お七火事──栗田勇『芭蕉』から(7) [芭蕉]
中村不折(1886-1943)が祖父の原画を写したとされる芭蕉庵の絵が残されている。
[中村不折「深川芭蕉庵」]
19世紀初頭には、まだ芭蕉庵が残っていたのだろうか。芭蕉の実際の住まいがこんなふうだったかどうかはわからない。とはいえ、バショウが生命力あふれる木であることは絵からも伝わってくる。
そういえば、京都の相国寺(しょうこくじ)を訪れたとき、鹿苑寺(金閣寺)大書院のための芭蕉図を見たのをふと思いだした。描いたのは伊藤若冲(1716-1800)である。芭蕉はほんらい南方の木で、禅宗とゆかりが深い。それは禅宗が中国の江南に拠点を構えていたことと関係しているのだろう。
[若冲「芭蕉図」]
芭蕉は延宝8年(1680)冬、隅田川と小名木川のほとりに泊船堂という草庵(のちの芭蕉庵)を建て、そこで暮らすようになった。
翌延宝9年春、弟子の李下からバショウ1株を贈られ、それを植えたところ、北限の地にもかかわらず幸いにも育ったことは、前にも記した。
そのとき芭蕉が詠んだ句。
ばせお(バショウ)植ゑてまづ憎む萩の二(ふた)ば哉(かな)
出はじめの萩の双葉がバショウの成長を妨げないか、心配でたまらないのだ。
その年9月に改元があり、年号は延宝から天和になった。
その秋に台風がやってきたときも、芭蕉はバショウのことが気になって仕方なかった。
芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞(きく)夜哉(かな)
雨漏りより外のバショウのことが気になっているみたいだ。
晩年の元禄5年(1692)の秋、49歳の芭蕉は「芭蕉を移す詞(ことば)」で、こんなふうに述べている。現代文にしておく。
〈ある年、庭にひともとのバショウを植えた。風土がバショウの心にかなったのだろう。数株の茎を備えて、その葉が茂り重なって庭を狭め、カヤの軒端も隠すほどになった。人がこの草庵を芭蕉庵と呼ぶようになったのはそのためだ。(中略)その葉は2メートルあまり。風で半ば破れて、ちょっと悲しい風情がある。たまに花をつけることもあるが、はなやかではない。茎は太いけれど、かつて荘子が無用の用を悟った木と同じく、材木にはならない。その性(さが)は尊ぶべきものがある。〉
そのころの芭蕉の心境について、栗田勇は次のように書いている。
〈[芭蕉は]深川に独り隠棲の途をえらんで、富士と隅田川の山水の風景に、歌をこえた歌、詩をこえた詩、ことばをこえたあるものを、心深く追求し、老荘の文や、仏頂和尚の禅に親しくなじみながら、バショウの破れ葉に我が身をやつしている……〉
芭蕉はバショウそのものだったのである。
そのころ、イベントやショーのような俳諧の世界からは身を引いたため、芭蕉の生活は苦しくなったものの、その心もちはかえって晴れ晴れとしていた。
門人たちが芭蕉の暮らしを支えてくれるから、つましいにちがいないが、食べるのには困らない。芭蕉庵にしても、日本橋の魚商人で門人の杉山杉風(さんぷう、1647-1732)の番小屋を改装したものだ。
芭蕉庵のバショウが根づきはじめた延宝9年(1681)5月15日、芭蕉は句作指導を乞うてきた甲斐の高山伝右衛門(俳号は麋塒[びじ]=シカのねぐらといった意味合い、1649-1718)に手紙を出している。
栗田によれば、この手紙で、芭蕉は京、大坂、江戸の俳壇の「古さ」を指摘し、昔ながらの貞門、談林風の俳諧になずむ宗匠たちを一刀両断し、新しい俳諧をとるべしとした。抽象的な表現をやめ、古人の名を借りず、具体的で平易に、心に刻まれたものを句にするよう、高山麋塒に指導している。
このころの芭蕉はまだ若々しい。
翌天和2年(1682)暮れの12月28日、江戸で大火が発生した。
いまの時間でいうと、午後3時ごろ、駒込大円寺から出火し、火は本郷、上野、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川へと回り、深夜になってようやく鎮火した。
多くの大名、旗本屋敷、寺社が焼けた。死者3500人。
両国橋は焼け落ち、芭蕉庵も焼失した。芭蕉は火が迫るなか、川につかって、難を逃れたと伝えられる。
幕末から明治にかけてつくられた『武江年表』によれば、大円寺に放火したのは、駒込の八百屋久兵衛の娘お七ということになっている。この記述は誤りで、天和の大火をお七火事と呼ぶことから、作者が勘違いしたものだろう。
お七の名を有名にしたのは西鶴の物語や歌舞伎などである。それによると、お七一家は天和の大火で焼けだされ、駒込正仙寺に身を寄せたところ、お七が寺小姓の庄之介と恋に落ちたことが悲劇の発端だ。お七はむしろ天和の大火の被災者である。
お七は家に戻ったあとも庄之介が恋しいあまり、火事があればまたかれに会えると思い込み、翌年3月2日夜に放火事件をおこす。火はぼやで、すぐ消し止められたが、16歳のお七はとらえられ、引き回しの末、天和3年(1683)3月29日に鈴ヶ森刑場で、火刑に処された。
この物語が実話なのかどうかは、わからない。
それはともかく、芭蕉が天和2年暮れの大火で、草庵を焼けだされたことは事実である。
芭蕉はその後、手紙でも交流のあった、甲斐都留(つる)郡谷村(やむら、現都留市)の高山伝右衛門(麋塒)宅にしばらく身を寄せることになる。
