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渡辺京二『逝きし世の面影』をめぐって(2) [くらしの日本史]

 本書を執筆するにあたって、著者の姿勢ははっきりしていた。
「私たちはすでに滅びた、いや私たち自身が滅ぼしたひとつの文明を、彼ら[外国人観察者]の眼を借りて復元してゆくこと」をめざすと述べている。
 そのため、本書では当時、日本を訪れた外国人の記録がおびただしく引用されるのだが、それをすべて紹介するわけにもいかない。ごく手短にポイントだけまとめることにする。
 幕末、日本にやってきた西洋人は、日本人は概して幸福で満足そうだという印象をいだいた。日本人は陽気で、たえずしゃべりつづけ、笑い転げている、と多くの外国人が書いている。
 住民のもてなしや愛想のよさ、親切さ、礼儀正しさに感銘を受けた外国人は多かった。不機嫌な顔はどこにもみなかったという。
 英国の女性旅行家イザベラ・バードは「私は一度たりとも無礼な目に遭わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない」と書いている。
 スイス人のエメ・アンベールは江戸庶民の特徴として「社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙の才」を挙げ、さらに「陽気なこと、気質がさっぱりとしていて物に拘泥しないこと、子供のようにいかにも天真爛漫であること」を加えている。
 日本人は好奇心にあふれていた。外国人が町にくると、かならずといってよいほど群衆がその宿をとりまいた。
 外国人がおどろいたのは、日本人が子どものように無邪気だったことである。いいおとなが、小さな子どもたちに混じって、凧をあげたり、独楽をまわしたり、羽根をついたりして、遊んでいるのをみて、外国人のだれもがびっくりした。
 英国公使のオールコックは、幕府官僚の「欺瞞」と、浪人の脅威に悩まされていたが、それでも村々のゆたかさや美しさ、民衆の純朴さに賛嘆の念を惜しまなかった。
 アメリカの博物学者、エドワード・モースは自他ともに認める日本びいきであり、自分の見聞きしたことを細大もらさず記録した。
「わたしはたぶん、ばら色の眼鏡をとおして事物を見るという誤謬を犯しているかもしれないが、かりにそうだったとしても、釈明したいことは何ひとつない」と言い切っている。
 それほど、日本が大好きだった。

 幕末の外国人観察者が出会った日本人の表情はあかるかった。それは、民衆の生活が貧しくなかったからだ、と著者は断言する。
 安政3年(1856)に下田に着任した米国公使、タウンゼント・ハリスは、柿崎の住民の身なりがさっぱりしていて、家屋も清潔なことに気づく。さらに、美しい田園風景と段畑をみて、「日本人の忍耐強い勤労」に賛嘆の念を覚えた。
 ハリスのみるかぎり、下田付近の住民はけっして豊かではないが、衣食住の面で満ち足りた生活を送っていると感じられた。
 そのころ長崎に滞在したオランダの海軍軍人、ヴィレム・カッテンディーケも、民衆は「すこぶる幸福に暮らしている」と記した。
 英国公使、ラザフォード・オールコックも「住民は健康で、裕福で、働き者で元気がよく、そして温和である」と証言している。
 かれらは幕府や大名が農民に重税を課していることを知らなかったわけではない。にもかかわらず、肥沃でよく耕された田畑と、手入れの行き届いた森林をみて、村が繁栄していると感じとったのである。

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[道の風景。オールコックの著書から]

 農民への年貢は、天領より藩領のほうが重かったとされるが、長崎に滞在した香港主教、ジョージ・スミスは大村領を旅しながらも「人びとはどこででも、かなりの物質的な安楽を享受している」と思った。
 手入れのゆきとどいた日本の田畑は、外国人の目には農園というより庭園のように感じられた。
 カッテンディーケは「日本の農業は完璧に近い」と記し、オールコックは「自分の農地を整然と保つことにかけては世界中で日本の農民にかなうものはない」と断言する。かれらがとりわけ感動したのは、日本の水田の美しさだった。

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[鋤起こし。オールコックの著書から]

 日本の農業は「産業(industrial)革命」ならぬ「勤勉(industrious)革命」の成果だった、と著者はいう。
 もちろん人びとの生活は、地域によって大きくちがっていた。豊かな村があれば、貧しい村もあった。漁村や山村は貧しく不潔だった。だが、平野にはいると、一転してそこには豊かな田畑と村が広がっていた。
 著者は「私たちは、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)にあえいでいた徳川期の農民という……長くまかり通ってきた定説を一応吟味してみないわけにはいかない」と述べている。
 検地は1700年以来ほとんどおこなわれていなかった。査定石高は変わらない。しかし、農業生産性は向上し、作物の収量は増加していたため、実際の税は、時代とともに軽くなっていた。
 一見重い年貢にもかかわらず、日本の民衆が衣食住に不自由せず、幸せで満足そうな生活を送っていたのは、実質の税率がさほどでもなかったからである。
 日本人の生活はきわめて簡素なものだった。
 カッテンディーケは「日本人が他の東洋諸民族と異なる特性の一つは、奢侈贅沢に執着心を持たないことであって、非常に高貴な人々の館ですら、簡素、単純きわまるものである」と書いている。
 家のなかに、家具はほとんどなかった。あるのは布団と衣装箱、わずかばかりの椀と皿、大きなたらいくらい。
 外国人観察者からみれば、上は将軍から下は庶民まで、日本人の生活は、じつにシンプルで質素だと思われた。
 バードは「日本には東洋的壮麗などというものはない」と記している。
 オールコックは、日本人の生活の「簡素さ」を称賛している。
 ほかにも、日本のくらしのシンプルさをうらやましいと思う外国人は多かった。
 モースは、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と述べている。それはたとえ貧乏人であっても、かれらがあっけらかんと陽気だったことと関係している。
 外国人からみれば、当時の日本の物価はおどろくほど安かった。米と魚が安いので、日本人はかせぎがすくなくても、じゅうぶんにやっていける、と香港主教のスミスは論じている。
 そこには貧しくても、豊かな自然に囲まれ、シンプルで喜びに満ちた生活があった。
「一言にしていえば、当時の日本の貧しさは、工業化社会の到来以前の貧しさであり、初期工業化社会の特徴であった陰惨な社会問題としての貧困とはまったく異質だった」と、著者は評している。
 要するに、幕末の日本の民衆は、産業革命のもたらす荒廃とは無縁に、質素で穏やかな生活をいとなんでいたのである。

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