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南方熊楠との出会い [柳田国男の昭和]

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《第223回》
 柳田国男が南方熊楠(みなかた・くまくす)と知りあったのも、ちょうど郷土会のはじまったころである。晩年の回想『故郷七十年』には、こうある。

〈大勢の人とつきあってきたが、その中でも紀州の南方熊楠という学者は変わっていた。たしか明治43年「石神問答」という本を私は出した。10人ばかりの名士から来た手紙を中心とした書簡集の形式を踏んだもので、これを坪井正五郎博士にお送りしたところ、人類学会の方々へ紹介してくださった。その中に紀州田辺の南方熊楠氏へも贈るようにとすすめられ、それが交際のはじめであった。そのときからおよそ1年半か2年間、毎日のように手紙をもらった。日によっては1日に3、4回も便りが来るほど、じつに筆まめな人であった〉

 このなかに『石神問答』については、前に述べたので繰り返さない。坪井正五郎は日本の人類学の先駆者。「人類学雑誌」を中心になって編集し、南方も寄稿者のひとりだった。
 ふたりの文通は1911年(明治44)3月にはじまり、1917年(大正6)1月にほぼ打ち切られる。手紙の頻繁なやりとりがあったのは1914年11月ごろまでの約3年半で、そのころ両者の関係はすでに険悪になっていた。1年半か2年間という記憶があるのは、おそらくその前半の手紙を国男が別途書き写し、印刷して「南方来書」というかたちでまとめたためである。
 南方は国男より8歳年上で、国男と手紙のやりとりをしたころは40代半ば。和歌山に生まれ、中学卒業後、東京の大学予備門にはいった(同級生に夏目漱石や正岡子規、秋山真之などがいた)が、大学には行かず、アメリカに渡った。ミシガン州立農学校にはいるが、中退。このころから菌類の研究をはじめていた。それからサーカスの一座に加わり、キューバやハイチ、ベネズエラ、ジャマイカなどを回り、植物標本を採集しながら、学問の都ロンドンにたどりついた。
 ロンドンでは大英博物館に通いつめ、その嘱託研究員となるいっぽう、雑誌「Nature(ネーチュア)」や『Notes and Queries(ノーツ・アンド・クエリーズ)』に多くの論文を寄稿した。ロンドンでは生涯の友となる仏教学者、土宜法龍(どき・ほうりゅう)と出会い、中国革命の父、孫文と交流している。日本に戻ってきたのは1900年(明治33)、それから熊野の山野を駆け回り、4年後、田辺に腰を落ち着け、妻をめとった。
 熊野で研究に打ちこんでいる南方の前に立ちはだかったのが、中央政府による神社合祀令である。これは国家の定めた枠にしたがって神社を統合しようというもので、この政策によって20万社あった神社のうち7万社が取り壊されたという。とりわけ三重県、和歌山県の取り壊しはすざまじいものがあった。
 神社には神社林がともなっている。南方が怒ったのは、古い言い伝えのある神社がいともやすやすと滅却されてしまうだけではなく、周辺のクスノキやスギ、タブが伐採され、その下に生える貴重な植物や粘菌が失われようとしていたからである。そこで南方は立ち上がり、地元の「牟婁(むろ)新報」に論陣を張り、さらに林業講習会になだれこんで、警察署長を「蛙(かえる)のごとく」投げ飛ばした。こうして収監されたものの、新聞の弁護もあって、罪に問われず、無事免訴となる。だが、その後も「牟婁新報」で県や警察を嘲弄する文を書きつづけ、神社合祀への反対をつらぬいていた。
 国男との文通がはじまったのはそのころである。その手紙をみると、はじめのころ、南方は神社合祀反対運動で中央官僚の国男を頼みとし、いっぽう国男は民俗資料の収集で南方の博学をあてにしていたことがわかる。国男が「日によっては1日に3、4回も」と述懐するように、そのやりとりは頻繁だった。
『故郷七十年』では、こう語られている。

〈[南方熊楠は]私とつきあっていたころ、一生懸命になって奔走していた仕事に、紀州地方の神社が合併になって、その廃社になった方の神域の大木がどんどん刈り倒されることを大変に憤慨して、それを取りやめる運動をしていた。私がそのころ役人であったので、この反対運動を手伝わせようとしたのである。和歌山の方ではあまり効き目がなかったが、熊野川のすぐ東にあたる、三重県の阿多和神社については成功した。よほどうれしかったと見え、「……楠の木もただ柳の蔭を頼むばかりぞ」というような歌を書いてよこしたことがある。いつも手紙には、じつに細かい字でぎっしり書いてあったが、困ることには話題がいつも飛躍するのであった〉

