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国民と教育──カーク『保守主義の精神』を読む(8) [本]

「新しい保守主義と新しい急進主義を導入したのは、ディズレーリとマルクスという二人のユダヤ人である」とカークは書いている。ふたりは思想的にも立場上も対極の位置にあったが、同じころ30年にわたってロンドンで暮らしていた。
 ここで取りあげられるのは、ベンジャミン・ディズレーリ(1804〜81)のほうである。ディズレーリは1837年に保守党下院議員となり、1852年以降、ダービー伯内閣のもとで何度か蔵相を歴任し、1868年と1874〜80年に首相を務めた。自由党のウィリアム・グラッドストーン(1809〜98)とは好敵手の関係にあった。
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[ディズレーリ。ウィキペディアより。]
 ディズレーリは「トーリー主義を再興し、功利主義的な自由主義との融合から救い出した」と、カークはいう。イギリスで現在も保守党が強い勢力を保っているのは、ディズレーリのおかげだという。つけ加えるなら、かれは政党の党首としてだけでなく、小説家としてもすぐれた才能をもっていた。
 ディズレーリは平等という思想を嫌った。社会には多様性が必要であり、人は所属階級に応じた権利と義務が求められる。そして、政治において、もっとも重要なのは、秩序の原理だと考えていた。
 この時代は自由主義の半世紀であり、1832年に選挙権を得た下層中産階級の時代でもある。自由貿易、自由企業、競争的個人主義が唱えられていた。しかし、「思想的には経済的成功と精神的個人主義に傾倒しきった環境の中で、人々は陰惨をきわめ埃だらけの醜悪な都市で単調な労役を強いられていた」とカークはいう。そうしたなかで、ディズレーリは改革派トーリーの立場を打ちだしていく。
 1832年の選挙法改正によってトーリー党は崩壊した。ディズレーリはそれを再建し、保守党の基盤をつくることに貢献した。
 カークによるとユダヤ人急進主義者は例外であって、ユダヤ人はほんらい保守的なのだという。ディズレーリはそのユダヤ人気質を引き継いでいる。
 ディズレーリは、国家の安定は、階級の対立ではなく、階級の和解、富者と貧者の再統合にかかっているとみていた。階級は秩序であり、その秩序のもとで、それぞれの立場における義務を果たすことを前提にしてこそ、民主主義は成り立つというのが、ディズレーリの考え方だ。
 ディズレーリはホイッグ党に妥協したピール派と縁を切り、保守党の再生を実現した。ディズレーリの功績としては、1867年の選挙法改正、工場法、学校補助金、公共住宅制度などが挙げられる。
 しかし、それは表面上のことで、「ディズレーリの偉大な業績は、市民の想像力のなかにトーリー主義のひとつの理想を植え付けたことにある」とカークはいう。ひとつの理想、それは、つまり「国民という思想」である。労働者階級でも保守党を支持する人は、いまでもけっして少なくない。それはディズレーリの想像力が生みだした成果なのだ。
 カークはこう書いている。ディズレーリは「ベンサム派の原子論的社会観を拒否し、台頭する社会主義者らの敵対的階級観を嫌悪し、人々は単なる経済単位の集合ではなく、階級闘争の単なる歩兵でもなく、英国人は国民を形成しているのであり、国王と貴族と国教会はその守護者であるということを英国人に思い起こさせた」。この思想を広めたことこそが、じつはディズレーリの最大の功績だったという。
 ホイッグ党の寡頭政治、俗物中産階級の自由主義、社会転覆をはかる急進派、そのいずれもがイギリス国民に希望を与えていない。人民ということばは、まったくナンセンスだ。保守のトーリーこそが、真の庶民、すなわち国民を救うのだ、とディズレーリは訴えた。
