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マーシャル『経済学原理』 を読む(まとめ、その4) [商品世界論ノート]

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   12 安定均衡

 第5編の「需要・供給および価値の一般的関係」にはいる(日本語版では第3分冊)。シュンペーターがもっとも評価した部分だ。
 まずマーシャルは需要と供給が出会う場、商品の売買がなされる市場について論じている。
 市場(いちば)はもともと食料などの日常品が並べられる公開の場所をさしていた。だが、のちにそれは食料にかぎらず綿花や石炭、砂糖、鉄、貴金属、証券など、すべての商品が取引される場を意味するようになった。その場は一般に市場(しじょう)と呼ばれる。
 商品はその性格によって、さまざまな市場をもつ。近隣でしかさばけない耐久性のない商品もあれば、遠隔地で大きな需要が見込める貴重な商品もある。それに応じて、市場は世界市場から僻地市場までの幅をもつ。
 市場は抽象概念だ。どんな商品であれ、商品が取引される場が市場と呼ばれる。マーシャルの時代とちがって、いまや市場は商店にとどまらずデパートやスーパー、郊外店、さらにインターネット上にも広がっている。就職市場など、時期に応じて開かれる市場もある。市場は空間だけでなく、時間によっても左右される。
『経済学原理』でマーシャルが挙げているのは、小麦市場の例だ。
 まだ取引は成立していない。売り手が売りたいと思う量と買い手が買いたいと思う量は価格に応じてことなってくる。
 たとえば、こんなふうになる。

  価格    売り手   買い手
  500円   3000袋   1000袋
  400円   2000袋   2000袋
  300円   1000袋   3000袋

 ここでは400円なら売り手が2000袋市場に出したいと思い、買い手は2000袋買いたいと思う。ここで供給と需要が均衡する。
 この例はあくまでもひとつのモデルにすぎない。実際の取引の動きとはことなるだろう。それをさておき、マーシャルは供給と需要の均衡する価格が存在すると想定する。その価格では、商品が売り尽くされ、買い尽くされることになる。
 とはいえ、価格は供給側の胸算用によって、とりあえず算出される。たとえば商品となる作物のでき、予想される収穫量などをみて判断されるだろう。
 次に穀物だけではなく、一般商品に枠を広げてみよう。
 商品をつくるには、多様な資本と労働を要する。これに商品ができあがるまでの「待忍」の費用を加えたものが商品の「真実の生産費」だ、とマーシャルはいう。つまり、生産費に適切な期待利潤(「待忍」の費用)を加えたものが、商品の供給価格となる。
 もちろん商品は多量に出荷されるから、市場での供給価格は、商品1単位の価格で表示される。さらに、実際の市場価格には流通経費も加わる。
 生産者はできるだけ経費のかからない生産方法を選択する。社会もまた能率のよくない生産者より能率のよい生産者を選ぶだろう。マーシャルは、これを「代替の原理」と名づけている。
 ただし、労働市場には一般市場とことなる特殊性がある。労働市場では「労働力の売り手は処分できる労働力をただ一単位しかもっていない」。
 からだはひとつだ。そのため、何が何でも職を得ようとする労働者は、低い賃金でもみずからの労働力を売りに出そうとするかもしれない。
 労働市場では、企業は供給側でなく需要側に立っている。一般市場では労働者は商品を買う側なのに、労働市場ではみずからの能力を売る側になる。企業はそうした人間の能力(人材)を買うことによって、原料や機械だけでは得られない商品価値をつくりだそうとする。したがって、労働力は単なる商品ではない、とマーシャルはいう。
 こうして、商品世界は製造物を商品化するだけではなく、人間の能力をも商品化することによって、はじめて循環していくことになる。ただし、一般商品と労働力商品とでは、その需給の流れが逆であることに注目しなければならない。つまり商品をつくる商品が労働力商品であるのにたいして、労働力をつくる商品が一般商品なのだ。
 商品に需要と供給の力関係がはたらくのは、商品世界に対位変換構造が存在するためである。商品は売り手と買い手がいて、はじめて成り立つ。労働者は売り手であると同時に買い手でもある。企業もまた買い手であると同時に売り手である。こうした対位変換的な商品構造は近代において本格的に成立したといえる。
 マーシャルは商品には一定の需要価格もあるという。そして、「どんな場合にも市場に売りにだされる分量が多くなればその買い手を見いだせるような価格は低くなっていく」と論じる。
 きわめてシンプルにいうと、供給価格は前に述べたように企業の生産費(経営の租利益を含む)に一致する。新しい生産方法が導入されなければ、ふつう生産量の増加にともなって、生産費は上昇していく(収穫逓減の法則)。
 しかし、生産が大規模化し、手労働に代えて機械作業(いまならAI)が導入され、人力の代わりに蒸気動力(いまなら石油や電気のエネルギー)が用いられるようになると、生産費は下がっていく。つまり規模の経済がはたらく。
 市場において、需要価格が供給価格より高い場合は、生産者はその商品の生産をもっと増やそうとする。逆に需要価格が供給価格より低い場合は、生産者はその商品の生産量を減らそうとする。そして、需要価格と供給価格が一致する場合に安定均衡が達成される。
 商品の生産量と価格は、わずかに変動することがあっても、安定均衡に収束する傾向がある。ただし、この均衡点は常に同じというわけではない。さまざまな状況の変化によって、需要表と供給表がたえず変動しているためである。そのため安定均衡点は常に再形成されていく。
 ここで時間の要素がはいってくる。「われわれは将来を完全に予測することはできない」と、マーシャルはいう。予想もしなかったことが起こるかもしれない。人口減少、資源の枯渇、競争の激化、新商品の開発といったこともありうる。それによって、市場の状況は変わってくる。
 アダム・スミスが述べた商品の正常価値ないし「自然価値」を判断するのはむずかしい。「価値が効用で決まるか生産費で決まるか議論するのは、紙を切るのははさみの上刃か下刃かと争うようなものであろう」とマーシャルはいう。
 とりあえずの結論はこうだ。

