SSブログ

竹田青嗣『欲望論』を読む(5) [思想・哲学]

 第2部「世界と欲望」にはいる。最初の章は「欲望相関性」だ。
 哲学の出発点をめぐる論議。ヘーゲルは経験的意識の直接性から出発するが、この直接性はすでに媒介されており、絶対精神にいたる円環運動をなしている。これにたいし、ハイデガーの出発点は存在である。存在に耳を傾け、思索つづけることが、かれの哲学といえる。
 ニーチェはヘーゲルやハイデガーのように始元の理念から出発しない。「生の経験の原初性から出発せよ」という。これこれが存在するはいちばん最後にくる。
 ニーチェの本体論解体を支持しながら、著者はいう。

〈ある「力の中心」(生)が自らの世界に決定的な遠近法を与える。力という中心なしには世界も存在もありえない。われわれはこのニーチェの「力による遠近法」の構図を、「欲望−身体相関性」の構図へと位相変様する。〉

 ニーチェを批判的に継承しながら、ここに著者の哲学の方向性が示されたことになる。
 出発点は情動、感情、衝動、欲望である。
 カントは別として、ヒュームやロックをはじめ、多くの哲学者は情動の根源性を認めてきた。ヘーゲルは生きものは欲求をもち、そのことによって自身を疎外(区別)し、その矛盾を解消するために、欲求を満たしたいという願いをもっているが、それがいったん満たされたとしても、その矛盾ははてしなくくり返されるとみていた。とはいえ、そのことが生きるということでもあった。
 ここで、著者は情動や情念、欲求、衝動など、自我の外にある「第一動者」を一括して「欲望」と呼ぶと規定している。
 ヘーゲルによる自己意識としての欲望論を、フロイトも受け継ぐ。すなわち触発、興奮、不快(不満)、低減欲求、行為。自己意識にはそうした構造があり、しかもその構造は繰り返される。
 問題は、こうした人間の欲望を内的に洞察することだ。
「一つの『欲望』の到来によって、世界は始原的に分節される」と、著者はいう。この場合、分節とは私のものとして世界が切り取られる、あるいは開かれるということを意味する。この内的体験、あるいは世界感受は、ひとつのひらめきとなり、意識をもたらす。
 それは単なる認知ではなく、感知でもある。快−不快の感知を、著者は「エロス的力動」と名づけている。「触発されること、感知することは内的なエロス的力動の系(セリー)が生成することである」。すなわちエロス的力動による世界生成。

〈生き物はつねにすでにエロス的力動の可能態としての「身体」である。一切の生き物は、衝動、欲求によって世界を時間化し、また「身体」において世界を空間化しつつ生きる。〉

 欲望が内的な時間と空間を生みだす。そして、欲望を満たすために身体が投企される。
 欲望としての衝動、欲求の情動が「自己」と「世界」を分節する、と著者はいう。対象は自己の欲望の相関者であるとともに、自己の可能性の相関者でもあり、そのようなものとして、みずからが何であるか(同一性)を示す。言い換えれば、対象は「欲望−身体」の相関者としてあらわれる。

〈欲望論的始元論は、生命体におけるエロス的力動の発生についての創造的本質洞察から始発する。世界は、「本体」としてはどんな始元も起原もまた究極原因ももたない。しかし生の「内的体験」は、その体験の内的本質として、必然的に生成の始発点をもつ。あるエロス的力動が生き物のうちに生じるとき、欲求あるいは欲望が到来するとき、世界はそのつど新しい分節を開始する。〉

 著者は形而上学対相対主義の構図を捨てるところから出発する。そして、「欲望−身体」という新しい出発点を設定することによって、内的体験として現出する世界を把握しようとする。
「内的体験」にとっては、欲望(感覚、衝迫、情動)の到来がつねに世界生成の根源的始発性を意味する、と著者はいう。内的体験をもたらす「現前意識」こそが出発点となる。その背後に回りこむことは無意味である。
 欲望の生成は、生ある存在にとっての絶対的存在理由であって、意味、目的、理由といった概念もそこから生まれる実存的範疇である。欲望の由来を知ることはできない。それはまさに非知的なものとして到来する。
 欲望の非知性は、それが意識の現在性(現前意識)の絶対的起点であることを意味する。そして、企投−行為−努力といったものが意識されつつ維持されるのは、駆動性としての欲望が、全過程において持続されるからである。

〈欲望の到来において主体は、エロス的予期に衝迫されること、対象をめがけ目的へとたどること、その困難、可能性、努力、苦しみに耐えることを、絶対の規定性として受けとる。すなわち一つの衝動の到来性が主体と対象を生成し、世界をなんらかの区別、目標、順列、位階、選択項目として生成する。この区別され、分節されたものとしての世界のうちを目的へとめがけて企投すること、そこから世界と対象についての意味と価値の一切の諸相が生成される。〉

