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この世と隠り世 [柳田国男の昭和]

《第205回》
 国男は数えで13歳のとき、9歳上の次兄、井上通泰に連れられて、故郷播州を離れ、長兄、松岡鼎の住む茨城県布川町(現利根町)へ向かった。まだ東海道線は開通しておらず、東京に早く着くには、神戸から船に乗る以外になかった。
 人力車で明石をすぎたあたり(舞子か須磨)の光景は忘れがたいものがあったのだろう。『故郷七十年』では、こう語っている。

〈明石を通りすぎるころ、幼いころからこの地名はよく聞いてきたところだから非常に鋭敏になって四囲の風物をながめていたのだが、そこで西洋人が海水浴というものをやっていた。女が裸になってサルマタのようなものをつけて海へはいってゆく。「これが海水浴というものか」と私ははじめて強い印象を与えられた。そのときは淡路を眺めるのが、おろそかになったほどの強い印象であった〉

 須磨には外国人専用の医療用海水浴場ができていた。それにしても、裸の外国人女性がサルマタ、つまり男性用サーフパンツみたいなものを身につけて、海につかっているという光景は、なにかのまちがいではないかと思えるほど強烈である。
 神戸に着くと、メリケン波止場からハシケをつかって、沖に停泊する「山城丸」に乗船した。国男は船酔いするどころか、すべてがものめずらしく、船内をあちこち見てまわったという。
 横浜からは伊達を気取る次兄の先導で二等車に乗りこみ、東京へ向かった。同年配の子どもが乗っていて、女中が「若さまビスケット召し上がりますか」と尋ねているのが印象的だった。
 湯島の兄の下宿に1週間ほどいて、それから長兄が医院を開く茨城県布川に移った。はじめての東京では、ガス灯が夜明けのひっそりした街にともっている風景を覚えている。風呂屋の何軒か先に絵双紙屋があったので、そこで国男は錦絵を買い、田舎にいる弟輝夫(のちの映丘)に送ってやった。
 利根川に面する布川の町は、土地柄もことば、風俗習慣、行事も播州とはまるでちがい、国男をおどろかせた。まわりに山がなく、田が遠くまで広がり、大空を雁や鴨が悠然と飛んでいくさまも、播州では見たことのない光景だった。
 布川に着いて、はじめて利根の流れを「発見」したときのことを、80歳すぎの国男はまるで映画のように語っている。

〈布川へ行って2、3日目に私はその低い松林の上をだしぬけに白帆がすっと通るのを発見した。初めは誰かが帆のようなものをかついで松林の向こうを歩いているのではないかと思った。何しろ船も見えず、そこに川が流れていることも知らなかったからである。……これほど変わった景色を私は大きくなってからも知らない。郷里の辻川は海から3、4里[15キロほど]しか離れていないが、それでも海を見、船を見ようとすれば、かなり高い山の上に登ってちらっと眺め、「ああ海が見えた」といって喜ぶくらいのものであった。今までついぞ白帆など見たことのなかった私にとって、このように毎日、門の前からほんの少し離れたところを何百という白帆が通るというのは、ほんとうに新しい発見だった〉

 こういうわくわくする話を聞くと、柳田国男という人は天性の詩人なのだと感じいってしまう。
 驚きはあらゆるところに満ちていた。子どもたちは親戚や兄弟でも「クマ」とか「トラ」とか互いを呼び捨てにして、播州のように「ハン」をつけて「クニョ(国男)ハン」とか「シズォ(静雄)ハン」とか丁寧に呼ぶことはなかった。
 関東では、どの家も子どもは男子と女子の2人からできていることが多く、播州の松岡家のように男ばかり8人きょうだいなどという家はどこにもなかった。そのわけを国男はまもなく理解して、心がふるえる思いをした。

〈約2年間を過ごした利根川べりの生活を想起するとき、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものか堂の正面右手に1枚の彩色された絵馬がかけてあったことである。その図柄が、産褥の女が鉢巻きを締めて、生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、そこには角が生えている。その傍らに地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている〉

 播州で経験した飢饉とあわせて、このひそやかな子殺し、間引きの風習は、のちに国男が大学時代、農政学を専攻し、農商務省に入省する動機とどこかでつながっている。
 播州と坂東での体験は、国男に民俗比較の視点をもたらし、それが柳田民俗学に広がりと豊かさをもたらす契機になるのだが、本人もふりかえるように布川での2年間は、「自然の生活」を味わった一面はあるものの、実はきわめて不安定であぶない時代だった。
 国男は中学にも行かず、長兄の自宅ですごしていた。からだが弱いという理由で、好き放題をしてもとがめられず、素裸で棒きれをもってそこらじゅうを飛び回ったが、そのいっぽうで、外から帰ってきてからやたら本を読んでいたと述懐している。けっして豊かではない一家が、親兄弟とも、この文学的才能あふれる神童の処遇に悩んでいたというのが実情だろう。
 東京帝国大学で学ばせようという方針が定まるまでの2年間、国男は布川で「第二の濫読時代」をすごすことになる。近くの小川家の土蔵には郷土誌を含め、江戸期の雑駁な書籍が大量に残っており、どうやら国男はそれを片っ端から読みあさったらしい。
 さらに特筆すべきは、小川家に東京の知り合いから当時の新刊雑誌や書籍が数多く送られてきていたことである。国男は徳富蘇峰主宰の雑誌「国民之友」、硯友社の雑誌「我楽多文庫」、軽文学の「浮世雑誌」、都々逸もどきの「親釜集」もむさぼるように読んでいる。
 坪内逍遙の『当世書生気質』や『小説神髄』、江見水蔭や広津柳浪、三遊亭円朝の本にも目を通し、新時代の文学の息吹を感じたものだ。国男に歌人の素質があると見込んでいた東京の次兄、井上通泰は、自分が読み終わった賀茂真淵(縣居[あがたい])門下、村田春海や加藤千蔭の歌集などを次々と送ってよこした。
 岡谷公二によれば、国男はこのころ「すでに主だった和漢の古典を読み、明清や江戸末期の随筆類にまで目を通し、和歌の素養をそなえ、同時代の文学にもある程度通じていた」。欠けていたものがあるとすれば、外国文学の知識であり、それを満たしてくれる人物が、まもなく現れようとしている。次兄の知り合いで陸軍軍医を務める森鷗外その人である。
 しかし、この文学少年は時折、大きな危機に見舞われていたといってよい。幼少期につづいて、神隠しめいた神秘体験を味わっていたのだ。
 布川の小川家土蔵前に小さな石の祠(ほこら)が置かれており、国男はある日、いたずら心に駆られて、その扉を開けてみたことがある。そこには「一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠(たま)」が収まっていた。
 それを見たときの「異常心理」について、国男は、『故郷七十年』で、こう話している。

〈その美しい珠をそうっと覗(のぞ)いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持ちになって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだままよく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星さまが見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄みきった青い空で、そこにたしかに数十の星をみたのである。……そんなぼんやりした気分になっているそのときに、突然高い空で鵯(ヒヨドリ)がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あのときに鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである〉

 それは神童を襲う魔の時間だったのだろうか。御者に鞭打たれる馬を見て発狂したニーチェの例があるように、「あのまま気が変になっていたんじゃないか」という国男の述懐は、かならずしも誇張とはかぎらない。
 国男はこの世に踏みとどまる。だが、この世と隠り世がどこかでつながっているという思いは、長く心に残った。
 それが歌と文学、さらには民俗学へとかれを導くのである。

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