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ウィリアム・ヒントン『百日戦争』をめぐって [われらの時代]

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 1966年8月にはじまった紅衛兵運動は、68年7月末に終わりを告げる。その年の終わりから、造反派の学生たちを農村部で再教育するための「下放」がはじまる。「革命」は終息し、中国は事実上の軍事体制下にはいった。
 文化大革命は、社会主義から共産主義への移行をめざす毛沢東の最後の戦いだったともいえる。それを実行するために、毛沢東は劉少奇などの上級幹部と、それにつながる官僚集団を、大衆運動によって粛清しようとした。だが、それは壮大な失敗として幕を閉じたとみてよいだろう。
 北京にある中国を代表する理工系大学、清華大学では、1968年4月から7月にかけて2つの紅衛兵グループによるすざまじい内ゲバがくり広げられていた。いわゆる百日戦争である。
 この内ゲバを収拾したのは、大学に派遣された労働者集団(指揮したのは人民解放軍)だった。
 1966年秋から翌年にかけて清華大学でどのような動きがあったかは、以前、このブログで紹介したので省略する。劉少奇の妻、王光美にたいする弾劾が激烈だったことを思い起こしていただければよい。
 今回は、読み残していたヒントンの『百日戦争』の後半、まさに1968年の「百日戦争」に焦点をあてることにしよう。
 1968年時点において、清華大学のヘゲモニーをめぐって、内ゲバをくり広げていたのは、急進派の「井岡山兵団」(以下「兵団」)と、穏健派の「井岡山4・14兵団」(以下「4・14」)である。
「兵団」が大学の幹部を追放せよというのにたいし、「4・14」は幹部の思想改造を求めればじゅうぶんだと考えていた。
 おろかな争いにはちがいない。しかし、どちらが大学のヘゲモニーを握るかという争いは熾烈をきわめた。穏健といっても「4・14」のほうも、武闘を避けていたわけではない。
 百日戦争の発端は1968年4月23日の払暁に「兵団」が清華大学の講堂を占拠したことである。講堂を追われた「4・14」は、ただちに講堂の隣にある発電機棟や科学教室棟を占拠し、武器の準備にとりかかった。
 両者の武闘は7月までつづいた。最初は拳固や石、棒でのぶつかり合いだった。しかし、次第に武器は刀と槍に移り、さらに拳銃や小銃、手榴弾、ロケット砲へとエスカレートし、ついには手製の戦車や装甲車まで登場することになる。理科系のエンジニア教育を受けた学生たちは武器をつくるのにも大きな才能を発揮した。
 ヒントンは4月23日、4月29日、5月2日、5月30日と戦闘が拡大し、多くの死傷者が出た経緯をくわしく描いている。しかし、それをことこまかに紹介する必要はないだろう。大学の権力を、暴力によって掌握しようとする両者の争いはとどまるところを知らなかった。
 両者の戦闘は、ついに膠着状態におちいる。「4・14」が大学構内の南と東を押さえたのにたいし、「兵団」は北と西を掌握した。とはいえ、「4・14」が占拠する科学教室棟は、「兵団」の支配地域にあって孤立していたため、脱出をはかろうとする学生は「兵団」から容赦ない射撃にさらされることになった。
「兵団」からみれば、「4・14」のメンバーは共産主義を踏みにじろうとする「階級の敵」であり、かれらを排除するのは正義にほかならなかった。とりわけ、造反派の英雄ともてはやされていた「兵団」の学生指導者、蒯大富(かいたいふ)は執拗なまでに「4・14」の殲滅をはかろうとしていた。
 こうして4月23日から7月27日までに、清華大学の抗争では、10人の学生が殴打や銃撃によって死亡し、多くの負傷者が出ることになった。派手な武器が飛び交ったわりには、死者はむしろ少なかった、と著者は評している。
 そのかん、清華大学の幹部や教授たちはどうしていたのだろう。大学の授業はもちろん中止されている。だが、かれらは自宅でのんびりしていたわけではない。走資派だとして批判され、大学から切り離され、審査を受けていたのだ。
 走資派とは、文字どおり、資本主義への道を歩もうとしている一派を指す。しかし、実際は毛沢東の急進的な集団化政策に批判的な立場を名指ししているとみてよいだろう。実際家の劉少奇と、その官僚集団は、毛沢東の嫌うソ連型の修正社会主義を導入して、国家を運営していこうとしていた。
 清華大学の学長、蒋南翔学長は、大学を運営するのは教授陣だと考えていた。毛沢東を批判していたわけではないだろう。それでも、劉少奇との関係が深いと疑われていた。
 ロケット工学の権威でもある副学長の銭偉長は、共産党員ではなく、科学の世界と政治は無関係だと主張していた。
 そのため、かれは文革中に、右派分子と糾弾され、ヨシズつくりや倉庫番をさせられることになる。
 さすがに学長の蒋南翔が労働に従事させられることはなかったが、それでもかれもまた北京市内の邸宅に逼塞させられていた。
 その他の教授たちは、学習と自己批判を命じられ、畑の除草や道路の補修、中庭や歩道の掃除などの作業にあたる毎日だったという。
 清華大学では、紅衛兵どうしのあいだで、100日にわたる激しい武力闘争がつづいていた。
 しかし、7月にはいって党中央は清華大学にたいしても、ついに武力闘争の停止を指示した。劉少奇はすでに1年ほど前から自宅監禁状態におかれている。劉少奇派のあぶり出しが終わったあと、各地での混乱を収束させる時期がやってきたのだ。
 こうして1968年7月27日に、少なくとも3万(一説には10万)におよぶ労働者の一団が、清華大学を取り囲んだ。労働者を動員し指揮したのは、毛沢東直属の八三四一部隊と人民解放軍といってよいだろう。
 労働者の部隊は、大学構内に突入する。だが、学生たちは容易に武装解除には応じなかった。
労働者たちは「兵団」と「4・14」両派の拠点を包囲し、『毛主席語録』を朗読したあと、「武闘ではなく文闘を。武器を置け、大連合をつくれ!」と一斉にスローガンを叫んだ。
 科学教室棟に籠もっていた「4・14」は武器を置くつもりはなかったが、ともかく労働者を中に招き入れた。
 これにたいし、「兵団」のほうは労働者たちに「ウジ虫ども、ねぐらへ帰れ」と罵声をあびせ、石やビンを投げつけはじめた。さらに槍で襲いかかり、手榴弾、拳銃、小銃まで用いて労働者を撃退しようとこころみた。これにより、5人の労働者が死亡し、731人が重傷を負い、143人が捕虜となった。
 紅衛兵運動によって混乱が生じていたのは、清華大学や北京大学だけではなかった。全国各地で大きな戦闘がおこり、事態は混沌としていた。
 だが、ことばや思想で、混乱が収拾するわけもない。混乱を収めるには人民解放軍によるほかない。人民解放軍が労働者を動員して、各地の武闘を停止させる方向が模索された。
 清華大学で生じたのも、こうした全国的な混乱収拾の一環だった。
 紅衛兵運動は、それまで抑えられていた社会主義体制への不満を一気に爆発させるものとなり、もはや人民解放軍を投入しないかぎり、混乱収拾が不可能な状態になっていた。
 こうして文革の混乱は次第に収拾されていく。
 その結果、中国は事実上の軍事体制下にはいり、党副主席兼国防部長の林彪の力が増してくる。だが、皮肉なことに、そのことが毛沢東による林彪排除へとつながっていくのである。
 しかし、そこまで進む前に、清華大学の様子をもう少し詳しくみていくことにしょう。

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