〈われわれは一般原則としては、とりあげる期間が短ければ、価値にたいする需要側の影響をそれだけ重視しなくてはならないし、期間が長ければ、生産の影響をそれだけおもく考えなくてはならない、と結論してさしつかえないようである。……[長期においては]結局は持続的な諸原因が価値を完全に支配することになる。しかしながら最も持続的な原因でも変動をまぬかれない。世代の移り変わりにつれて、生産の全構造も変容していき、いろいろな事物の生産費の相対的な大きさもまったく変わってしまうのだ。〉

 われわれは新たに生まれては消えていく変動めまぐるしい商品の価値体系のなかでくらしている。たとえば、石油や電気が、照明や暖房、食料、衣服、交通、文化にわたるそれまでのあらゆる生活様式を変え、いまも変えつづけていることを考えれば、いまもわれわれは変動のすり鉢のなかに投げこまれているかのようである。

   13 短期均衡と長期均衡

 企業家はじゅうぶんな成果が見込めなければ、支出(投資)をしようとしないものだ、とマーシャルは書いている。
 失敗の危険にたいしては引き当て分を用意しておかなければならない。また商品として成熟するまで時間がかかるとしたら、それまでの支出にたいする元利も累計して支出の合計を計算しておかなければならない。これらのすべてが事業にかかる費用となる。
 加えて、成果をだすまでの努力や待忍も費用の要素だ。それは追加的な収益とは別のもので、事業主自身の仕事の報酬になるという。こうした費用の回収が見込めなければ、企業家は事業をはじめるわけにはいかない。
 事業が開始されるまでの経費や効率は常に見直されなければならない。仕入先や機械の選択、販売方法の検討も必要だ。投資はぎりぎりの収益が見込めるところまでなされるだろう。
 ここで、生産と消費の関係について、マーシャルは次のように述べている。

〈生産の新しい方法は新しい商品を生みだし、あるいは古い商品の価格を低下させてより多くの消費者が購入できるようにする。他方また消費のしかたが変化し消費量が変動することによって、生産の新しい展開を生みだし、生産資源の新しい配分をもたらしてくる。人間生活の向上にたいへん役立つような消費のしかたのうちには、物的富の生産を促進するとしても、ほんのわずかしか効果を生まないものもあるのだが、それでもなお生産と消費とは密接に関係しあっているのだ。〉

 マーシャルが強調しているのは、生産が消費と対応しており、消費を念頭におかない生産はありえないということである。自給自足の世界では、生産は消費と即つながっていた。だが、商品世界においては、もともと生産と消費は分離されており、商品=貨幣を媒介することで、はじめて結合と循環が保たれることになる。そのとき資源もまた商品=貨幣を通じて配分されていく。
 商品世界における困難は、生産と消費の分離によって生じる。
 たとえば建築業者が一般人の需要を見越してマンションを建てるとしよう。その判断が的中すれば業者は利益を得るばかりか社会にも便益を与える。だが、その判断がまちがっていれば、業者は大きな損失をこうむり、最悪の場合、企業は倒産に追いこまれる。
 ここで大きな損失が発生するのは、生産費用が回収されないためだ。
 生産費は主要費用と補足費用とからなり、それらを合わせたものをマーシャルは全部費用と名づけている。主要費用は直接費であり、原料費、賃金、機械の消耗費などからなる。補足費は間接費であり、工場の固定費、幹部職員などの給与、その他特別費からなる。
 長期的には、これらの全費用が回収されなければならない。企業の運営には労苦と心痛がともなう。全費用を回収しても、それを上回る余剰が得られなければ、だれも企業などはじめようと思わないだろう、とマーシャルは書いている。
 ふたたび需要と供給の均衡について。
 正常か異常かは、長期もしくは短期で考えるか、現行の特殊な要因を勘案する場合によって、判断が異なってくる、とマーシャルはいう。商品市場や労働市場はさまざまな変動にさらされている。突然の災害がおこったり、何らかの事件が発生したりすることもありうる。したがって、何をもって正常とするかはなかなか断定しがたい。
 そこで論議を進めるうえでは、攪乱的な影響がなく、生産と消費、分配の条件が変わらず、人口も不変という仮定のもとで、一般的傾向を推論していくほかない、とマーシャルはいう。
 市場に攪乱のない定常状態では、商品の価値を規制するのは生産費であって、供給価格と需要価格は一致し、正常価格は一定に保たれる。だが、実際にこういう状態はまずありえない。生産方法や生産量、生産費は常に動いているし、需要の流れも変動しているからだ。人口も富も変化し、土地も不足し、通商関係も変わったりする。
 定常状態のモデルから、厳しい条件をとりはずしていけば、少しずつ現実の生活に接近してくる。あるいは静学的なモデルに現実の条件を加えていけば、新たなモデルをつくり、それを検証することもできる。
 ここでマーシャルは漁業を例にとる。たとえば、天候不順がつづいた場合は漁獲量が減り、供給価格が上昇していく。いっぽう、疫病が発生して食肉への不安が高まり、魚肉への需要が高まった場合も、魚の供給価格は上昇していく。資源が枯渇の兆候を示した場合も同じだろう。だが大きな需要に応じるため、漁師が漁船の規模や装備を増強し、漁獲高を増やしていくなら、供給価格はいくらか下がっていくかもしれない。
 こうした例示は、漁業や農業だけではなく、工業の場合もあてはまる。市場価格は需要と在庫に依存しているのだ。
 マーシャルは「限界生産」という考え方を持ちだす。市場において価格の上昇が期待されると、生産の限界が押し広げられ、主要費用を上回る余剰を求めて、余剰があるかぎり、生産が増大していくというのだ。
 ただし、その行動は短期と長期でことなる。

