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辺見庸『1★9★3★7』を読む(3) [本]

 引きつづき『1★9★3★7』を読んでいます。
 1937年末から38年1月にかけ、芥川賞作家の石川達三は、中国の戦場を見て回り、帰国後すぐ、『中央公論』に『生きている兵隊』というルポを発表しました。しかし、雑誌はすぐ発禁処分をくらいます。
『生きている兵隊』は、日本軍の伍長が、放火の疑いのある中国人青年の首を刎ねる場面からはじまります。作品には、兵たちが「生肉の徴発」と称して、若い女をあさりにいくところもえがかれています。
 中国戦線では、捕虜や邪魔者を殺戮するのが日常茶飯事となっていました。
 このルポには、そんな日本軍の残虐ぶりが、次から次へととらえられています。たぶん、それが発禁になった理由でしょう。
 しかし、この作品を読みながら、著者は「嫌悪」を覚えたと記しています。
「作家[石川達三]もまた侵略戦争の『いきほひ』に呑まれ、悪鬼の饗宴に魅入られていたのではないか」
 殺戮は軍のあたりまえの行動として、好奇の目にさらされていたのです。
 そうした嫌悪は、映画監督、小津安二郎の軍隊経験にも向けられます。小津は1937年に応召し、中国各地を転戦し、2年後の夏、日本に戻ってきます。
 戦場でも、ずっと映画のことを考えており、「撮影に就ての《ノオト》」を残しています。
 その一プロット。中国の老婆が兵営にあらわれ、自分の娘が日本兵に強姦されたと、部隊長に抗議します。部隊長はいちおう兵隊の一人ひとりに問いただし、そんな事実はないと答えます。そして、老婆がうなずいた瞬間、抜き打ちに老婆を斬り捨てるというものです。
 田中眞澄著『小津安二郎と戦争』は、これはフィクションではなく、小津が実際の見聞を書きとめたのだろう、としています。
 このプロットは、実際に撮影されることはありませんでした。映画ができていれば、とても劇的なシーンになったでしょう。
 小津は何のためにこうしたプロットを考えたのでしょう。反戦映画をつくろうとしたとは思えません。むしろ、とても酷薄なものを感じます。
 小津にかぎらず、日本人に共通するそうした酷薄さは、子ども時代からすりこまれたものではなかったか、というのが著者の仮説です。
 たとえば、童謡にも歌われる「桃太郎」の話。それは、家来を引きつれて、無邪気に鬼退治をし、鬼ヶ島から金銀財宝を持ち帰る物語です。
 もし、それが「正義」として、心のなかにすりこまれていたとすれば、あらゆる戦争は正義の戦争として意識されることになります。まして相手は、たちの悪い鬼であり、それをどれほど残虐に退治しても、観念上は痛痒を覚えるどころか、痛快ということになるでしょう。
 著者は、小津の映画が「危うい静謐と癇性(かんしょう)」のうえに成り立っていると論じています。そして、観客にとっては、過去の生々しいできごとを、擬似的静謐(と緊張)のなかで忘れさせてくれることが、小津映画の魅力だったのではないかと疑います。
 小津の映画には、不問にふすという黙契があっても、問うという姿勢がない、と著者はいいます。
 たとえば、だれもが中国で日本軍が何をしていたかを知っていたはずです。それを知るべきでないこと、知らずにすませるべきものとしてきたのが、この国の美学でした。
 中国で、日本軍がしてきたことのひとつに「シトツ」があります。著者によれば「シトツとは『刺突』、すなわち、銃剣で人体を突き刺すこと」で、「中国軍の捕虜や民間人を立ち木や柱にしばりつけて、新兵がじゅんばんに銃剣で突き刺す『訓練』をさした」といいます。
 こうした残忍な処刑方法は、広くおこなわれていました。実際に、多くの証言が残されています。それは中国兵、あるいは人間全般を一個の物体として処理できるようにするための訓練でした。
 兵たちは、こうした訓練を終えることによって、人を殺す「達成感」と「喜び」を覚えるようになっていきます。
 小津安二郎自身も「こうした支那兵を見ていると、少しも人間と思えなくなってくる。……ただ、小癪に反抗する敵──いや、物位に見え、いくら射撃しても、平気になる」と語っています。
 そして、あまりにも多い強姦の証言。著者は、強姦をしながら楽しげに「戦友」に手をふる男たちの姿、あるいは強姦を目のはしにいれながらも、みえないふりをして、黙々と大地をたがやす老いた中国の農夫たちの姿を、想起し、記憶します。
「敗戦後のニッポンは朝野あげて記憶の無記憶化にはげんだ」と、著者は書いています。
 しかし、その忘却しようとした記憶が、時に影のようによみがえることがあります。著者は南洋戦線から手脚を失って帰還した親戚の姿に震撼し、街のあちこちに傷痍軍人がいた光景を思いうかべます。酔った父親が「朝鮮人はダメだ。あいつらは手でぶんなぐってもダメだ。スリッパで殴らないとダメなんだ」とひとりごちたことも思いだします。
『もの食う人びと』が「紀行文学大賞」を受賞したとき、選考委員のひとりだった阿川弘之から、元慰安婦との交流をえがいたくだりについて、「きみ、あれ恥ずかしくないのかね?」といわれたこともありました。
 阿川弘之の罵詈は、著者が「けがらわしい」元慰安婦の証言を、忘却すべき記憶のなかから、ふたたび引きだしたことに向けられていました。
 そのとき、著者は言い返せませんでした。「迫力負け」していた、と認めています。
 しかし、あのときはこうすべきだった、と書いています。

〈わたしは間髪入れず(いささか古風だけれど)「黙れ、ファシスト! 恥を知れ!」「化石しろ、醜い骸骨!」とでも大声で叫び、衆人環視下で、かれの顔にビールをぶっかけ、たしか手わたしでもらった賞金百万円と副賞リストの入ったのし袋を床にたたきつけて、いまいちど「化石しろ、醜い骸骨!」とわめき、ウワーハッハッハッと黄金バットのように高笑いしつつ、憤然と退場すべきだったのだ〉

 いまなら、きっとそうしたにちがいありません。

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U3

確かに日中戦争を語る元兵士は殆どいなかった様に思います。
by U3 (2015-11-08 21:47) 

だいだらぼっち

日中戦争の全貌はもっと語られてよいと思います。コメントありがとうございました。
by だいだらぼっち (2015-11-09 06:38) 

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