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辺見庸『1★9★3★7』を読む(4) [本]

 著者は歴史が「いままさに暗転しつつある」と感じています。
 だとすれば、どこかいまと似ているあの時代を、当時、「かれら」はどう感じていたのでしょうか。
 ここでいう「かれら」とは、評論家の小林秀雄であり、哲学者の梯明秀(かけはし・あきひで)であり、小説家の小林多喜二であり、政治学者の丸山眞男のことです。
 大学生のころ、「歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている」と記す小林秀雄にしびれていた著者は、いまでは小林に「はめられた」と思うようになりました。
 小林秀雄は1937年11月号の『改造』に「戦争について」というエッセイを発表し、「日本の国に生を享(う)けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない」と書きました。
 これは国の運命にみずからの命をゆだねよという思想にほかなりません。著者は小林秀雄の文章には「あらがいがたい浸透圧のような『力』」があると感じます。
 日本では日中戦争の前後から、いわゆる特高警察が国民の思想統制に乗りだしていました。日本ではナチス・ドイツのような強制収容所はつくられませんでした。その代わり、思想犯として拘束された者には、拷問をともないながら、「転向」が強要されていたのです。
 小林秀雄の思想は、いわば日本人の模範でした。日本という運命共同体のなかで、「無私」の精神によって国のために生きていくのが、日本人なのだというのですから。
 戦争への批判は、のっけから封じられていました。
 著者は、哲学者、梯明秀の「偽装転向」について述べています。
 1938年に梯は特高によって逮捕され、「転向声明書」を記して、釈放されます。 その声明書には、日本民族の中心である天皇にたいする「不忠不義に恐懼して、私は、ただ心を貧うし己を空うして、陛下の命を謹んで御待ちする境地にあります」と書かれていたといいます。
 梯は、これをあくまでも方便として書いたつもりでした。しかし、転向声明をだすのは、天皇をいただく国家の方針に逆らわないと誓うことにほかなりませんでした。それは身体の自由(行動の自由ではない)を奪われない代わりに、自主的な発言を控えるという悪魔の取引なのでした。
 こうした転向書の提出を拒否したときは、どのような運命が襲ったでしょう。それが、プロレタリア作家、小林多喜二の場合でした。1933年2月22日、小林多喜二は特高につかまり、築地署で拷問を受け、その日のうちに殺されたのでした。
 この年には丸山眞男も逮捕され、一時拘留されています。丸山はマルクス主義者ではありません。たまたま本郷で開かれていた唯物論研究会の講演会を聞きにいって、特高に拘束されたのです。丸山はすぐに釈放されます。
 戦後、丸山は天皇の戦争責任を追及し、その退位を求めました。しかし、その威勢のいい発言と裏腹に、かれがどこまで本気で天皇制の廃止を求めていたのか、と著者は疑っています。
 丸山眞男は1946年に発表したエッセイ「超国家主義の論理と心理」のなかで、「何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」と書いていました。
 ここには、知識人と市民が、ほとんど抵抗することなく、ずるずると時の流れのようなものに流されていき、その結果、敗戦を迎えたことについての痛恨のようなものがあふれています。
 著者はその問いを念頭におきながら、自分の父が戦後になって残した、戦争体験の手記を読みかえします。そして、3年余の軍隊生活を送り、中国の戦場を経験した父親が、すべて「受動態」で身を処していたことに気づきます。
 手記には、放火犯の中国人を隊員が拷問するのをやめさせたという記述もありました。しかし、著者は、そこに拷問を命じた責任者が明記されていなかったことに違和感を覚えます。
「拷問の責任は、形式的にもじっしつ的にも、分遣隊の隊長だった父にあったはずである」と言い切るのは、つらいことだったでしょう。
 しかし、そう書いたときに、著者は1975年10月31日の記者会見で、記者から戦争責任について聞かれた昭和天皇が、こう答えたことを思いだすのです。
「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます」
 記者の質問は、みごとにすかされた、と著者は書いています。
 あぜんとするほどの空っとぼけ。そして、それに怒りもしないメディアと国民。

〈“菊の禁忌”は戦後70年のいまもいっこうに解除も減圧もされてはいない。それは外圧というよりむしろ内圧として加速されている〉

 著者はそう感じます。
 著者の父は、江蘇省の常熟で敗戦を知り、蘇州で武装解除されました。
 捕虜収容所内はわりあいおおらかで、大演芸会なども催され、中国側から寛大な扱いを受けたといいます。
 その場で多くの捕虜を殺害した皇軍とは大違いでした。
 いまはどんな時代か、と著者は問います。
 何も終わっていないし、何も変わっていないのではないか。人間社会の原型は「戦争体」なのではないか。この先には滅亡しかないのではないか。
 戦争とは、国家の名のもとで、それぞれわけをもっている人を殺すことだ、と著者は考えています。
 堀田善衛は南京大虐殺をえがいた小説、『時間』のなかで「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ」と記しました。
 そして、著者もまた、大量虐殺によって、「ひとりびとり」が、細かな記憶ごと抹殺されたことに、いきどおりをいだきます。
 1937年12月17日、南京では、すでに何万人もが殺戮され、さらに多くの捕虜が虐殺されようとしているなかで、皇軍の入城式が挙行されました。
 入城式では、君が代が演奏され、日の丸が掲揚され、大元帥陛下の万歳が三唱されました。
 戦争オルガスムスへのあこがれは、いまも残っているのではないか、と著者は疑います。そのあらわれのひとつが、集団的自衛権の行使を認めた近ごろの安保法制です。
 われわれがいまも「口実をさがすためにしか歴史を学ばない」権力者をいだいているのは、戦争責任を問わないことによって成立した戦後のエセ民主主義のなせる必然でした。
 日本人は戦争の加害者ではなく、戦争の「被害者」だと思っている(思いこまされている)のではないか、とも著者はいいます。
 加害の記憶は継承されにくいものなのです。
 何となくずるずると進んで、気がついたら取り返しのつかない事態になっていたというのではない、とも述べています。そうではなくて、「わたし(たち)がずるずるとこんにちを『つくった』というべきではないのか」。
「つごうのわるい時間はかつてよりぶあつく塗りつぶされたままである」と著者は書いています。
 都合の悪い時間を忘却したままでいると、どうなるでしょう。そこに生じるのは過去のぶり返しにほかなりません。
 ふたたび、戦争がはじまろうとしています。

〈過去の跫音(あしおと)に耳をすまさなければならない。あの忍び足に耳をすませ! げんざいが過去においぬかれ、未来に過去がやってくるかもしれない。〉

『1★9★3★7』は、そんな予言で終わっています。

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