〈短期においては、生産の装備の大きさはほぼ固定しているので、人々の行動はこれら装備をどの程度まで積極的に活用するかを検討する際の需要の期待によって決められてくるし、長期においては、これら装備の供給は生産しようとする財にたいする需要の期待に対応するよう調整されるのだ。〉

 高い価格が期待されると、短期では労働時間を延長して装備がフルに動かされる。短期においては、生産者はすでに設置された装備を利用して、できるだけその供給を需要に適合させるよう努力していくしかない。だが、そうした生産の増大には限度がある。
 そこで長期の対応が検討される。
 長期の計画においては、大規模生産の経済が予想されている。そこでは供給価格は逓減し、それによってより多くの需要が得られるものと考えられている。
 大規模生産にいたる道は、不十分な資本しかもたない小企業が苦労の末、大きな事業体をつくるにいたるケースもあれば、富裕な資本家が巨額の投資によって、大規模な事業を立ち上げるケースもある。
 長期と短期のあいだに厳密な区別があるわけではない。短期においては、現存の設備にもとづいて商品供給の増加がはかられる。これにたいし長期においては設備や工場の拡張が、商品供給の原動力となる。そして、さらに長期的には、人口や知識、技術、資本の成長、ならびに世代の変遷にともなう変化が考えられる。
 ここでマーシャルは需要と供給の流れをもう少し細かく検討している。
 たとえば、ビールは直接に需要される。しかし、ビールができあがり、消費者のもとに届くまでには、次のような工程が考えられるだろう。

  麦 芽[右斜め下]
  水  →ビール工場→ビール→消費者
  ホップ[右斜め上]

 ここで企業にとって、麦芽やホップは間接的(あるいは派生的)な需要対象となる。そして、麦芽やホップはビール工場で結合され、ビールという商品として供給され、消費者の需要対象となる。
 もし材料である麦芽やホップの値段や供給量が上下すると、最終製品の価格や供給量も変化する。それに応じて消費者需要のあり方も変わってくる。一般にビールの価格が上昇すれば、消費者はビールを飲むのを多少控えるだろうし、逆にその値段がさがれば、もう少し飲もうかと思うようになるだろう。
 間接需要の変化が最終需要にどのような影響をもたらすかは、ケースバイケースである。多少値段が上がっても、ビールが飲みたい欲求は変わらないから、需要はさして減らないということも考えられる。しかし、あまりに値段が上がると、ビールの代わりにたとえば焼酎を選ぶこともありうる。工場の側も麦芽やホップの新たな仕入先を探すかもしれない。さらにホップと麦芽の割合を変えて、できるだけ値段をあげないようにするのもひとつの手段である。
 いずれにせよ、ここでは供給が単なる供給ではなく、それ自体がさまざまな需要の束からできあがっていることを認識することが重要である。とりわけ、その中心となるのが労働力にたいする需要である。
 マーシャルはいう。

〈ほとんどすべての原料と労働は数多くの異なった産業部門で使われ、ひじょうに多種多様な商品の生産に寄与している。これらの商品はそれぞれその直接の需要をもっており、それから生産要因のそれぞれにたいする派生需要が起こってくる。〉

 これらの派生需要を合計したものが供給サイドの全体需要となるわけだ。
 結合生産物も存在する、とマーシャルはいう。
 たとえば、羊は羊毛と羊肉に分けられる。小麦は食料としての小麦と麦わらに分けられる。したがって、羊や小麦は結合生産物なのである。そして、どの用途を優先するかによって、商品化への手間のかけ方が変わってくる。
 同じことが一般的な産業についてもいえる。生産過程において、主要な産物と副次的な産物が発生するのはよくあることだ。そのうちのどれを優先するかは、いわば市場の動きによる。
 複合供給ないし複合需要の現象もよくみられる。たとえば牛肉と豚肉は競合商品だといってもよい。それらは別々の商品でありながら、価格と質に応じて、同じように消費者の欲求を満たすことになる。
 こうした商品のさまざまな関係を見ながら、商品の動きをとらえていくことがだいじだ、とマーシャルはいう。過大な需要が資源の枯渇をもたらすこともあれば、交通の発達が生産経費の削減につながることもある。またある分野の製品価格の変動が、ほかの製品の価格に影響をことも多い。このように、商品世界は一商品だけで独立しているわけではなく、多岐にわたる商品の連鎖のなかで成り立っているのである。

