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『しなやかな日本列島のつくり方』(藻谷浩介対話集)を読みながら [本]

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 少し翻訳の仕事をし、頼まれている本のアンケートを書こうとして、いくつか本を読み、買い物に行き、掃除をし、孫を動物園につれていき、友だちと昔話にふけり、映画を見にいくうちに、あっというまに日がすぎていました。新聞やテレビのニュースをみるにつけ、あれこれ怒りをおぼえ、かといって右とも左ともはっきりしない自分のポジションにとまどいを隠せず、本に目をとおしても字面を追っているだけで、その内容が頭にしみこんできません。日々の奔流に身をまかせ、毎日をうっちゃっていると、ますます方向を見失い、精神のバランスを崩しそうになります。
 こんなときは深呼吸をして、からだのリズムをととのえ、パニックにおちいりそうな頭をしずめてやらねばなりません。もともとのんびり屋の自分のペースを取り戻すこと、いっぺんに何もかも頭につめこまないこと、荷物をしょいこまないこと、そして、ゆっくり頭を整理しなおしてみることがだいじなのではないでしょうか。ぼくにとって、ブログはいまのところそんな自分用のツールになっています。もちろん、それを読んで何かをくみとってくださる方がいれば、よりありがたいことではあります。
 このところ、頭の整理がつかなくなったのは、つい何冊も経済関係の新書を買いこんで、ぱらぱらと読みとばしているうちに、何がなんだか自分でもわからなくなってしまったためしょう。それで、少し気持ちを落ちつかせようとして、自分のペースで、のんびりこの本を読みなおしてみることにしました。くたびれたところで休憩にしますから、少しも前に進まないかもしれません。その点はご容赦のほど。
「はじめに」で著者の藻谷浩介(この人には『里山資本主義』というベストセラーがあります)は「私の学びはいつも、『現場』の『現実』を目の当たりにしての『自問自答』から始まってきました」と書いています。しかし、そこからゴールにたどりつくには「現地」ならぬ「現智」の人と巡りあい、対話を重ねることが必要だとも。「現場」と「現智」を教えてくれるというのは、ありがたいですね。
 この本で扱われる現場は、商店街、過疎集落、観光、農業、医療、鉄道、不動産開発の7つです(いいかえれば7つの対談から成り立っています)。ぼくは、いまはさびれてしまった商店街で育ちましたから、まず商店街のことが気になりますね。さっそく対談に割りこんでみましょう。
 対談相手の新雅史(あらた・まさふみ)は『商店街はなぜ滅びるのか』という本を書いている人です。「商店街はたしかに世間で思われているよりもはるかに歴史の浅い近代の産物で、社会の変化と共に存亡の危機にある」と話しています。
 ふだんはあまり意識したことはないのですが、これは言われてみれば、たしかにそのとおりですね。商店街に歴史ありとでもいいましょうか。ぼくのいなかでも商店街の名前は鍛冶屋町銀座商店街となっていました。銀座の名前をつけるところが、たぶんモダンだったんでしょうね。何とか銀座という名前の商店街は、全国いたるところにありました。
 はっきり調べたわけではありませんが、できたのはたぶん大正か昭和のはじめでしょうか。とくに戦後から1960年代終わりにかけては、ずいぶんにぎわっていました(その恩恵を受けて、ぼくも東京の大学に行けたわけですが)。いまはほとんど人の通らないシャッター商店街になってしまいました。
 商店街には八百屋もあったし、衣料品店、洋服屋、呉服屋、薬屋、仏具屋、パン屋、お菓子屋、履物屋、酒屋、料理屋と、何でもそろっていました(魚や肉は隣の市場まで足を運ばなければなりませんでしたが)。仏具屋というのは変わっていますが、これは商店街の先に大きなお寺があったからかもしれません。
 だから、ここはもともと門前町として発達したのかもしれません。明治のころまではクロスする通りが遊郭になっていたと聞いたこともあります。幕末に渋沢栄一がこの遊郭を訪れたことは本人も認めるところです。江戸のころ、このあたりがどうなっていたのかというのも、興味をひくところです。
