるような感動を覚えました。
 激しくこわれやすい青春を鎮魂し、そっと封印したとでもいえばいいのでしょうか、そういう愛惜にあふれた作品です。
 映画の主人公たちは、だれもが家から切り離されて、ちゅうぶらりんの、その意味では自由で不安な位置に立っています。その青春が、いつかはまた新しい家に行き着くまでの、短く、もう二度と帰らない放浪期間であることは、最初からどこかで意識されています。
 はっきりいってテーマは性愛です。相聞といってもよいでしょう。年寄りだから、つい露骨な表現になりますが、青春のテーマはほとんどそれしかないといっていいでしょう。
 映画「ノルウェイの森」も青春の性愛をえがいています。しかし、特異なのは、それが生ではなく死と結びついていることですね。それが映画に奥行きを与えています。
 恋愛映画は三角関係をえがくものと相場が決まっていますが、「ノルウェイの森」でも、主人公のワタナベを軸に直子と緑のふたりがからんできます。
 直子は死者とともに生きている聖女のような存在です。死者というのはワタナベとも高校時代の友人、キズキのことです。直子とはきょうだいのように、ちいさいときからずっと仲良くすごし、青春の嵐の時代をむかえました。映画によると、キズキは直子とうまく性交渉ができないのを苦にして、自殺してしまいます。むしろ直子のほうに、近親相姦タブーの意識がはたらいたのではないでしょうか。
 その後、直子は死者とともに生きることになります。ある意味で悲惨なその状態を、ワタナベは侵犯してしまいます。直子もまたワタナベを受け入れました。それでふたりは幸せになったかというと、そうではありません。直子はかえって精神のバランスを崩し、森のなかの療養所に彼女を見舞いにいくワタナベもうつ状態におちいっていくのです。
 直子は自分がキズキを死に追いやったことを知っています。しかし、ワタナベとのたった一度の狂おしいまでのつながりは、彼女を生の世界、つまりいまと未来の世界へと連れてはいきませんでした。
 その兆しがなかったわけではありません。おそらく直子はワタナベが好きだったし、ワタナベも直子が好きだったからです。それでも直子は死者をかなたへととむらえませんでした。むしろ死者に対して罪を感じます。そして、罪の意識と現実の愛とのあいだの深淵がますます広がっていくなかで、みずからを罰するように死を選んでしまうのです。
 おそらく緑というもう一人の女性がいなければ、ワタナベも死の淵にのみこまれていったにちがいありません。映画のなかで、ワタナベが波のくだけちる海原に向かって号泣するのは、直子の記憶を胸に刻み、封印するための儀式だったような気がします。
 狂気も死も身近にありました。それでもワタナベが静かに生きることを選んだのは、緑の愛を受けとめようとしたからだけではありません。たぶん、直子の死を記憶し、それを伝えなければならないと思ったからではないでしょうか。
 ワタナベ役の松山ケンイチ、直子役の菊地凛子、緑役の水原希子、みんなすばらしかった。全篇にビートルズの曲が流れています。しかし、その雰囲気はぼくなどが経験した全共闘時代ではありませんでした。いわばアメリカ文学によって再構築された日本の60年代末といってよいでしょう。ワタナベに岩波文庫は似合わなかったと思います。
 トイレに立った5分間をふくめて、ほかにも多々語ることがあるにちがいありません。ほかの魅力的な登場人物や村上春樹の女性観についても。
 でも、いい映画でした。原作をもう一度読んでみることにしましょう。

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