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栗田勇『芭蕉』から(2) [芭蕉]

 芭蕉は10代終わりから、主人、藤堂新七郎の嫡男(実際は3男)、良忠(宗正)に仕えるようになった。そのさい、芭蕉は宗房の名を与えられている。
 このころ武家の世界では、文や礼が重んじられるようになっていた。良忠は京都の高名な俳人、北村季吟に俳諧を習い、蟬吟(せんぎん)の号をもらっている。
 芭蕉は北村季吟の添削を乞うため、蟬吟こと良忠の使いとして、何度も京を訪れていたという。そのうち、みずからも季吟の門下になった。
 ところが、あるじの良忠が1666(寛文6)年、25歳で突然、亡くなるのだ。死因はわからない。このとき芭蕉は23歳。
 五千石の武家に仕官しているといっても、芭蕉の身分は小者・中間のたぐいにすぎない。もともとは台所用人、料理人として藤堂家に雇われていたのが、息子の俳諧の相手として重用されるようになっただけのことである。
 芭蕉が宗房の名で19歳のときに読んだ句が記録されている。

    廿九日(29日)立春ナレバ
  春や来(こ)し年や行きけん小晦日(こつごもり)

 明治以前はいまとは日にちの数え方がちがうので、この句のおもしろさは、それがわからなければ理解できない。
 いまでは立春は2月はじめだが、旧暦では元旦前後が立春だった。
 小晦日は大晦日の前日。旧暦でいえば、12月29日である。
 さらにいえば、芭蕉の句は『古今集』冒頭の「年の内に春は来にけり一年(ひととせ)を去年(こぞ)とやら云はむ今年とや云はむ」を踏まえている。
 句の意味は、

〈29日の小晦日なのに立春だ。きょうは初春?それとも年の瀬?〉

 教養がかいまみえ、しかもユーモラス。若さがあって、才気煥発。
「この型は当時流行の、古典をもじった貞門(ていもん)俳諧といわれるもの」と、著者は書いている。
 さらに2年後の1664(寛文4)年の句集では、芭蕉(宗房)とあるじ良忠(蟬吟)の句が、仲良く並んで入選している。

  七夕にかすやあはせも一よ物[伊賀蟬吟]
  姥桜さくや老後の思ひ出(いで)[松尾宗房]
  月ぞしるべこなたへ入(い)らせ旅の宿[松尾宗房]

 『古今集』や謡曲などを踏まえた作品。当時の人なら、あああの歌だとぴんときただろうが、ぼくにはいまひとつわからない。
 しかし、ともかく主従が親しげな様子がうかがえる。このとき芭蕉21歳。
 翌寛文5年11月13日には、藤堂邸で「貞徳翁13回忌追善」俳諧の会が催された。蟬吟(良忠)の主催するこの会には、伊賀俳壇の長老が集まり、芭蕉もその席につらなり、句を詠んだ。
 ちなみに貞徳翁(ていとくおう)とは、松永貞徳(1571-1653)のこと。連歌の一部にすぎなかった俳諧を独立した分野として確立し、古典の教養にもとづく貞門俳諧を広めたことで知られる。いわゆる貞門の創設者であり、師の北村季吟もその一門につながる。
 当時、伊賀では、藤堂新七郎家の若殿、蟬吟を中心に熱狂的な俳句ブームがおこっていた。
 ところが、その矢先に、25歳の蟬吟が急死してしまうのだ。1666(寛文6)年4月25日のことである。
 6月中旬、芭蕉が良忠の遺髪を収めるため高野山に登ったという伝承もあるが、その証拠は残されていない。
 いずれにせよ、良忠の死により、芭蕉は藤堂家から解雇されることになった。
 主家の思いは複雑だったろう。俳諧への過剰なのめりこみが、若殿の夭折を招いたと勘ぐられたことは、じゅうぶんに考えられるからである。
 だが、そうではなかったのかもしれない。蟬吟(せんぎん)という俳号は、短い期間に命を燃やし、歌い尽くし、消えていくはかなさを暗示しているようにもみえる。藤堂良忠は不治の病にかかっており、みずからの命がまもなく消えることを知っていたのではないだろうか。
 だとすれば、良忠の俳友、芭蕉の存在は、主家にとってもありがたかったのではないか。そして、その死は想像以上に、芭蕉に人の存在論的根拠を問う衝撃力を秘めていたはずである。
 藤堂家を離れた芭蕉は、しかし、すぐに伊賀を去らない。
 それから29歳で江戸に下るまでの6年間を伊賀ですごしている。
「とくに芭蕉の場合、この時期の過ごし方は決定的な意味を持っている」と、著者は指摘する。
 芭蕉はときどきの思いを俳句に託したとはいえ、自身は伝記ふうの文章を残していない。しかし、1690(元禄3)年、芭蕉47歳のときにつづった『幻住庵記』には、おのれの歩みをふり返った一文が残されている。
 原文の格調をそこなうのは承知で、現代語訳してみよう。

〈自分はあえて閑寂を好んだわけではないけれど、からだが弱いあまりに、世間ぎらいになった人に似ているようだ。どういうわけか、仏門にもはいらず、仕事にもつかず、人に道義を説くこともなく、武家勤めもせず、ただ若いときから無茶苦茶好きなことがあって、そればかり夢中になっていたため、万事に身がはいらず、ついに無能無才のまま、この一筋につながることになった。歌では西行、宗祇(そうぎ)、絵では雪舟、茶では利休、愚かな自分をそうした賢人と並べるのはおこがましいにせよ、そこには一本の道が貫いている。(略)人の一生もこれと同じ。夢のごとく、また幻のごとく、人はいまという時空を生きているのだ。〉

 あるじの死後、故郷伊賀ですごした6年間はけっして短い期間ではない。
 だが、この期間に芭蕉は「この一筋につながる」という決意を固めたのである。
 多くの迷いはあったにちがいないが、何があっても、自分もまた一本の風雅の道を歩むと決意するまでには、並々ならぬ修行と格闘を要したはずである。
 次回はそのあたりをみていきたい。

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