江戸に戻るのは天和3年5月のことである。
[中村不折「深川芭蕉庵」]
19世紀初頭には、まだ芭蕉庵が残っていたのだろうか。芭蕉の実際の住まいがこんなふうだったかどうかはわからない。とはいえ、バショウが生命力あふれる木であることは絵からも伝わってくる。
そういえば、京都の相国寺(しょうこくじ)を訪れたとき、鹿苑寺(金閣寺)大書院のための芭蕉図を見たのをふと思いだした。描いたのは伊藤若冲(1716-1800)である。芭蕉はほんらい南方の木で、禅宗とゆかりが深い。それは禅宗が中国の江南に拠点を構えていたことと関係しているのだろう。
[若冲「芭蕉図」]
芭蕉は延宝8年(1680)冬、隅田川と小名木川のほとりに泊船堂という草庵(のちの芭蕉庵)を建て、そこで暮らすようになった。
翌延宝9年春、弟子の李下からバショウ1株を贈られ、それを植えたところ、北限の地にもかかわらず幸いにも育ったことは、前にも記した。
そのとき芭蕉が詠んだ句。
ばせお(バショウ)植ゑてまづ憎む萩の二(ふた)ば哉(かな)
出はじめの萩の双葉がバショウの成長を妨げないか、心配でたまらないのだ。
その年9月に改元があり、年号は延宝から天和になった。
その秋に台風がやってきたときも、芭蕉はバショウのことが気になって仕方なかった。
芭蕉野分(のわき)して盥(たらい)に雨を聞(きく)夜哉(かな)
雨漏りより外のバショウのことが気になっているみたいだ。
晩年の元禄5年(1692)の秋、49歳の芭蕉は「芭蕉を移す詞(ことば)」で、こんなふうに述べている。現代文にしておく。
〈ある年、庭にひともとのバショウを植えた。風土がバショウの心にかなったのだろう。数株の茎を備えて、その葉が茂り重なって庭を狭め、カヤの軒端も隠すほどになった。人がこの草庵を芭蕉庵と呼ぶようになったのはそのためだ。(中略)その葉は2メートルあまり。風で半ば破れて、ちょっと悲しい風情がある。たまに花をつけることもあるが、はなやかではない。茎は太いけれど、かつて荘子が無用の用を悟った木と同じく、材木にはならない。その性(さが)は尊ぶべきものがある。〉
そのころの芭蕉の心境について、栗田勇は次のように書いている。
〈[芭蕉は]深川に独り隠棲の途をえらんで、富士と隅田川の山水の風景に、歌をこえた歌、詩をこえた詩、ことばをこえたあるものを、心深く追求し、老荘の文や、仏頂和尚の禅に親しくなじみながら、バショウの破れ葉に我が身をやつしている……〉
芭蕉はバショウそのものだったのである。
そのころ、イベントやショーのような俳諧の世界からは身を引いたため、芭蕉の生活は苦しくなったものの、その心もちはかえって晴れ晴れとしていた。
門人たちが芭蕉の暮らしを支えてくれるから、つましいにちがいないが、食べるのには困らない。芭蕉庵にしても、日本橋の魚商人で門人の杉山杉風(さんぷう、1647-1732)の番小屋を改装したものだ。
芭蕉庵のバショウが根づきはじめた延宝9年(1681)5月15日、芭蕉は句作指導を乞うてきた甲斐の高山伝右衛門(俳号は麋塒[びじ]=シカのねぐらといった意味合い、1649-1718)に手紙を出している。
栗田によれば、この手紙で、芭蕉は京、大坂、江戸の俳壇の「古さ」を指摘し、昔ながらの貞門、談林風の俳諧になずむ宗匠たちを一刀両断し、新しい俳諧をとるべしとした。抽象的な表現をやめ、古人の名を借りず、具体的で平易に、心に刻まれたものを句にするよう、高山麋塒に指導している。
このころの芭蕉はまだ若々しい。
翌天和2年(1682)暮れの12月28日、江戸で大火が発生した。
いまの時間でいうと、午後3時ごろ、駒込大円寺から出火し、火は本郷、上野、下谷、神田、日本橋、浅草、本所、深川へと回り、深夜になってようやく鎮火した。
多くの大名、旗本屋敷、寺社が焼けた。死者3500人。
両国橋は焼け落ち、芭蕉庵も焼失した。芭蕉は火が迫るなか、川につかって、難を逃れたと伝えられる。
幕末から明治にかけてつくられた『武江年表』によれば、大円寺に放火したのは、駒込の八百屋久兵衛の娘お七ということになっている。この記述は誤りで、天和の大火をお七火事と呼ぶことから、作者が勘違いしたものだろう。
お七の名を有名にしたのは西鶴の物語や歌舞伎などである。それによると、お七一家は天和の大火で焼けだされ、駒込正仙寺に身を寄せたところ、お七が寺小姓の庄之介と恋に落ちたことが悲劇の発端だ。お七はむしろ天和の大火の被災者である。
お七は家に戻ったあとも庄之介が恋しいあまり、火事があればまたかれに会えると思い込み、翌年3月2日夜に放火事件をおこす。火はぼやで、すぐ消し止められたが、16歳のお七はとらえられ、引き回しの末、天和3年(1683)3月29日に鈴ヶ森刑場で、火刑に処された。
この物語が実話なのかどうかは、わからない。
それはともかく、芭蕉が天和2年暮れの大火で、草庵を焼けだされたことは事実である。
芭蕉はその後、手紙でも交流のあった、甲斐都留(つる)郡谷村(やむら、現都留市)の高山伝右衛門(麋塒)宅にしばらく身を寄せることになる。
江戸に戻るのは天和3年5月のことである。
2017-09-06 17:13
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