   14 価値と限界費用

 ここでは生産物の価値と限界費用の関係が論じられる。マーシャルは正常な状態と長期の結果を前提としている。それを前提とすれば、変則的な状態や短期の場合にも応用がきくからだ。
 それを紹介する前に、もう一度、商品世界の成り立ちをおさらいしておこう。
需要と供給が分離・結合される商品世界においては、商品と貨幣を媒介にして、経済の循環構造が維持されている。供給は需要なくして実現しないし、需要は供給なくして実現しない。供給と需要の変化は、ごくわずかであっても、連動して全体の需給関係に影響をおよぼす。供給と需要は留まることなく、いわば潮流のようなものをかたちづくっている。
 その流れを切り取って図示すれば、こんなふうになるかもしれない。


  ↓
 供 給(⇦需要)[総生産]
  ↓
 商 品[直接財]
 (日用品、消耗財、耐久財、サービスなど)
  ‖
 需 要(⇨供給)[総所得]
  ↓
 商 品[間接財]
 (労働力、原材料、機械、装備、エネルギーなど)
  ‖
 供 給(⇦需要)
  ↓

 こうした流れがとどまることなくつづくことによって、現代社会は維持されている。
 マーシャルは、こうした正常な事態を前提として、生産物の価値(価格)と限界費用の関係を論じているわけである。構造的な不均衡が存在しうるとしても、それはとりあえず考慮の外におかれている。
 まず企業家は「だれもまたどんな場合も目的に適合した生産要因を選択しようとする」。この行動をマーシャルは「代替の原理」と呼んでいる。どれほど労働者を雇用するか、新しい機械を増やすか、どんな原材料を選ぶかは、企業家が採算に応じて決定する。
 念のためにいうと、ここでいう企業家は、資本家である場合もあるし、資本家でない場合(株主に経営を委託された場合)もある。資本と企業は密接にかかわっているが、マーシャルが重視するのは、あくまでも企業家である。
 企業家はある生産要素を、これ以上投入すれば収益が逓減するぎりぎりまで限界投入すると考えられる。
 マーシャルはいう。

〈企業家はだれでもかれが使用しているすべての生産要素、さらにはそのどれかに代用できる他の生産要素について、その相対的な能率を知ろうとして、その活力と能力のゆるすかぎり、たえず努力を傾けている。かれはどれかの要因を追加投入することによって、どれだけの純生産額(その総生産額にたいする純増分)が得られるかをできるだけ推定しようとする。〉

