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栗田勇『芭蕉』から(3) [芭蕉]

 あるじ藤堂良忠(蟬吟)の亡きあと、藤堂新七郎家は4男の良重(よししげ)が嫡子となり、跡を継ぐことになった。
 芭蕉の居場所はない。解雇というのは語弊があるかもしれないが、芭蕉はともかく藤堂家を去ることになった。
 その後、6年間、芭蕉は伊賀にとどまった。そのかん、蟬吟の遺稿整理もしただろう。あるいは北村季吟のいる京にもおもむき、教えを乞うこともあったかもしれない。さらに、蟬吟なきあとの伊賀俳壇の中心となって、俳諧の道に精進していたかもしれない。
 いずれにせよ、重要なのは、芭蕉がみずからもまた一本の風雅の道を歩もうと決意したことである。芭蕉は僧門にもはいらず、武家勤めもしなかった。「この一筋につながる」ことだけを、ひたすら願った。伊賀での6年間は芭蕉が芭蕉になるまでの揺籃期だった。
 ありていにいえば、芭蕉はプロの俳諧師として食っていこうと思ったのである。
 事典では、「俳諧師」に次のような説明がつけられている。

〈俳諧の師匠。近世では連句形式をとった俳諧の連歌が盛んで、その連句の席で指導者の役割をはたした。また、作品のよしあしに応じた評価を下す点者としての活動や、懸賞で作品を募集し勝敗を競う興業行為も行った。江戸では点者組合も結成された。〉

 江戸時代、庶民はともかく、武家や町人のあいだで、俳諧はどうやら現在のカラオケのようにはやっていたように思える。その座をとりもち、できあがった作品に点数をつけるのが俳諧師の仕事であり、俳諧師はその謝礼で生活していたようである。芭蕉の時代からくだると、江戸では点者組合もあったというから、俳諧師の数もけっしてすくなくなかったのだろう。その背景には、貨幣経済の発展がある。
 ところで、人間の世界には歌がつきものである。歌のない世は考えられない。ざっと思い浮かべるだけでも、祝詞(のりと)、民謡、和歌、小歌、小唄、謡曲、長唄、ご詠歌、俳句、歌謡曲、ポップス。それこそ無限にある。これはジャンルこそことなれ、世界のどこでもおなじだろう。
 江戸時代もいろいろな歌が流行した。そのなかで、俳諧ブームを支えたのは、連句の会といってよいだろう。
 連句と連歌はどこがちがうのだろう。
 著者の栗田勇によれば、連歌では俗語や漢語が避けられるのにたいし、連句ではそれらがむしろ積極的に取り入れられ、滑稽と機知が押しだされる。つまり、連句の場は連歌の場よりも堅苦しくなく、楽しく遊べたのである。
 1672(寛文12)年1月25日(旧暦)、29歳の芭蕉は、伊賀上野の天満天神菅原社に最初の著述『貝おほひ』を奉納した。
 芭蕉がプロの俳諧師として自立したことを宣言した一瞬である。
 著者によれば、書名のもとになった貝覆(おおい)とは、開いたはまぐりの殻を左貝と右貝にわけ、同じ絵柄の貝をあわせて、その数を競う上流階級の遊びだったという。それにちなんで、句会では参加者が左右に分かれて、句の勝ち負けを競い、判者がそれを講評し、判定する。
 これは芭蕉が新たにつくりだした俳諧ゲームだった。
 その序文を原文のまま紹介してみる。

〈小六ついたる竹の杖。ふしぶし多き小歌にすがり。あるははやり言葉の。ひとくせあるを種として。いひ捨られし句をあつめ。右と左にわかちて。つれぶしにうたはしめ。其かたはらにみづからが。みじかき筆のしんきばらしに。清濁高下をしるして。三十番の発句あはせを。おもひ太刀折紙の。式作法もあるべけれど。我まま気ままにかきちらしたれば。世に披露せんとにはあらず。名を『貝おほひ』といふめるは。あはせて勝負をみる物なればなり。(後略)〉

 多くの掛けことばや当時の流行を含む記述は、現在では判読するのがむずかしい。しかし、原文からは調子のよさが伝わってくる。
 その意味はおよそ次のようなものだ。

〈小六節でおなじみ小六のついた竹の杖ではあるまいが、節々の多い小唄、あるいはいっぷう変わったはやり言葉を使って、座興の句を集め、左右にわかれて、ふたりが節をつけて歌い、そのかたわらで自分がつたない筆で、うさを晴らすように、句のよしあしをしるした三十番の発句合わせ。進物用の折紙にはうるさい式作法もあるだろうが、そんなうるさい作法はさておいて、わたしが気ままに書き散らしたため、世間に公表しようというわけではない。その書名を『貝おおい』とするのは、両者を合わせて、勝負をつけようとするものだからだ。〉

 この句集では、30番の句合わせがおこなわれ、左右どちらが勝ちかを判定する芭蕉の評が記されている。
 30番の発句は、いまの演歌と同じように、色恋にかかわるものが多く、ときに奴詞(やっこことば)と呼ばれる威勢のよい俗語も取り入れられている。いまとちがうのは、男色や衆道(しゅどう)の沙汰が堂々と歌われていることだ。
 たとえば、その2番をみる。

    左 勝[此男子]
  紅梅のつぼみやあかいこんぶくろ
    右[蛇足]
  兄分に梅を頼むや児桜(ちござくら)

「此男子」とか「蛇足」というのは作者名である。
 そして、芭蕉の判定により、左の「此男子」の句が、右の「蛇足」の句に勝利を収めたことになる。
 芭蕉は左が勝利した理由を、およそ次のように解説する。
 現代語に訳しておく。

〈右の「兄ぶんに頼む児桜(ちござくら)」は、なるほどたのもしい感じがするけれど、このままでは梅の句のようにみえません。むしろ、児桜の句のように思えます。いまでこそ、こんなわたしも、昔は衆道(しゅどう)だったから、ひが耳で、そんなふうに聞こえてしまうのかもしれないけれど。それはともかく左の「こん袋」(小袋)は、趣向もよく分別もよい袋と思えるのにたいし、右の句はどうみても衆道の浮気沙汰。そんなふうに考えて、左をもって勝ちとします。〉

 赤い小袋(こんぶくろ)は小正月の風習で、これを飾って、どんど焼きのお祭りをする。そのころは、ちょうど紅梅のつぼみがふくらむころで、作者は紅梅と赤い小袋を連想で結びつけたのである。
 これにたいし、後者は兄分に甘えている10代の少年の姿を想像させる。芭蕉はこれを否定したりはしていない。自分も少年のころは衆道だったと告白している。じっさい、江戸時代は19世紀にはいる天明のころまで、衆道はさかんだった。
 しかし、どちらも色っぽい句であり、貝覆が貝合わせの趣向をもつように、当時の俳諧の場が、エロスと滑稽、躍動に満ち、人びとに生の充実を感じさせていたことをうかがわせる。いまのカラオケとおなじだ。
『貝おほひ』については、これくらいにしておこう。
 重要なのは、『貝おほひ』という俳諧の新機軸ゲームを編みだすことによって、芭蕉が俳諧師として身を立てる自信を得たことである。
 いまや芭蕉は、文化にあふれた京、大坂ではなく、文化に乏しい新興の江戸に向かおうとしている。この選択は、けっしてまちがっていなかった。

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