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野ざらしの旅──栗田勇『芭蕉』から(9) [芭蕉]

 芭蕉は貞享(じょうきょう)元年(1684)8月から貞享2年4月にかけ、長い旅にでる。
 その旅の前半を栗田勇は次のように要約している。

〈貞享元年(1684)8月、41歳の芭蕉は、門人千里(ちり)を伴い、「野ざらしを心に」、つまり野垂れ死にを恐れず、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、故郷の伊賀国に着いたのは9月の初め、前年に亡くなっていた母の遺髪に慟哭(どうこく)。千里と別れ、ひとり大和国吉野の奥に西行の跡を訪ねた。〉

 苗村千里(?-1716)は芭蕉の門人で大和の竹内(たけのうち)村(現葛城市當麻[たいま]町)出身。芭蕉に同行したのは、かれもまた帰郷するためだったろう。
 栗田の簡潔な要約にしたがえば、貞享元年の旅で、芭蕉が目的としたのは、前年6月に亡くなった母の菩提をとむらい、西行ゆかりの地を訪ねることであった。
 著作を刊行する予定などなかった。しかし、感興にまかせて、筆を走らせ、句を詠み、絵を添えるにつれて、それはおのずから紀行となった。
 その著作のタイトルは芭蕉みずからつけたのではない。その草稿を、のちの人が『野ざらし紀行』とも『甲子吟行[画巻](かっしぎんこう[えまき])』とも呼ぶようになったのである。
 紀行は地の文と句、絵によって構成されている。

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[『野ざらし紀行』冒頭]

 その冒頭を現代文にしてみよう。

〈千里の旅を行くにあたり、道中の糧食を用意するわけでもない。「三更(さんこう)月下無何(むか)に入る」[夜半の月下、無為自然の境地]と歌った昔の人[荘子]の杖(つえ)[教え]を頼りにして、貞享甲子(かっし)秋8月[1684年9月]、川岸の破れ家を出発する。風の声がいかにも寒げだ。

  野ざらしを心に風のしむ身かな
  秋十年(ととせ)かへつて江戸をさす故郷

箱根の関を越える日は雨が降って、山がすっかり雲に隠れていた。

  霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき〉

 実際の原文では、地の文は1字下げで書かれ、句は天つきで書かれているが、ここでは便宜上、それを逆にしてみた。
 芭蕉の旅立ちはいかにも不安げにみえる。カネもなければ、からだに自信があるわけでもない。まるで乞食坊主のような旅立ち。
 野ざらしとは、野にさらされる遺骸(むくろ)のこと。旅先で野垂れ死にするかもしれない哀れな身だ。
 もちろん、そのイメージは虚構であり、半ばつくられた気分だったかもしれない。けっしてカネがあるとはいえないが、旅の目算はついていた。むしろ旅に出られるなら、いつ死んだっていいという喜びの気分のほうが強い。
 しかし、いざ出発してみると、江戸にきて早くも10年、江戸がもう第二の故郷になっていることに、いまさらながら気づく。多くの門人や俳友との別れはつらい。そこで、芭蕉はまた帰ってくるよと歌うのである。
 箱根の関を越えたときは、雨が降っていて、天気が悪かった。道は難渋しただろう。
 これまでは毎日、富士を仰ぎ見ながら、東海道を歩んできた。きょうは霧しぐれのなか、富士がまったく見えない。だが、見えないからこそ、さまざまな姿を思い起こし、富士がかえってしのばれるのである。
 芭蕉がショックを受けたのは、富士川を船で渡ったときである。川のほとりに3つぐらい(いまなら2歳)の子が捨てられているのを見た。
 現代文にすると、こう記している。

〈富士川のほとりを行くと、3つぐらいの捨て子があわれげに泣いていた。この川の激しい流れを思うと、浮き世の波をしのぐことはできまい。露ばかりの命を待つだけであろうと捨て置いてしまった。小萩に秋風が吹くなか、花はこよい散ってしまうかもしれない。あすにはしおれてしまうかもしれない。そう思うと切なくなり、たもとから食べるものを取りだし、投げて通ると

  猿を聞く人捨て子に秋の風いかに

いったいどうしたのだろう。お前は父に憎まれたのか、母に疎(うと)まれたのか。父がお前を憎んだわけではあるまい、母がお前を疎んだわけでもあるまい。これは宿命なのだ。お前はわが身のつたなさを泣くがいい。〉

 猿の句は、渓谷で猿が啼くのを詠んだ杜甫の詩「秋興八首」を踏まえているという。あるとき聞こえてきた猿の悲痛な声は、旅する杜甫の心を動かし、断腸の思いを誘った。
 芭蕉もまた明日をも知れぬ、この人捨て子の運命に思いをはせている。
 人の世ははかない。しかし、たくましく生きよという願いが猿の一語にこめられている。
 次はいよいよ東海道の難所、大井川である。
 江戸幕府はここを攻守の要とし、架橋、渡船を許さなかった。そのため、大井川を渡るには主として輦台(れんだい)か肩車に頼らねばならなかった。旅人は渡しを仕切る人足たちに悩まされたようである。
 芭蕉の記録は、こうである。例によって現代文で。

〈大井川を越えるはずの日は、一日中雨が降っていたので、

  秋の日の雨江戸に指をらん大井川[千里]

 馬上の吟

  道のべの木槿(むくげ)は馬に食はれけり

二十日あまりの月[未明の有明の月]がおぼろに見えて、山ぎわはまだ暗い。馬上でうとうとしながら何里か進むが、まだ鶏も鳴かない。杜牧の詩でいう早行の残夢を味わっているうちに小夜(さよ)の中山に着いたので、とつぜん目が覚める。

  馬に寝て残夢月遠し茶の煙(けぶり)〉

 芭蕉は大井川で句を詠まず、同行の千里(ちり)の句に、みずからの感想をゆだねている。
「秋の日の雨」と字余りにしたのは、雨にうんざりする様子をあらわしたものか。江戸では、友人たちが、そろそろ大井川を渡るころかと指おり数えているかもしれない。これから大井川を越える緊張感のようなものが伝わってくる。
 これにたいし、芭蕉の吟は、大井川を越えて、ほっとした様子をえがいたものか。
 芭蕉は金谷宿から馬に乗っている。
 栗田はいう。
「未明の薄闇のなかに、仄白(ほのじろ)く浮かぶ木槿の花と香りに取り合わせも優美であり、薄明の中でとつぜん馬が木槿の花を食うというのも、深みが増してよい風景であろう」
 芭蕉の地の文は、唐の杜牧(803-52)の「早行の詩」にしたがう。
 芭蕉は早朝、馬に乗って出発し、夢うつつで小夜の中山に着いた。
 有明の月がまだ残っている。
 静岡県で茶畑が盛んにつくられるのは明治以降だ。江戸期は、このあたりまだ茶畑が広がっていない。

〈「茶の煙」は、峠の茶屋の朝茶を淹(い)れる煙か、民家の朝の食事の煙かもしれない。あるいは芭蕉のフィクションかもしれない。〉

 栗田はそう書いている。
 だが、芭蕉は小夜の中山に着いて、びっくりし、とつぜん目が覚める。
 そこが訪れたいと念願していた、西行ゆかりの歌枕の地だったからである。

広重「53次」.jpg
[広重『東海道五十三次』日坂、佐夜ノ中山]

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