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深川芭蕉庵──栗田勇『芭蕉』から(5) [芭蕉]

 延宝8年(1680)、芭蕉37歳。
 芭蕉は日本橋河岸に近い、小田原町の小沢太郎兵衛(卜尺)の貸屋に住んでいる。
 そのあたりはというと、
「日本橋の魚市、駿河町の呉服店、本町の薬種店、大伝馬町の木綿店、伊勢町の米河岸・塩河岸、十軒店(通町の十間店)の雛市というように、日本橋の北界隈には多彩な商店が展開していた」(高橋庄次『芭蕉伝新考』)
 芭蕉は江戸のにぎやかな商業地の中心で暮らしていた。かれの俳諧活動を支えていたのは、まさに江戸町人だった。
 芭蕉が妻帯していたこともつけ加えておくべきだろう。
 芭蕉には3人の子がいる。延宝6年(1678)までに、そのうちふたり、二郎兵衛と長女のまさが生まれていた。また、父親を亡くした甥の桃印(とういん)を、養子として迎えいれている。
 延宝8年9月には桃青版の『俳諧合田舎其角(はいかいあわせいなかきかく)』、『俳諧合常磐屋杉風(ときわやさんぷう)』が刊行された。桃青(芭蕉)門下の句作は、ますます活発になっている。
 そのころ芭蕉は荘子(そうじ)に傾倒していた、と栗田勇は書いている。
「芭蕉は、流行する連歌、連句が言葉遊びの娯楽におちいり、一時しのぎの滑稽の座に落ちていくのを批判し、強い反発を覚えていた」
 芭蕉が荘子に傾倒したのは、漢学を和様化することによって、「形骸化した俳諧を粉砕しようとした」ためではないか、と栗田は論じている。
 中国では明清交代期の戦乱が収まり、1644年に清が中国を支配するようになった。そのころから東アジアの「平和と安定」期がはじまるとともに、日本に中国文化の波が押し寄せていた。
 明治期が「西洋化」の時代だったように、意外にも江戸前期は上層から庶民にいたるまで「中国化」が浸透する時代だったというのは興味深い。
 芭蕉が荘子を読みふけったのも、中国思想の流行とけっして無縁ではない。荘子だけではない。芭蕉は杜甫や李白、蘇東坡などの詩にもふれていた。
 そのさなか、大きなできごとがおこる。
 10月21日、新小田原町から出火し、芭蕉の住む小田原町の貸屋が焼けてしまうのである。
 その冬、芭蕉は深川村の草庵に居を移した。その場所は隅田川と小名木川(おなきがわ)、六間堀に囲まれ、船の往来も盛んだった。芭蕉は杜甫の詩にちなんで、みずからの草庵を「泊船堂」と名づけた。
 翌年春、門下の李下が、庭の端にバショウを植えた。バショウは大きな葉を茂らせる。芭蕉はこの木がおおいに気に入り、草庵の名を「芭蕉庵」と変えた。さらに俳号として、芭蕉を名乗るようになった。
 芭蕉はなぜ江戸俳壇の中心である日本橋から離れて、隅田川端の深川に居を移したのだろうか。隠棲の思いが強かったという。
 栗田勇はこう書いている。

〈37歳での深川べりの入庵は、貧しさを承知で、侘び住まいの中での俳諧の創作活動に熱中するためであったと思われる。その背景には「無為の自然」を道とする荘子や杜甫の精神を踏まえることはもちろんのこと、西行の乞食僧(こつじきそう)として乞食行脚をする境遇への追慕の念も深かったのであろう。〉

 芭蕉庵に移り住んでから1年後の天和元年(1681)に、芭蕉は「寒夜の辞」と呼ばれる文と句を残している。現代語訳しておこう。

〈深川三つ叉のほとりに侘びしい草庵を結んで、遠くは富士の雪をのぞみ、近くは万里をいく船をながめる。あさぼらけに漕ぎゆく船の航跡、芦の枯れ葉の夢のように吹く風、夕方をすぎると、月を見ながら空樽を前に時をすごし、枕に頭をのせながら布団の薄さを嘆く。〉

 そのときの句。

  櫓(ろ)の声波を打(うっ)て腸(はらわた)氷(こお)る夜や涙

 芭蕉庵の前を流れる隅田川の向こう岸は、深川三つ叉と呼ばれ、芦の茂る中洲が川を分けていた。現在、この中洲は残っていないが、その懐かしい光景は広重の「東都三十六景」にも描かれている。

広重「東都三十六景中洲三つ叉.jpg
[広重「東都三十六景中洲三つ叉」]

 そして、この年、芭蕉は「茅舎の感」と題する有名な句を詠んだ。

  芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞(きく)夜哉(かな)

 芭蕉は見たものを伝えるだけではない。音の詩人でもある。
 川をこぐ櫓の音、嵐、そして盥に落ちる雨音が、空間の広がりを想像させる。

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