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ヒントン『百日戦争』をめぐって(2) [われらの時代]

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[1968年の清華大学] 
1968年7月27日の夕方、清華大学では、紅衛兵の「兵団」と動員された労働者宣伝隊とのあいだで激突がつづいていた。
 労働者宣伝隊を指揮する人民解放軍の責任者は、労働者側に死傷者が増えるのを憂慮しながら、事態の収拾に苦慮していた。できるだけ戦闘になるのを抑えて、理性と宣伝によって、学生たちに投降を促そうとしていたのだ。
 人民解放軍と労働者宣伝隊の代表は、「兵団」の司令部で、「兵団」指導者の蒯大富(かいたいふ)と会見したが、そこで閉じこめられてしまう。
 休戦協定が結ばれたとき、蒯大富はすでに「兵団」の脱出をはかろうとしていた。極秘裏に「兵団」の精鋭部隊を、北京市内の別の学校や、地方にある大学の分校に移動させていたのである。
 7月28日早朝、毛沢東は蒯大富を含む5人の紅衛兵指導者と会見し、蒯に向かって、君はうぬぼれており、このまま戦闘をつづけるなら、君たちを暴徒として処分すると述べた。
 その結果、ついに占拠された建物が明け渡されることになった。
 武器の捜索は建物や構内のあらゆる場所におよんだ。「兵団」の逃げ込んだ場所も武装解除され、部隊のメンバーは大学にもどるよう促された。
 紅衛兵両派による武力闘争が終結し、占拠された建物が解除されたあとは、労働者宣伝隊があいだにはいって、両派の大連合がこころみられた。
 だが、両派はともに毛沢東思想への忠誠を主張するばかりで、話し合いは難航し、しばしば口論になった。そのため、捕虜の交換もままならなかったという。
 ようやく事態が落ち着き、大学に戻ってきた学生や教職員は、学科ごとに政治学習班に編入された。党派の筋金入りの指導者は一般の学生と分離されて、特別学習班に入れられた。とはいえ、同じ班のなかで学習し、生活しても、両派の言い争いはやまず、たがいに非難をくり返す状態がつづいた。
 8月15日、毛沢東は労働者宣伝隊と会見した。清華大学では、そのことを祝う大衆集会が開かれる。
両派の学生は、のどが涸れるまで「毛沢東万歳!」と叫んだ。
 そして、その大衆集会の場で、連合に向けての両派の話し合いがもたれた。それは明け方までつづき、ようやく両者は連合することで同意した。
新しい組織名がつくられ、主席には「兵団」の蒯大富(かいたいふ)、副主席には「4・14」の沈如槐(ちんじょかい)が就任した。
 その後は、ときに暴力沙汰が生じることもあったが、両派の連合は次第に固まっていく。
 それを推し進めたのは、人民解放軍の指導する労働者宣伝隊だった。学生たちは、毛沢東の著作や最近の指示をともに学習した。かれらがただしい出身かどうか、反革命分子ではないか、国民党の工作員ではないかも詳しく審査された。
 とはいえ、両派の対立感情には根深いものがあり、とりわけ蒯大富(かいたいふ)は、かつての「兵団」の勢力を維持するために、さまざまな工作をおこなっていた。
 労働者宣伝隊を指導した人民解放軍の鹿芳謙(ろくほうけん)は「ブルジョア的な党派主義とお山の大将主義」を批判しながら、両派に労働者階級による教育と学習を求めることで、大連合を維持することに成功する。
 その結果、1969年1月に、大衆の代表と大学幹部、人民解放軍の代表からなる革命委員会が結成された。革命委員会は1年にわたって、教師や生徒の経歴や政治信条を調査する作業をおこなった。それによって、不適格な者を排除し、階級的立場の良好な「健全分子」を復権させることにしたのである。
 毛沢東の著作を学ぶことは必須だった。工場で働くことも求められていた。湖を干拓し農地をつくる仕事を命じられた者もいる。強調されたのは、労働者と農民から学ぶことである。
 かつて副学長を務めていた工学教授の銭偉長は、こうした労働を経て、「私は『誰に奉仕するか』が知識人にとって問題の鍵であることを悟ったのです」と語っている。
こうして清華大学では、ようやく1970年1月に大学の執行機関である清華大学共産党執行委員会が成立し、正常な教育が再開されることになる。
 旧来の入試制度は取りやめられ、中学(日本の中学・高校)の卒業生は工場や人民公社、人民解放軍で3年間仕事をしたあと、選抜され、20歳前後で大学入学を認められるようになる。
 すべての学生は、労働者、農民、兵士の家庭の出身だった(ブルジョア階級や右派分子、反革命分子の出身者は排除された)。中学の成績だけではなく、毛沢東思想をいかに学んでいるかが重視された。
その審査をとおって入学した学生は大隊に帰属し、さらにそのなかの45人からなる小隊(学級)に編入され、学習をはじめる。
 最初は自分の専攻分野と関連する工場や建設現場で仕事をし、そのあと4カ月ほどしてから大学に戻され、はじめて専門教育を受けることができた。
 清華大学では、原子エネルギー工学や宇宙科学、素粒子理論、生命科学、数学にも力点が置かれていたが、頭だけのエリートは認められなかった。「誰にどのようにして奉仕するか」を学ばなければならない、というのが文革を経た大学幹部の方針だったという。
 しかし、清華大学の文化大革命は、これでめでたし、めでたしとはならなかった。
1971年3月、党中央の指示で、極左派の「5・16兵団」を糾弾する大衆集会(事実上の人民裁判と呼ぶべきかもしれない)が開かれた。
「5・16兵団」と名指されたメンバーには、中央文革小組の王力や、人民解放軍の楊成武、中央委員会政治局の陳伯達をはじめとして、すでに下放されていた蒯大富(かいたいふ)も含まれていた。
 蒯大富は毛主席の意に反し、井岡山兵団を過激な挑発的行動にみちびき、1968年7月27日に労働者宣伝隊に銃を向けたとして、徹底的に追及された。
「5・16兵団」は暗に林彪グループとみなされていた。この時点で、すでに毛沢東と林彪の対立は決定的になっていた。
 林彪事件が発生するのは、1971年3月の大衆集会から半年後である。
 蒯大富はのちに北京市公安局によって逮捕され、反革命煽動罪により17年の懲役を宣告され、刑務所に収監されている。
 習近平が清華大学に入学するのは1975年のことだ。
 さて、この物語をわれわれはどう読み解けばよいのだろうか。

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