 生産費をかけて、ある生産要素を追加すれば、追加供給が得られるとして、それが正常な利潤を得られるなら、需要が供給を上回っていることになる。その場合、企業家は生産費の追加投入をいとわない。企業家は純収益が得られなくなる限界まで、投資(原料であれ、労働力、機械、広告、あるいは土地、建物であれ)をすすめていくことになる。
 ただし、土地、建物、機械などの固定資本の投入については、その回収期間が長くなることを考えれば、細心の注意を必要とする。
 土地の場合は長く固定されるのにたいし、機械の場合は際限なく増やせるかわりに、新発明や流行の変化によって陳腐化する危険性がある。
 そのため機械などについては、消耗にたいする償却費を考慮し、正常な利潤を確保することに気を配らなければならない。さらに、純収益は利潤(粗利)から利子(準地代)、言い換えれば出資者の取り分を引いたものとなることも念頭においておく必要がある。
 ここでマーシャルが論じているのは、マルクスのいう拡大再生産の構図と同じであり、なぜ拡大した経済循環が生じるかが説明されている。ただ、マルクスと異なるのは、マーシャルが均衡分析にしたがって、限界費用投入を決断をしなければ、供給の増大は生じないと考えていることである。
 つぎにマーシャルが論じるのは、租税の影響についてである。端的にいえば、増税は需要と供給にマイナスの影響をもたらす。
 たとえば出版物に重い税をかけると、出版物の値段が上がるので、その影響は直接消費者におよぶ。出版物の需要は減り、それにより出版社は大きな打撃をこうむる。その従業員の賃金も低く抑えられることになるだろう。出版物の売り上げが減ると、印刷所や著者、書店も打撃を受ける。
 つぎに税をかけるのが出版物ではなく、印刷機械だとしよう。この場合、直接影響を受けるのは印刷業者である。出版物の生産量や価格にすぐさま影響はでない。業者の稼得がいくらか減る程度である。流動資本にたいする利潤率も低下するわけではない。しかし、業者にとっては経費が増大することになるから、新しい印刷機械の導入は控えられるだろう。
「新しい印刷機はただ、印刷業者が一般に租税を支払っても経費にたいし正常な利潤が得られると判断するような限界のところまでしか導入されない」。その結果、新しい印刷機は導入されず、旧来の印刷機を昼夜二交代でフル稼働させる事態も生じる。それによって、印刷費が上昇すれば、出版物にたいする需要が減ることになる。
 つまり、こういうことだ。出版物という直接商品に税をかければ、その影響はまず消費者におよび、つぎに業者にはねかえる。これにたいし、たとえば印刷機という間接商品に税をかければ、その影響はまず業者におよび、つぎに消費者にはねかえってくる。これは増税が消費マインドを冷やす要因になるということである。
 さらに、ある地域にストックのかぎられた画期的な資源が発見されたケースを、マーシャルは論じている。発見者が、その新資源にたいする需要によって、多額の生産者余剰を獲得することはまちがいない。
 新資源を購入した製造業者もそれによって大きな利潤を得る。そして、これに味をしめた製造業者は、この限られた資源を再取得して、さらなる増産をめざすことになるかもしれない。
 もっとも、その商品にたいする需要によって価格は変化するため、製造業者の得る所得はことなってくる。製造業者は利潤が得られる限界費用まで、その資源の購入をめざしていく。いっぽう発見者も製造業者の需要があるかぎり、コストを増やしてもその資源を開発しつづけていくことになる。
 ここでえがかれているのは、新資源の発見によって、経済サイクルが拡大していく局面である。
 だが、その資源の量がほんとうに限られているとすれば、どうなるか。
 それがくり返し使用できるものだとすれば、この貴重資源は新たな用途のために、すでに使用されている部分から引き抜いて利用するほかない。そのさい資源に支払われる価格は、あらたな用役の価値によって定められるだろう。
 いっぽう、その資源の供給が徐々に増加しうるものである場合はどうか。労力と資本の投下に見合う所得が期待されるかぎり、資源の探索はつづけられる。そして資源の価値は、その需要と供給のバランスを維持するような高さに決まってくる、とマーシャルは述べている。
 また、その資源が無尽蔵で、1回しか使用できないにもかかわらず、確実に補給できるものだとすれば、資源の価値(価格)は費用に対応し、そこから得られる所得は利潤を含む生産費に利子を加えたものとほとんど変わらなくなる。需要の変動もその価格にほとんど影響を与えないだろう。
 こうしたさまざまなケースを並べながら、マーシャルは資源からは、他の商品と同様に、需給関係に応じて、地代や利潤、利子、ないしはその混合からなる余剰が生じてくると述べている。地代(差額地代と稀少地代)、企業の利潤、資本の利子は、それぞれ区別されなければならないが、いずれも賃金その他の経費を除いた余剰が、それぞれの形態をとったものである。
 マーシャルにとって重要なのは、需要供給の流路から生じる余剰だといえる。この余剰が生まれなくなれば、経済は定常状態に近づいていく。そして余剰が、新たな供給と需要に結びつくなら、経済は成長していくことになる。
 ここで指摘しておきたいのは、マルクスの把握がマーシャルと意外にもよく似ているということである。とりわけ、マルクスの生前に公刊されることのなかった『資本論』第2巻、第3巻は、資本の総過程を扱っており、ここでは生産過程において発生した剰余価値が、流通過程、言い換えれば市場において、どのように利潤や利子、地代に転化し、さらにそれがいかにして資本の蓄積につながっていくかが論じられている。
 マルクスによれば、剰余価値が流通過程で生じることはない。しかし、抽象的な剰余価値は、流通過程において、はじめて利潤や利子、地代として実現される。マルクスにとっては生産が主であり、消費はあくまでも従となる。生産がなければ消費はない。しかし、そのうえで、消費がなければ生産はないのである。
 マルクスは剰余価値がなければ資本はないという言い方をしている。これをマーシャル流に言い換えれば、利潤や利子、地代を生まなければ、資本には意味がなくなってしまうということになる。
 マルクスは、かぎりない生産中心主義の衝動に駆られる資本が、経済成長をもたらすいっぽうで、さまざまな社会問題をばらまきつづけることを指摘した。
それでは、資本をなくせば社会主義が実現するかというと、ことはそう簡単ではない。資本がなくなれば、その分、生産も減り、消費もできなくなってしまうからである。
 マルクスが唱えたのは、資本家によって私的に所有される資本には、貧困や失業、経済的暴走、恐慌に代表される経済危機、環境問題をもたらす危険性がはらまれており、こうした問題を解決するには、少なくとも社会的ルールにもとづいて資本を企業家と労働者が共同管理する体制がつくられねばならないということだったのではないだろうか。これがおそらく、マルクスのいう「資本主義的生産様式から協同労働型の生産様式」への移行という意味である。ただし、その主張はあまりに茫洋として、具体性を欠いている。マルクスは社会主義の具体的な構想を提示したわけではないし、まして資本の国有化を唱えていたわけではなかったということは知っておく必要があるだろう。
 調和のマーシャルと破綻のマルクスは、いまも経済を考えるための大きな鍵となりつづけている。