 ディズレーリは産業化が進行しつづけるなか、農村や都市で増えつづけている貧民の実態をよく知っていた。だが、かれらの救済を独断的な改革者の手にゆだねてしまったら、とんでもないことになり、国は滅びると思っていた。
 ディズレーリは、だいじなことは、自己本位や個人主義を捨て、共同体の感覚、国民の一体性、真の信仰の感覚を取り戻すことだと考えていた。そのためには王室への敬意の復活、国教会の再活性化、地方や農業の保護、労働者階級の生活条件の改善が必須となる。こうした一連の改革は、ディズレーリにすれば革命ではなく、一種の復古だった。
 保守党の政治信条が保たれた結果、さまざまな激動をへても、イギリスという国自体は分解することなく、いまでも安定している。「これは見事な保守的成果であり、ディズレーリの業績である」とカークは断言する。「ディズレーリは保守主義が専制でなく、自由主義よりも大衆の味方であることを証明してみせた」
 1867年の選挙法改正により、イギリスでは労働者階級にも選挙権が与えられ、民主化がさらに進むことになった。ディズレーリは労働者階級が政治的に優位に立つことを望んでいなかった。とはいえ、いったんはじまった民主化の勢いは止まらない。ついには1928年の21歳以上男女平等の普通選挙権確立にまでいたる。
 しかし、そうした民主化の渦のなかでも保守党は生き残る。ディズレーリはいう。労働者は何ももたないというのは間違いだ。労働者も自由や正義、自身や家族の安全、公正な法の執行、自由な産業活動を守りたいはずだ。であるなら、労働者が保守党を支持するのもとうぜんのことだ。
 カークの結論。ディズレーリは「英国の古くからの諸制度を維持し、帝国を保持し、人々の置かれた条件を向上させること」によって、保守党を力強く知性ある政党としてよみがえらせたのだ。
 さらに先に進むことにしよう。
 ディズレーリの名前は聞いたことがある人も、ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801〜90)について知る人は少ないだろう。イングランド国教会の司祭だったが、1845年にカトリックに改宗、最後はローマ・カトリック教会の最高顧問にあたる枢機卿になった。信仰復興と教会改革をめざした1830年代半ばのいわゆるオックスフォード運動の指導者でもあった。
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[ジョン・ヘンリー・ニューマン。ウィキペディアより]
 カークはニューマンこそ政治を超越した真の保守主義者だったと評価している。瞑想的な人物だったが、それでもベンサム主義者と戦うことを余儀なくされた。1832年の選挙法改正によって、議会では非国教徒や合理主義者の勢いが強まり、国教会への包囲網が敷かれるようになったからである。自由主義者の扇動家によって、国教会の牧師たちは次第にやりこめられるようになっていた。
 こうした動きにたいし、国教会の内部刷新をはかろうとしたのがオックスフォード運動である。オックスフォード大学を中心に展開されたことから、その名がある。ニューマンはその指導者となり、国教会の信仰のなかに伝統的要素を復活させることに成功した。それによってベンサム主義者は敗れ去るのだ。
 カークによれば、政治の上には倫理があり、さらにそのうえには信仰の問題が横たわっているという。ニューマンは、社会は信仰があってこそ保たれると信じていた。知は力なりの思想にニューマンは抵抗した。世俗的知識は精神的成長をもたらすとはかぎらない。自己のうちに信仰をもたなければ、それは行動の指針にはならない。知識がむしろ人を苦しませることもある。精神の悪を抑えるには、目に見えないものをおそれることが、唯一の対策である。
 ニューマンはいう。

