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竹田青嗣『欲望論』を読む(3) [思想・哲学]

 ヨーロッパの中世では、存在の始原的原理は神に置かれていた。しかし、デカルト(「われ考えるゆえに、われあり」)の時代になって、ふたたび哲学の「自由な思考」が再開される。そのころ自然を客観的に認識するための観察、仮説、実験、検証という方法も生まれていた。
 フッサールは自然の客観的認識方法を「自然の数学化」と概括している。自然を客観的に認識するとは、自然空間と時間を幾何学的秩序として記述するとともに、自然事物の諸性質を数式化することにほかならなかった。
 空間や時間を幾何学的にとらえ、それに基準(長さや高さ、温度、何時間など)といった基準を与えること。それによって「物理主義的合理主義の世界像」を与えることが目指されていた。
「こうして、すべての自然科学的研究はますます数学化された自然の表象体系として展開し、一切の認識を単なる『記号的概念』を操作する技術的思考へと変更する」
 しかし、自然認識の方法は、認識とは何かという問題を解決したわけではなかった。そこでは、意味形成の根源についての問いが失われ、いわば「意味の空洞化」が生じていた、と著者はいう。
 こうして心身二元論が登場する。すなわち事物と「心の世界」の分裂。主観と客観の対立。
 スピノザはこれを統合しようとして、世界の一切は合理的な「神」から流出し、完全な因果関係の秩序のもとに成り立つという合理主義的独断論を打ちだす。これにたいし、ヒュームは、どのような世界観も個々の主体、あるいは諸文化の経験的な構成物にすぎないという経験主義的懐疑論を提示する。
 合理主義的独断論と経験主義的懐疑論。「近代哲学の、そしてそれに続く現代哲学の認識論は、まだこの近代認識論における根本的対立構図から一度も解き放たれたことがない」。20世紀のマルクス主義とポストモダン思想の対立、論理実証主義と論理相対主義の対立をみても、そのことがわかる、と著者はいう。
 さあ、ややこしくなってきた。
 まずは、ヒュームの方法的懐疑論、方法的経験論について。一切の経験的因果性はただ主観のうちの「信念」としてのみ成立する。それは絶対的なものではなく、あくまでも情動(感情)によってもたらされた習慣的傾向としてとらえらえる。これがヒュームの考え方だ。
 ものごとの発生する原因は無数に考えられる。しかし、真の原因などというものは「むしろ人間がそのつど何を自分にとって重要なものとみなすかという、生の目的性と相関的にのみ現われ出る」。逆に言い換えれば、力(作用)の因果性は遡行不可能ということになる。
 ただし、ヒュームはみずからもゴルギアスのような懐疑論者ではないと述べている。われわれが「なぜ」と原因を問うのは、その根源性を求めるためではなく、その効用性、有用性を求めるためである。そうした原因がつきとめられたなら、それ以上のもの(たとえば神)に遡行する動機は失われる。「われわれは信念のそれ以上遡行できない底板につきあたったなら、そこにとどまるべきである」──著者はこれこそがヒュームの哲学の核心だという。
 厳密にいえば、ヒュームを相対主義者、懐疑主義者と呼ぶのはあやまりで、かれの立場は「方法的経験論」にほかならない。著者自身も共感するニーチェとフッサールは、こうしたヒュームの考え方を引き継いでいるという。
 とはいえ、ヨーロッパでは、長らく哲学の中心課題は、現象の背後にある「本体」、言い換えれば真の実在を探究することに置かれてきた。
 ここで、近代の代表的哲学者として、カントとヘーゲルが登場する。
 カントは『純粋理性批判』のアンチノミー(二律背反)の議論で、懐疑論を根本から否定し、世界認識の普遍的可能性を確立しようとした。帰謬論的相対主義は無化され、同時に形而上学的独断論も否定され、それによって哲学的な普遍認識の可能性を示そうとしたのである。
 いっぽうで、カントは本質と現象という図式を提示した。世界は現象界と可想界(物自体)に区別される。現象界は客観的認識が可能である。しかし、物自体を完全に認識することはできない。
 著者はこう書いている。

〈カントの「物自体」とは何か。絶対的に認識も経験もされえず、しかしその存在の想定なくして「われわれの世界」の存在自体が考えられないもの、われわれの世界の総体を絶対的に可能にしているものとしての「真なる存在」。それは完全にアクセス不可能であるがゆえに「語りえぬもの」であるが、われわれがこの世界を生きて経験する限り、その存在を否認することが決してできない「何かあるもの」。〉