   15 地代と地価

 近代になって成立した商品世界の特徴は、市場を通じ貨幣によって商品が売買されることである。市場の場所はかならずしも固定されているわけではない。商品のあるところ、商品の流れにおうじて市場は現れ、消えていく。いってみれば、商品の存在する場所(バーチャルな空間を含めて)が市場だといってもよい。
 いまでは、世界じゅうのすべての人が市場に巻きこまれている。とりわけ重要なのは、商品世界においては、人間や自然が商品構造に組みこまれ、ランク分けされ、価値づけられることだ。人間も自然もほんらい商品たりえない存在である。しかし、商品世界では、人間や自然(土地や資源を含む)さえ、商品をつくる商品として機能するようになる。それを人材や労働力、農地や不動産、資源として評価し、商品構造に組みこんでいくことによって、商品世界は成り立っている。
 土地からは地代が発生する。土地の価値は地価によって示される。
 マーシャルは、リカード流の差額地代論は、都市の地価にもそのまま適用できると述べている。
 農村では、土地でつくられる農産物が売買されることによって、生産者の利潤と地主の取り分である地代が発生する。地主と生産者は同じ場合もあるが、20世紀初頭までイギリスではまだ大地主貴族やジェントリー(下級地主層)の力が強く、農村の階層は大小地主と借地農、農業労働者に分かれていた。
 最初に、農産物価格は一般の商品と同じく需要と供給の関係によって決まってくる、とマーシャルは述べている。需要を規制するのは、消費者人口と、人びとの欲求、そして支払い能力である。いっぽう供給を規制するのは、利用可能な土地の広さと肥沃度、耕作者の数と資力、生産費用である。もちろん、天候や災害は農産物の収穫に大きな影響をもたらす。
 ここでマーシャルは、何らかの事情(たとえば戦争)で、農産物の増産が必要になった場合を想定する。そのときはさらに化学肥料を投入したり、砕土機を導入したり、耕作者を増やしたりして、資本と労働が追加投入され、収穫量の増加がこころみられるだろう。
 追加所得が得られるかぎり、投資は引きつづきなされるし、追加所得が得られなくなれば、投資はストップする。収穫逓減の法則がはたらくと考えてよい。したがって、農産物の供給価格は、限界生産経費(費用)によって規制されるということができる。追加費用によって生みだされる純所得は、じゅうぶんな正常利潤をもたらすものでなければならない。正常利潤が得られなくなれば、追加投資はなされない。その正常利潤を、マーシャルは「準地代」と名づけている。
「資本および労働の収益性をともなう投入の限界における生産費こそ、需要と供給の全般的な状態の規制のもとで、全生産物の価格がそれに向かってひきよせられていくところのものにほかならない」と、マーシャルはいう。だが、もちろん、限界生産費だけが価格を決定するわけではない。需要側の要因もあるからである。
 耕作の限界は、農作物にたいする需要と供給によって規制される。地代が生じるのは、土地の肥沃度や土地の条件、生産物の価格に応じてである。言い換えれば、地代が生じるのは、土地のもつ状況のちがいによるといっていいだろう。しかし、農産物価格を決めるのは地代ではなく、地代はあくまでも結果として(いわば差額地代として)もたらされるとみるのが正当だ。にもかかわらず、地代は当初から設定されていることが多い。
 自由市場においては、土地から得られる収入は地代の性格をもっている。無限に利用できる土地があり、しかも肥沃度もその他の条件も変わりがないのであれば、地代は発生しない。だが、土地が稀少になってくる時点がかならずあらわれてくる。いい土地と悪い土地(あるいは開拓地と未開拓地)の区別もかならず出てくる。そこから地代が発生する。
「土地は個別の生産者の視角からみれば、資本のひとつの特殊な形態にほかならない」と、マーシャルは書いている。生産者にとっては、そこからどれだけの生産物が生みだされるかが問題なのだ。その点は、農業者も製造業者、流通業者もなんら変わりはない。
 土地はたとえ改良が可能だとしても、その面積にはかぎりがあり、いわば「永続的で固定的なストック」である。そこからは、豊かな土地と貧しい土地、市場に近い土地と市場から遠い土地の区別が生じてくる。
 いま農産物に課税がなされると仮定しよう。その影響は消費者にとどまらず、生産者にもおよぶ。しかし、課税による影響は、市場に遠い貧しい土地と、市場に近い豊かな土地とではことなってくる。その打撃は、遠方で貧しい土地の生産者のほうが大きい、とマーシャルは論じている。
 土地の所有者が地主であれば、農産物にたいする課税の影響は地代にもおよんでくる。地代そのものへの課税は、農産物価格に影響をおよぼさないが、地代に重い税が課されることになれば、土地所有者は土地改良への意欲を失っていくだろう、とマーシャルは弁ずる。
 次にマーシャルは同じ畑にホップとカラスムギが植えられている場合を想定して、ホップに課税がなされる場合、どのような事態が生じるかを推察している。農業者は税負担を軽減するために、おそらくホップの作付けを減らして、カラスムギを多く栽培しようとするだろう。しかし、ホップへの課税にともなってホップの収穫が減り、それにたいしてビール需要がさほど減らないとすれば、ホップの価格自体が上昇していくことになる。そうなると、ホップの減産に歯止めがかかり、作付面積は回復していくはずだ。
 人が常に必要とする農産物でも、需給の変化により商品の動きは絶え間なく変わっていく。新しい作物が登場して、作物への需要が変化すれば、作付面積にも影響があらわれ、それにより作物の供給が調整されていく。そのプロセスをマーシャルはことこまかに説明している。
 地代は農地においてのみ発生するわけではない。
 農地では、資本と労働の追加投入にたいし、徐々に収穫が増えていかなくなる「収穫逓減の法則」がはたらく。にもかかわらず、「耕作者は生産物を販売するよい市場と必需品を購入するよい市場とをもつことによって、いっそう高く売りいっそう安く買うことができ、社会生活の便益とたのしみにいっそうめぐまれるようになる」。それは「外部経済」(この場合は都市に近いという)がはたらくためだ、とマーシャルはいう。
「外部経済」は場所の有利性でもある。そこから場所価値が発生し、地価が生まれる。地価とは「建築用地の敷地価額」のことである。もったいぶった言い方をするなら、「ある建築用地の敷地価額の集計額は、建造物をとりのぞいてその用地を自由市場で売れば取得しえたであろう地価を示すものにほかならない」。
 地価の大半は「公共的価値」によってはかられる。公共的価値といっても、役所が地価を決めるというわけではない。ほとんどだれもがここは高いと思う地所が高くなり、ここは安いと思う地所が安くなるといった意味である。
 マーシャルは、企業が地方で新都市を開発するケースを持ちだしている。企業はその場所がいずれ高い場所価値をもつと見越して土地開発に投資をおこなう。そこには工場なり商店なり住宅なりが立つことが見込まれており、企業は投資にみあう純収益を期待している。その純収益は土地から得られる所得といってよい。
 だが、新都市の開発でなくても、何らかの事業投資が、既存の土地価格を上昇させることもある、とマーシャルはいう。たとえば、近くに新たな鉄道駅がつくられるとか、町の排水設備が改良されるとかいったことが、地価の上昇に結びつく。都市近郊の土地が、整備された住宅地として開発されて公共的価値をもつようになると、地価が上昇して、元の地主と開発者に大きな報酬がもたらされる。
 住宅の賃貸費には、住宅建設費と地代が含まれている。住宅と土地の所有者は、そこに投資された費用を何十年かかけて回収し、収益を得る。
 建築業の場合も農業と同じように、これ以上、資本と労働を追加投入しても収益が増えていかないという限界が存在する。しかし、敷地が稀少価値をもっている場合は、敷地の拡張に追加用地費をかけるよりも、その場所での建築投資を増やしたほうがよいこともある。
 ここでマーシャルが想定しているのは、稀少な土地にいわば高層マンションを建てる場合である。用地費は節約できるだろう。しかし、高層マンションへの投資限界を定めるものは「需要供給の価値を規制する力のはたらき」にほかならない。はたして、建設コストに見合う需要があるかどうかが問題になってくる。
 ホテルや工場を建てる場合は、「地価が安ければ多くの土地を使うが、地価が高ければ土地は少なくし高層の建物をたてようとする」。そこでは、土地と建築に投入する費用の組み合わせが選択されることになる。
 市街地の店舗やマンションにたいする需要が増大していくなら、地価が上昇しても、それはじゅうぶん見合うようになる。逆に、その場所に工場を構えていた製造業者が、地代の上昇で生産経費の負担が大きくなれば、それに耐えかねて、工場をいなかに移転するケースも発生するかもしれない。
 土地にたいする産業用の需要は、農業の場合と変わらない。地代が高くなって生産経費が上がり、需要に応じた価格では生産経費が回収できなくなれば、企業も農業者も、価格が高くても売れる新しい製品を開発するか、別の場所に移転するほかない。
 いずれの場合も、土地需要が上昇することで、収益を実現できる限界が移動することになる。この限界費用が地価の上昇を左右する要因になっていく、とマーシャルは考えている。
 市街地の便利な場所にあり、高い賃借料を払わなければならない店舗では、せまいスペースでも少ない売上高で高い収益率が得られるような高額商品が並べられる。これにたいし、郊外の多少不便な場所にあっても、安い賃借料で広いスペースが確保できる店では、低い価格で収益率が低くても数多く売れるような商品が並べられるだろう。
いずれにせよ、商品とその価格にくらべて、より多くの顧客をつかむことができなければ、商店は生き残ることができない。そして、地価が上昇していくと、店舗用地が不足し、一般に店舗ではより高い価格の商品が扱われていくようになる、とマーシャルは述べている。
 こんなふうに、マーシャルは農業や産業、商業と地代、地価の関係をことこまかに論じている。だが、これで地価の経済学が論じ尽くされたとは、だれも思わないだろう。とくに土地バブルとその崩壊をまのあたりにしたわれわれからすれば、地価の経済学はさらに掘り下げられるべきテーマなのである。