 ぼくが子どものころ、商店街のつきあたりには国鉄の小さな終着駅があって、蒸気機関車も走っていました。いまはこのローカル線もとっくに廃線になり、駅も取り除かれてしまい、そして次第に商店街もさびれました。
 商店街がさびれた原因は、三菱製紙の社宅がなくなって、そこに西友というビッグストアができたからですね。街の人たちは古ぼけた商店街を捨てて、大駐車場を備えた大型店舗に吸いこまれていきました。流れがすっかり変わったわけですね。
 ところがさらに20年もたつと、このビッグストアに活気がなくなり、テナントに空き店舗も目立つようになりますが、その原因は郊外につぎつぎとイオンなどの大型モールが進出したためです。商店街からビッグストアへ、さらにモールへと店舗の規模が拡大するにつれて、街はにぎやかになるどころか、立ち枯れたようになり、大勢の人が歩いたり、走ったり、声をかけたり、立ち話をしたり、外で夕涼みしたりする姿を見かけることもなくなりました。最近はいつ帰っても、街はしいんと静まりかえり、ときおり表通りを車がゆっくりと走り抜けていきます。
 50年ほど前といちばんちがうのは、めっきり子どもの数が減ったことですね。ぼくらが小学生のころは1学年9クラスで、しかも1クラスが50人。ところがいま小学校は1学年1クラスで、40人もいないでしょう。小学校はまもなく廃校となり、隣の中学校と一体化されるといいます。世の中が進歩し、GDPが拡大したというのに、地方の町がどんどん疲弊していったというのは、たしかに不思議な現象です。
 大型店やモールができて、商店街に人がこなくなるのはわかります。たしかに大型店のほうがきれいだし、品物もそろっているし、安いとなると、人の足もそちらに向かうでしょう。すると商店街はさびれますね。ところが、商店街がさびれると同時に、町自体の活気がなくなるのはどうしてでしょう。
 ひとつは大型店のある郊外に商業の中心が移ってしまうことです。そこにはたいてい車で行かなくてはなりませんから、買い物に行くにしても、町を歩いていく人はめっきり減ってしまいます。商店街はもうからなくなって、後継ぎもいなくなって、次第にシャッターを下ろす店が増えてきます。
 ここでは経済(商品世界)の発達が、家業の解体をもたらしたわけですね。昔はどの家も家業がありました。呉服屋、大工、漁師、海運業、米屋、農家、みんな家業ですね。祖母はぼくによく「勤め人なんかになったらあかん」と言っていました。会社につかわれて、つまらんというわけです。ぼくの町にも大きな工場がありましたから、勤め人はずいぶんいましたが、それでもまだ1960年代は家業を継ぐというのが、ぼくの世代ではふつうの意識でした。
 そんな時代がだんだん遠のき、家から業が離れていき、家がただの「生活空間」になっていきます。多く(いや、ほとんど)の人が家業を捨てて、公務員とか会社員へと変身していきました。職住分離が進み、仕事場には電車で通勤し、盛り場でみんなとわいわい飲んで、夜遅く家に帰って寝るだけといった生活がはじまったのは、いつごろからでしょう(もっとも亭主がずっと家にいるのはうっとうしいというのが、主婦のホンネではありますが)。
 この対談集のテーマは、商品世界システムのさらなる高度化をめざすのではなく、地元を取り戻そうということだと思います。まだ1章しか読み終わっていないのですが、ここでは町の中心を商店街ととらえ、その商店街を若者がになうにはどうしたらいいかが論じられています。
 藻谷浩介はこう話しています。

〈でも、[「この町をなんとかしたい」と思う若者たちには]より深い動機として、自分が後世に残すべきものがこのままでは何もない、せめて町を残すことに参加したい、という思いもあるんじゃないかと思うんです。ただ大型店と住宅がまばらに建っているだけの、どこにでもある郊外の風景を、これがうちの地元だと残していくのは、あまりにも寂しい。そう気付く若者が増えているんじゃないでしょうか〉

 日本国の経済戦略なるものに乗せられるより、ずっと希望があるんじゃないでしょうか。

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