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紀州太地と庄内酒田──西鶴『日本永代蔵』をちょこっと(4) [商品世界論ノート]

 巻2のエピソード4。
『日本永代蔵』がおもしろいのは、大坂や江戸にかぎらず、日本全国にわたる商いの様子が、まるで週刊誌ルポのようにとらえられているところにある。
 場面は紀州の太地(たいじ)村に移っている。
 ここに鯨突きの名人で、天狗源内という人がいた。沖で鯨が潮を吹いているのをみかけると、船をこぎだし、一の銛(もり)を打ちこんで、風車の旗印をかかげたので、人びとはまた源内の手柄を知ったという。
 鯨を一頭とれば、ことわざにあるように七郷(ななさと)がうるおったというのは嘘ではない。しぼった油は千樽を超え、その肉、皮、鰭まで利用できないところはなかった。源内はさらに徹底していて、鯨の骨を砕いて、油をとるほどだったという。
 もともと浜辺のみすぼらしい家に住んでいた源内も、いまでは檜づくりの家を建て、その長屋に200人あまりの漁師をかかえている。
 ありていにいえば、ここでは鯨は海の稀少な巨大生物というより、貴重な商品となっているのだ。だから、源内は鯨を見つけると、天狗のように飛んでいって、一番銛をつける。
 西鶴のいうように鯨の体はすべてにわたって利用される。肉や皮、内臓が食用になったのはいうまでもない。骨は工芸品の材料にもなった。ヒゲは釣り竿やゼンマイ、指物に加工された。油は灯油などに用いられた。腸内からとれる竜涎香(りゅうぜんこう)は香料として珍重された。肥料としても使われている。要するに、あますところなく商品化されるようになった。鯨はカネになる生き物だったのである。
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 西鶴はさらにこんな話も紹介している。
 西宮の恵比須神社で開かれる正月10日の例祭(十日戎)に、源内は持ち船を仕立てて、かかさず参るのを20年この方、恒例としていた。
 ところが、いつもは朝早く参るのに、この日は、前日飲み過ぎたのがたたって、暮れ方の参拝となった。もう帰る人ばかりで、神主も賽銭を数えるのに忙しく、神楽を頼んでも、じつにおざなりだった。
 源内はすこし腹が立ったが、ともかく末社を回って、船に戻る。すると、疲れがでて、いつのまにか寝てしまった。
 その夢枕に恵比須さまがでてきて、なんと鯛を生きたまま運ぶ手立てを教えてくれたのだ。これによって、源内はまた大もうけすることになったという。まずは、めでたいというところだが、これは源内がいかにアイデアマンだったかを示している。
 エピソード5は、一転して山形の酒田に場面が移る。
 日本海に面し、最上川河口に位置する酒田は、江戸時代、北前船の寄港地としてにぎわっていた。
 鐙屋(あぶみや)は、その酒田を代表する廻船問屋である(いまもその屋敷が残っている)。鐙屋という名前からは、もともと馬方が宿泊する宿だったことがうかがえる。それに舟方も加わるようになったのだろう。
 西鶴も、鐙屋はもともとちいさな宿屋をしていたのが、万事行き届いているので、諸国から多くの商人が集まるようになったと書いている。そして、そのうち米をはじめとして、紅花その他の買問屋も営むようになった。
 問屋が失敗するのは、商品が売れると見越して、無理な商いをするからである。その点、鐙屋は堅実で、客の売り物、買い物をだいじにし、客に迷惑をかけることもなく、たしかな商売をつづけている、と西鶴は観察している。
 カネ(貨幣)の流通と、もの(商品)流通は連動している。日本海と瀬戸内海を往復して、北国・東北(のちには北海道まで)と大坂を結ぶ北前船の西廻り航路は、寛文12年(1672)に、河村瑞賢によって開発された。
 これによって、出羽、北陸の米が安全かつ容易に大坂に運ばれるようになった。さらにその航路は、すでに開発されていた江戸に向かう東廻りと連結し、これにより江戸時代初期に、本州を一周する航路が完成した。
 当初の目的は、大坂と江戸に年貢米を輸送することだった。だが、輸送されたのは米だけではない。商品の数や量がどんどん増えていった。
 暉峻康隆は本書の解説で、こんなふうに書いている。

〈最上・庄内地方の米はもとより、紅染(べにぞめ)になくてはならぬ山形特産の紅花をはじめ、内陸の特産品は、酒田を通じて千五百石・二千石積みの堅牢な北前船で大坂へ運ばれ、上方からは木綿・砂糖・古手[使い古しの着物や道具]などの雑貨が、これまた酒田を通じて東北各地へ運び込まれるようになった。瑞賢の開発によって、東北地方や日本海沿岸の各国の物産は、上方相場で取り引きされることになり、地域経済の壁を破ることができたのである。〉

 交易の発展は、商業の中心地と地域を結び、地域の発展を促していく。江戸時代のはじめには、そんな好循環がはじまっていたのだ。
 酒田はそんな日本の流通を担う北前船の一大寄港地だった。その数は天和(てんな)年間(1681〜83)で、毎年、春から9月までで3000艘におよんでいたという。
 鐙屋は北前船の交易にたずさわる商人に宿を提供するところから出発し、買問屋として商人の欲しがる物品を集め、それを売ることによっておおいに繁盛した。
 その経営者はどんな様子かというと「亭主は年中袴(はかま)をはいて、いつも小腰をかがめ、女房は絹の衣装を着て居間を離れず、朝から晩までにこにこして客の機嫌をとり、なかなか上方(かみがた)の問屋などとはちがって、家業を大事にしている」。
 西鶴は、ここに人当たりのよさに加えて、並々ならぬ才覚と度胸をもつ商人の姿をとらえたのだった。

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