   16 均衡分析への補足

 ある商品が急にはやりだして、需要が増えると、その価格が急に上昇することがある。しかし、この流行が長期間つづく場合は、規模の経済がはたらいて、収穫逓増の傾向が生じ、その価格は次第に低下していく。
 一般に商品価格が低落すれば、その商品にたいする需要は増大する。逆に商品の価格が上昇すれば、その商品にたいする需要は減少する。
 供給の場合は、需要の場合ほど単純ではない。短期的にみると、価格が上昇すれば、供給も増大する。長期的にみても、収穫逓増の法則にしたがう商品はいくらでも供給を増やしていくことができる。
 その結果、産業が発展し、供給が増えるにつれて、次第に価格は低下していく。その動きについていけない個別企業は衰退と退場を免れないだろう。
 とはいえ、価格の下落には限度がある。財貨の生産には装備や営業面でも多額の資本が投入されている。主要費用に加えて、そうした補足費用も回収されなければならないとすれば、価格下落にもおのずから歯止めがかかってくるはずだ。
 長いあいだ、進歩をつづけている企業というのは、意外と少ない、とマーシャルは指摘する。したがって、産業の発展をみるには、代表的企業の動きをみて、経済行動のモデルを把握するほかない。
 そこで注目すべきは、代表的企業の限界費用である。この企業でも、需要が急増したさいに、産出高を増やすなら、供給価格も上昇していく。しかし、それは短期の場合である。
 それでも需要が堅調に伸びていくなら、長期的にみれば、需要に対応して企業収益があがるだけの生産規模拡張が工夫され、商品は低い価格で供給されるだろう。経済は「静学的均衡」にとどまることはできないのだ。
 マーシャルは需要、供給の変動について、さらに考察を進める。
 流行の変化、新発明、人口の増減、資源・原料の枯渇、代替品の開発など、需給関係に影響をもたらす要因は多い。
 需要が増大するのは、新商品の流行や普及、新市場の開発、社会の富ないし一般的購買力の増加などがみられる場合である。供給側もそれに対応して、商品の種類や量を増やすとともに、その価格をできるだけ安くしていく。そのさいには、輸送手段の改善や新しい供給源の開発、新しい生産工程や新しい機械の導入などもこころみられる。逆に需要や供給が減少するのは、購買力が低下したり、税負担が重くなったりする場合と考えられる。
 長期を念頭におくと、商品需要が増大する場合は、規模の経済がはたらいて、供給価格は低下する傾向がある。すなわち、新しい発明、新しい機械の応用、新資源の開発、物品税の廃止、補助金の給付などによって、大幅な生産増大と価格低落が生じるのだ。ここでは、いわば収穫逓増の法則がはたらく。
 この収穫逓増型の商品に課税がなされた場合、あるいは逆に補助金が給付された場合は、どのような現象が生じるだろう。
 マーシャルはこう書いている。