 これを読むかぎり、国男は南方の神社合祀反対運動を陰ながらずいぶん応援したことがわかる。加えて、国男は紀州の一角にこもっている南方の学識を高く評価し、何とかかれを中央の舞台に引きだそうと努力もしていた。
 ところが、南方自身は、一種恩着せがましい国男にたいして、いかにも中央のエリート役人らしい視線を感じて、その勢力下におかれることに反発していた節がある。
 ふたりがはじめて、そしてたった一度だけ顔をあわせたのは、国男が南方を田辺にたずねた1913年(大正2)暮れの12月30日のことである。『故郷七十年』の回想は、あくまでも国男の側からみた記述だが、そのときの様子をみごとに伝えている(ただし、明治44年の春先というのは記憶ちがい)。

〈明治44年の春先、親友の松本烝治[国男の同窓生で、当時、東京大学教授。のち法制局長官、商工大臣などを歴任]が、どこかへ旅行しようといいだしたので、紀州方面へ行って南方氏を訪ねてみようということになった。乗り物がまだ不自由なころで、大阪から人力車を雇って田辺まで行った。東京からお目にかかりにきましたといって訪ねていったが、会ってくれない。そして細君を通じて「いずれこちらから伺う」という返事であった。夕食を済ましてだいぶたってから、もう来そうなものだといっていると、女中が「いえもう見えているのです。しかし初めての人に会うのはきまりが悪いからといって、帳場で酒を飲んでいらっしゃるのです」ということであった。そのうち、すっかり酔っぱらってやってきた。少し酒が入ると面倒になるらしく、松本を見て、「こいつのオヤジは知っている、松本荘一郎[元鉄道庁長官]で、いつかなぐったことがある」というようなことをいいだした。よくなぐったという癖があるらしいが、松本はただ苦笑いをしていた。感心なことには、いつまで飲んでも同じことは一回もくり返さなかったことである。しかしこのときは大切な学問上のことは何もいわなかった。一晩しか泊まれないので、翌日挨拶に私一人で行くと、細君が困った顔をしている。そして僕は酒を飲むと目が見えなくなるから、顔を出したって仕方がない。話さえできればいいだろうといって、掻巻[かいまき]の袖口をあけてその奥から話をした。こんなふうにとにかく変わった人であった。年百年中[年がら年中]、裸で暮らしていた〉

 実はちょっぴり気の弱い、愛すべき大酒呑みの豪傑の姿が浮かびあがってくる。だが、南方自身によるこの2日の日記をみると、その印象は少しちがっている。

〈大正2年12月30日。陰、雨、夜晴、大強風。松枝[妻]、眼悪く(めもらい)、臥居[ふしお]る。予、掛取払い[つけの支払い]助く。グリムの『独逸[ドイツ]神誌』読む。夜、飯後臥し居る。松枝、神社札入るる札、こしらえしことに付[つき]、予怒り居る所へ、柳田国男氏人力車にのり来る。一昨日東京出立し、和歌山より有田、日高へて来りし也。暫時話し去る。それより湯に之(いく)。丸よしで2盃のみ、楠本松造[友人]訪[おとな]い、小倉屋で3盃のむ。錦城館[柳田らの宿]に之。柳田氏及松本荘一郎氏男[息子]に面し、栄枝[芸者か]来り飲む内[うち]、予大酔して嘔吐し、玄関に臥す。サカ枝とまる。松造氏大風中人力車にのり、予宅に来り、衣服とり返る。
大正2年12月31日。晴、終日臥す。午後柳田氏来り、2時間斗[ばか]り話して去る。予眼あかず、臥したまま話す。夜も予臥す〉

 豊かとはいえない学者の家の歳末風景をほうふつさせる記述である。それとともに、南方は大酒を呑んでいるわりに、どこか冷めており、あまり愉快そうでもなかった雰囲気が伝わってくる。
 おそらく、ふたりのあいだには性格のちがいに収まりきらない、深い溝のようなものが横たわっていた。それはいったい何だったのか。出会いの前後を通じて、南方の書簡は、国男のまやかしを容赦なく突き、国男は南方のひとりよがりを遠慮なく指摘している。そこでは、ふたつの民俗学がまともにぶつかっていたのである。
 少し書簡のやりとりを追ってみたい。

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