〈生きることは行動することである。……行動することは、何事かを引き受けて責任を担うことだ。引き受けること、それが信仰である。〉

 ニューマンは良識や常識と同じように「推定識」という概念をもちだす。こうすれば、こうなるという予測のようなものだろう。それは行動の指針となるが、つねにそれはある種の権威を参照しながら、修正していかねばならない。その権威とは良心や聖書、教会、格言、伝統、教訓、賢人のことば、などだという。
 功利主義者は英知につながる推定識や信仰を無視していた。しかし、信仰が社会の強力な支え、孤独な人間の慰めとなっていることはまちがいない。功利主義のように疑ってばかりいては何も学べない、とニューマンはいう。まず信じてみることからはじめるべきだ。
 自由主義の神髄は個人の私的な判断である。それは傲慢に満ちたあやまりをもたらす可能性が強い。人間の理性の優位を主張する自由主義者は、キリスト者の謙遜を忘れている、とニューマンはいう。
 真の自由は、神の命令の範囲で生きる自由であって、そのために人は教養という知的訓練を積まなければならない、とニューマンは主張した。ニューマンは大衆教育を重視した。それは人が神のしもべとなり、同時に自分自身の主人となるための訓練だった。教育とは学ぶことによる陶冶である。つまり徳と信仰を結びつけることだ、とニューマンはいう。「信仰の真実を学ぶことは、知識全般のひとつの条件である」
 教養教育(リベラル・エデュケーション)において、人は哲学的習慣、すなわち自由、公平、冷静、中庸、英知を身につけねばならない。それは知的野心を慎み、正しい理性を学ぶ訓練である。人は知識や理性といった手段だけで、欲情やうぬぼれと闘うことはできない。教育は知性に秩序を与えるほんのとば口を示すだけだが、いったん教養教育がなされれば、その後の道筋は個々人の鍛錬によって切り開かれていくだろう。
 こうした考え方は、教育を国家の手にゆだね、学校の平準化をもたらそうとした功利主義者の思想とはまったく異なっている、とカークはいう。教養教育を忘れた職業技術教育が、自由主義化するイギリスの基本方針になろうとしていた。「国家による、非宗教で画一化され全国共通の義務化された無償(フリー)教育というベンサムの理想は、1870年代に実現に向かいだした」と、カークは慨嘆する。
 ニューマンの功績は、教養あるジェントルマンをつくるための教育という理念を打ちだしたことだ。そうしたジェントルマンがいなければ、社会は重苦しいものになってしまうだろう、とカークはいう。新しい神学と教育理念を打ち立て、功利主義的有用性の思想が蔓延するのを防いだニューマンの業績は大きい、とカークは強調している。
 この回を終わるにあたって、カークによるまとめをみておこう。
 カークはいう。
 ベンサム主義の時代は、1825年ごろにはじまり、1865年から70年のあいだに終わったが、そのあとを引き継いだのはマルクス主義やフェビアン主義だった。後期のジョン・スチュアート・ミルは社会主義に接近し、急進自由主義者のジョン・ブライトは福祉政策のために公的資金を導入すべきだと主張するようになっていた。
 1875年以降、保守党は穏健な政策をかかげ、自由党の離党者をみずからの陣営に受け入れていった。だが、そのことによって、ディズレーリの唱えた保守思想は薄められていく。
 自由主義者でジャーナリストのウォルター・バジョット(1826〜77)はディズレーリにあまり好感をもっていなかった。古い秩序が消え去り、新たな近代国家が生まれようとしているのを歓迎していたのだ。バジョットは、忠誠や献身、権威といった古い概念がもはや中世のような影響力をもたなくなったことを、むしろ喜んでいた。
 しかし、カークはいう。

〈地の底から湧き上がる泉が涸れてしまったような時代に、ディズレーリは、壊れてばらばらになっていた保守的政治思考をつなぎ合わせ活発な政党をつくりだす巧妙さを持ち合わせた。ニューマンは押し寄せる功利主義者や物質主義者に対抗するためキリスト教精神を鍛え上げる英知を持っていた。……保守主義は、創造的な想像力を持ったこの二人によってよみがえり、舞台を飛び降りて受けた衝撃をも乗り越える活力を得た。〉

 カークは保守という対抗思想が、人びとをばらばらにしてしまうのを防いだことを強調している。

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