〈課税は需要を減少させ産出高を削減させる。おそらくは製造経費をいくらか増大させ、課税額よりも大幅に価格を上昇させ、結局財政当局の収得する総収入額よりはるかに大きな額だけ消費者余剰を削減させる。その反面、このような商品にたいする補助金の給付は、政府が生産者に支払う総給付額を上回って消費者余剰を拡大させるほど大幅に、消費者価格を低落させる。〉

 マーシャルは消費税や補助金などの財政政策に、政府がよほど慎重でなければならない、と主張しているわけだ。
 需給均衡点は需要側にとっても供給側にとっても、ほぼ最大満足点だとマーシャルはいう。その均衡点においては、当事者のいずれも、失う効用よりも受け取る効用のほうが大きくなる。つまり、需給均衡点では、売り手も買い手もおたがいに損をせず、満足を得るのだ。それをはずれていくと、売り手側、買い手側のどちらかが損失をこうむる。したがって、そうした状況は永続せず、ふたたび均衡点への回帰が模索されることになる。
 ただし、この学説は普遍的に妥当するわけではない、とマーシャルは述べている。富の分配が不平等であれば、満足度にたいする評価もことなってくるからである。さらに、収穫逓増型の商品の場合は、技術改良による価格の低落が、消費者を利するだけではなく生産者をも利することが多い。
 最後にマーシャルは独占についてもふれている。簡単に紹介しておこう。
 ここでいう独占とは「ある個人ないしは数人の連合組織が、売りにだされる商品の分量またはそれらが供給される価格を決定する力をもっている」場合をさす。独占企業は需要にたいして供給を調節して、最大可能な純収入を確保しようとするだろう。
「独占体のもとで生産される分量は独占がなかった場合に比べるといつも少なく、またその消費者価格はいつも高いように思われるが、じつはそうではない」。 というのも、独占企業のもとでは、競争が激しい場合より、かえって経費が節約できる場合があるからである。店舗数や広告宣伝費も少なくてすむかもしれない。生産規模の大きさにともなうメリットもある。生産方法の改良や機械の導入もよりスムーズにおこなわれるだろう。
 競争を排除することが、公衆により利益をもたらすこともあるのだ、とマーシャルはいう。独占企業が将来の事業の発展を期待して、価格を引き下げることもおこりうる。その場合、会社はべつに人道的動機で動いているわけではないが、「純収入を一時的には多少犠牲にしても消費者余剰を増大したほうがかえって長期的には利益になる」と考えているのだ。
 理想的には、独占企業が商品を販売することで、独占収入を得るだけではなく、同等の消費者余剰をもたらし、双方の純利便が大きくなることが望ましい。いや、むしろ、独占企業が最大可能な独占収入を獲得することだけをめざすのではなく、できるだけ消費者の利益を高めることが望ましい。その結果、商品の価格を低く抑え、販売量を増やしたほうが、社会にとってはメリットが大きいといえる。しかし、実際には、それはほとんどおこりえないことである。
 マーシャルはビジネス活動をふり返りながら、「種々な行動経路について生産者の利害だけでなく消費者の利害にたいしてもある秤量値を与えようとするものは多くはいない」と指摘する。消費者の利害や需要に関する公共的な統計もまだ整備されていない。そのため企業家は経験と勘に頼って、経営判断を下し、おうおうにして失敗する。
 消費に関する研究はまだじゅうぶんに進んでいない。統計もまだそろっていない。需要や消費者余剰に関する研究は将来の課題として残されている、とマーシャルは述べている。公共事業や企業活動のよしあしは、政府や企業のメリット、デメリットだけではなく、消費者のメリット、デメリットをみて、はじめて判断されるのだ、というのが、かれの考え方といってよいだろう。
 マーシャルは独占企業がすぐれているといっているわけではない。しかし、独占企業を否定して、競争が正しいとも主張していない(マーシャルの独占体論は公営企業にも適用できるものだ)。
 独占企業が高価格を維持し、消費者に不利益をもたらすケースも紹介している。そのいっぽうで、公共の利益のために、補完的な独占体は合併するほうが望ましいとも述べている。
 また現実の世界では、純粋で永続的な独占企業などどこにもないと認めている。それどころか、「現代の世界では、既存のものが消費者の利益を増すように開発されていないとすると、これに代わって新しい商品、新しい方法が台頭し、これらに代替していこうとする傾向がいよいよ強くなってきている」。
 独占企業も永遠ではありえない。産業の合理化をめざした企業間合併も、それがはたして公共の利益につながるかどうかという面から判断・評価されなければならない、とマーシャルは論じている。
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