「物自体」とは、人間の経験世界の背後にあって、現象一般を可能にしている何ものか(本体)である。ぼくなどには、かつて神と呼ばれた存在が、カントにおいては可想しうる「物自体」に変換されているのではないかと思えるほどである。神が「物自体」に置き換えられているとすれば、これはおそらくヨーロッパの思想界にとっては、大きな衝撃だったはずである。
 次にヘーゲル。ヘーゲルはカントの認識論を批判し、弁証法の概念を展開しつつ、壮大な有神論の体系を築いた。
 認識は時間的生成の構造として把握されねばならない。これが弁証法のミソである。意識によって見いだされるものは、すでに「先構成」されている。それはすでに時間的に(歴史的に)構成されたものであり、持続する運動の途中過程にある。世界の存在の根源は、絶対精神から発し、精神的原理を展開しながら、運動を持続しているというのが、ヘーゲルの考え方である。

〈ヘーゲル哲学の体系はむしろさまざまな存在者の認識を超えて、人間と社会の生成変化の総体とその究極的動因(絶対的精神)についての「存在論的解釈学」としてうち立てられる。〉

 ここで著者は、普遍認識論を打ち立てるためには、哲学の新たな原理(本体論の解体)を打ちだすとともに、哲学的相対主義ないし懐疑論を根本から批判しなくてはならないと述べている。
 カントによる懐疑論の否定は、それ自体は認識できない「物自体」の観念をもたらした。
いっぽうヘーゲルにおいては、認識は本質的に否定の弁証法的運動として現れるのであって、相対主義と懐疑主義は、その一過程で登場するにすぎず、それ自体非本質的で偶然である。
 イロニーもまた「正しさの信念」にたいするアンチテーゼである。イロニーは、自我、主観性を絶対とし、「絶対の内面」のみを存在の本質とする。客観性自体は放擲されている。現代のポストモダン思想には、こうしたイロニーの傾向が強い、と著者はいう。
 絶対精神を根源とするヘーゲル哲学は、一種の汎神論である。それが自我から出発するのも事実だが、その自我も最終的には絶対精神に吸収されていってしまう。
 ヘーゲルのつくりあげた一種の「本体論」に、著者はニーチェを対置する。

〈われわれはニーチェのマニフェストを思い起こさねばならない。近代科学は古い信仰を打ち倒しただろうか。否、それは「絶対神」の像を破壊したがそこに孕まれていた本体的思考、すなわち「真理への意志」を新しい仕方でうち立てたのだと。この自覚によって、はじめてヨーロッパの世界像は超越的な絶対者のみならず世界の「本体」の観念の完全な解体の道を拓いて進む。〉

 本体論とは、世界の究極的根拠について語ろうとする独断論的思考だといってよい。
 ニーチェは、いっさいの認識を欲望相関的−目的相関的ととらえ、「物自体」の観念を徹底的に破壊しようとする。

〈ニーチェの構図はこうである。「世界」は、さまざまな生命体の身体=欲望と相関的にのみ、それゆえまたさまざまな「生の世界」としてのみ、現出する。完全な認識は存在せず、したがって「物自体」の概念は成立しない。〉

 ここには新しい存在論が登場している、と著者はいう。「存在」は生それ自身が構成するものだ。「身体と欲望に相関して絶えず価値と意味とが生成する力動の磁場こそが、われわれにとっての真なる世界にほかならない」
「原因」なるものは人間主体によって導き入れられたもので、原因それ自体はまったく存在しない。したがって、存在の始原原理や物自体、絶対精神などの「可想的理念」を取りあげること自体、意味がない、とニーチェはいう。
 実証主義的−実在的世界像だけが残り、有神論的本体論は解体される。だからといって、哲学が終わるわけではない。「生」の相関者として、存在、対象、原因、意味、価値、真、世界といった概念が再編されなければならない。
 生の事実は「生成」であり、「存在」はこの「生成」という力動の相関者として現れる。ニーチェはそのことをはじめてあきらかにした。そして、この「力相関性」の存在論を切り拓いたのがフッサールだ、と著者はいう。
 こうしてフッサールの現象学への接近がはじまる。
 むずかしいが、ついていくことにしよう。

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