 欲望を基底として、世界の諸関係は、一つ一つの実存主体にとって、意味と価値の網の目として立ちあがっていく。
 世界感受の基本的エレメントはエロス的力動性であり、それはまず快−不快の審級においてあらわれる、と著者はいう。
 フロイトによれば、快と不快は生命体の生物学的−生理学的根本機構(生命維持システム)から発生する。不快が危険という信号あるいは警告であるのにたいし、快はその除去あるいは解消である。そして、すべての動物的生は快に向かう本性(快感原則)をもっているとされる。
 いっぽう、動物学者は快と不快を、近接行動と離隔行動、求心的行動と遠心的行動の二項性としてとらえる。とはいえ、その情動は内的体験としては直接とらえることはできず、あくまでも自身の内的体験に即して、直感的に洞察(推測)されるだけである。
 しかし、著者は、快とは不快の消滅や解消にあるというフロイトの考え方に異論をはさむ。それは、快の重要な契機ではあるが、快そのものではない。快とはあくまでも心的カテゴリーとしてのエロス的情動そのものにある。
 欲望−身体としての主体にとって、相関する世界はあくまでも真なるものとして現出する。そのことをあきらかにしたのはニーチェだが、ニーチェには、生命体自体に内在するたえず自己を拡大しようとする暗黙の意志(力への意志)こそ、人間の快−不快などの感情を支える行動である、という発想がある。
 しかし、肉体の内なる根本意志が快と不快を生じさせるというのは、一種の本体論的仮説であって納得しがたい、と著者はいう。人間の存在本質を「生の衝動」と「死の衝動」の二元論によって説明するフロイトの仮説も説得的ではない。生き物における内的力を測りうるものは、肉体が覚える快−不快の強度、すなわちエロス的力動の強度以外にない、と著者はいう。
 それは根源的到来であって、その生成の背後に回ってみることはできない。

〈内的体験の世界においては、つねに無から有が生じ、有は無へと経緯する。情動はたえずある時点で生起し、そして衝迫、目的指標、企投、成就、充足、衝動の消滅といったサイクルを反復する。……ある欲望の到来(その了解)はつねに一つの絶対的到来、絶対的起点であり、そこから価値と意味の系(セリー)が展開し、この系はある時点で消滅する。〉

 フッサールは、知覚、想起、想像という個的直感が認識一般の基盤をなすとした。これにたいし、ハイデガーは実存的欲望=関心の優位を主張し、メルロー=ポンティは世界や身体に内属する意識をその出発点と唱えた。サルトルは情動を周辺世界から受け取る状況的な感情的反作用ととらえた。著者はあくまでもフッサールの立場を継承しようとしている。
 フッサールによれば、目の前の対象が実在的な事物であるのは、純粋意識(現前意識)のとらえる像を現実の知覚像とする確信にもとづく。把捉(意味づけ)された対象には、よしあし、優劣などの価値性がつけ加えられる。そこから対象への心情や意欲が生まれるとされる。
 たとえば果物を見た場合、まず知覚像(ノエシス)から、これは果物であるという対象意味(ノエマ)があらわれ、さらにうまそうだという価値づけがおこなわれるというのが、フッサールのとらえ方だ。しかし、「一般には、知覚像、対象意味、そしていわば情動所与が一瞥のうちに所与される」のではないかと、著者はいう。言い換えれば、「あらゆる場面において『情動所与』は、人間の対象認識において不可欠な本質契機である」。
 意味と情動の一致が乖離するとき、現実性の感覚が異常をきたす。そのことは、統合失調症の経験をみればあきらかである。このとき諸対象は「対象意味の間主観的な共通性を喪失し、『世界』は、その人間のみに固有な意味と情動の秩序なき奔流となる」。
 日常生活における自明性の喪失は、明確な自己の希薄化をもたらす。対象が脈絡のないまま次々とあらわれ、その場かぎりの情動と想念の流れのなかにただよう。
 著者は現実性の本質的条件を、(1)つねに明確な「自己意識」、すなわち「関係意識」=時間・空間意識や対他意識をともなうこと、(2)定常的な情動をもって対象を一般的意味として把持しうること、(3)周辺の諸事物、諸事象が時間的・空間的整合性を維持していること、と規定している。これらの条件が欠ければ、生き生きした現実性の意識は失われることになる。
 情動はやっかいである。情動の希薄や奔流が、現実性の喪失をもたらす。それはコントロールすることができない。
 われわれは通常、一瞥によって対象を知覚する。そこには対象の意味や、それにともなう情動、状況関連性が生き生きと与えられている。より注意深い観察(再確証)が必要とされるのは、なんらかの理由で対象確信に疑念が生じる場合である。
 揺れる柳の葉を幽霊と見間違えるのは、一瞥的知覚が恐れの情動を喚起するためである。だが、対象意味(ノエマ)が先にあって、それから情動や価値がもたらされるわけではない。それは一挙に出現する。
 まったく未知の事物に出会ったとき、われわれは疑い−吟味−確証によって、対象の意味を認識する。そのさいにはエロス的力動(いわば生物的本能)にもとづく内的体験が生じている。しかし、「対象の知覚が同時に対象の意味(対象ノエマ)として現われるのは、生命体におけるエロス的力動とその時間化[いわば経験]、この対象に対してある態度をとりうる、という本質的諸契機においてである」。
 ここから、著者はフッサールのとらえ方をひっくり返す。すなわち、知覚よりも情動が優位なのだ。

〈対象知覚における対象意味と情動の関係は、発生的本質においては、この順序は反転されねばならない。すなわち、対象との直接接触はエロス的情動を触発し、このエロス的情動触発の経験的反復が、対象の遠隔知覚(形象的知覚)における予期的情動を形成し、そしてこの予期的情動の発動こそが、対象についての第一義的な「意味」、すなわちそれが「何であるか」についての予期的了解であるからだ。〉

 こうして、著者による世界構想の方向性があきらかになる。すなわち欲望−身体の相関性を基盤として、意味と価値が発生し、それから価値審級が形成されるというように論議は進んでいく。

nice!(8)  コメント(0) 

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント