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『毛沢東の私生活』を読む(3) [われらの時代]

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 1967年、中国は大混乱のさなかで、武闘が頻発し、銃をもつ者もあらわれていた。保守派と造反派の対立によって、工場や学校はほとんど機能を停止していた。
 毛沢東は造反派を支持して闘争をあおるいっぽう、200万の人民解放軍を投入して、事態の収拾をはかることになる。これにより、中国全土は次第に軍事管理下におかれていった。
 医者である著者も文革への参加をうながされ、警衛団(軍)に加わって、北京の紡績工場に送りこまれたという。軍事管理下で革命委員会が設けられたことで、工場では、やがて生産が再開された。
 文革は毛沢東が造反をあおることによって、混乱がひろがり、軍が混乱を収拾し、反毛沢東派が追放されるという経過をたどったことがわかる。しかし、いったんひろがった混乱が収まるには、長い時間がかかった。
 毛沢東は自身への絶対的忠誠を求めた。しかし、すでに後継者問題もくすぶりはじめている。軍を動かす林彪や政治の実権を握ろうとする江青一派など、周辺では、さまざまな思惑がうごめいていた。
 文革で主たる攻撃対象となったのは国家主席の劉少奇、党中央総書記の鄧小平、国務院副総理の陶鋳である。67年7月には、国務院のなかでも、下級幹部による劉少奇吊し上げ闘争がくり広げられていた。
 そのころ毛沢東は上海にいて、厳重な警備に囲まれながら、病気に苦しんでいた。呼び出された著者は、北京から空軍機で上海にかけつける。
 毛沢東が苦しんでいたのは、いつもの気管支炎である。陰部ヘルペスもかかえていた。しかし、性交渉があまりに広範囲にわたるため、原因の特定はできなかった。それに感染するからと注意しても、自制する様子はまるでなかったという。
 中南海での騒ぎについて、報告すると、「あいつら、おれのいうことをきかんのだ」と答えた。あいつらとは、江青ら中央文革小組のメンバーを指している。
 毛沢東は上海にひと月ほど滞在したあと、7月中旬に武漢にはいった。武漢では派閥間で激烈な武闘がくり広げられていた。ややこしいのは、そのどちらの派閥も毛沢東に忠誠を誓っていたことだ。周恩来はその収拾に苦労する。
 毛沢東の留守中、北京は極左派の手に落ちていた。外務省までが紅衛兵に占拠されていた。8月に北京に戻った毛沢東は、さっそく王力などの急進派排除に乗り出す。王力らの背後には江青グループがいた。だが、毛沢東は依然として江青を排除する措置をとろうとはしなかった。
 1968年になった。
 このころ江青がねらっていたのは周恩来と毛沢東の警備にあたる汪東興だった。著者もまた江青からつけねらわれていた。歯を治療するとき、自分を毒殺しようとしたと言いがかりをつけ、著者を追放しようとした。だが、毛沢東に守られて、一息ついた著者は、危険を避けるため、中南海を離れ、北京紡績工場に身をひそめ、ここで労働者の病気治療にあたった。
 そのころおきたのがマンゴー事件である。
 この事件については、辺見庸が吉本隆明との対談のなかで、こう語っている。

辺見 ……たとえば文革期に毛沢東がある工場へ行って、果物のマンゴーをプレゼントする話がありますね。そうすると工場側はいたく感激して、滂沱(ぼうだ)と涙を流して喜ぶ。それでマンゴーをワックスで固めて特設祭壇に祭り、労働者がその前を通るときは必ず最敬礼させる。ところがマンゴーは内部から腐り始める。そうしたら工場側は慌てて、腐ったマンゴーを大鍋でゆでて、皆で匙一杯ずつ聖なるマンゴー汁をすくって飲んだというんですね。これははっきり言って、オウム真理教と同じじゃないですか。
吉本 そうです。間違いなくそうだと思いますね。いや、人間というのはやっぱり奥深い感じがするな。
辺見 現時点から毛沢東とその時代を見れば、われわれ、たやすく笑うことはできる。しかし自分がその渦中にいたら、卑劣に立ち回ったであろうと思いますね。私もマンゴー汁を飲んだだろうな……。〉

 著者はもちろんその現場に立ち会ったのである。そして、毛沢東にその話をすると、主席は声を立てて笑ったという。「毛にとってマンゴー崇拝はなんら不都合な点がなく、多いに主席を楽しくさせたようだった」と、著者は書いている。
 それにしても、「人間というのはやっぱり奥深い感じがするな」という吉本の発言は実感がこもっている。文革はふだんは隠されている人間の暴力性や狂気、卑劣さ、残忍性などを、何のてらいもなく、外に放出させていた。
 68年半ばには、毛沢東はすでに学生たちを信頼せず、むしろかれらに手を焼くようになっていた。
 著者はそのころ北京紡績工場で医者としてはたらき、その様子を時折、毛沢東に話していた。工場はすでに平穏になっていた。だが、ほかの職場や国内各地では、まだ文革の混乱がつづいていた。
 10月になって、著者は中南海に呼び戻され、また主席付の医師となる。毛沢東は歯痛に悩まされていた。歯科は専門ではないとことわったのだが、毛沢東は認めなかった。毛沢東は歯磨きをしない。せいぜいできるのは歯周炎を改善することくらいだったという。
 プロレタリア文化大革命の目標は、1956年の第8回党大会の指針──すなわち集団指導体制、個人崇拝の禁止、毛沢東思想の撤廃と毛沢東の「冒険主義」批判──をくつがえすことにおかれていた。
 それは、ほぼ成功を収めていた。ただし、大混乱をともないながら。
 1969年4月に予定された第9回党大会は、文革の成功を記念する大会になるはずだった。
 68年10月に追放された国家主席の劉少奇は虐待されたすえ、11月に死亡した。鄧小平もまた追放され、党の政治局は壊滅状態になっていた。
 そんななか、党大会への準備が進められていたのだ。
 大会の目標は、毛沢東を最高指導者とする国家体制の再確立である。
 追放をまぬかれ生き残った者たちのあいだでは、緊張が高まっていた。江青と林彪の同盟関係もほころびかけていた。すっかり意気消沈していた周恩来は、卑屈なまでに毛沢東に忠誠を尽くすことによって生き延びることになる。
 文革は収拾に向かっていた。紅衛兵たちは下放を命じられ、辺境での労働を強いられる。中国全土が人民解放軍による軍事管理下にはいった。
 そして、世界史的な大転換がなされるのである。

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