SSブログ

古代史(2)──宮崎市定『中国史』を読む(4) [歴史]

 秦の始皇帝の父、荘襄王(そうじょうおう)は若いとき趙の人質になっていた。そのころ大商人の呂不韋(りょふい)と知り合い、カネを秦の朝廷にばらまいて、王位につくことができた。
 しかし、荘襄王の在位は短く、13歳の始皇帝が即位し、呂不韋は宰相となった。だが、始皇帝の10年に内乱があり、呂不韋は罷免され、李斯(りし)が重んじられるようになる。
 始皇帝は戦国の列強6国を次々と滅ぼし、即位26年目にして、天下を統一した(前221年)。最初に滅んだのは韓で、つぎに尚武の国、趙、最先進国の魏、南方の楚、東方の燕、斉が滅亡した。
 天下を統一すると、始皇帝は矢継ぎ早に重要な詔を発した。これにより、二千年以上にわたる皇帝制度が開始される。
 始皇帝は新領土を郡と県に分け、そこに中央直属の官を派遣するとともに、地方を巡狩(じゅんしゅ)し、道路を整備している。
 始皇帝は北方では匈奴を撃ち、万里の長城を築いた。同時に、越人の土地を征服し、南海、桂林、象郡(しょうぐん)の三郡を置いた。南海と桂林は現在の福建、広東、広西の各省、象郡はベトナムのハノイあたりとされる。
 始皇帝はこの空前の領土を支配するため、画一化政策を強行した。度量衡や書体だけではなく、馬車の幅まで統一している。封建制は廃止され、郡県制のもと、20級の爵からなる新たな階級制が導入された。
 爵をもたない庶民は黔首(けんしゅ)と名づけられ、その下に多くの奴隷がいた。商人は徹底して管理された。
 専制君主、始皇帝の暴政では、焚書坑儒が有名である。しかし、その目的は民間での私学を禁じ、法家の学を学ばせることにあって、儒者がむやみに殺害されたわけではないという。
 前210年、巡狩の途中で始皇帝は急死する。すると、国はたちまち混乱におちいり、地方の不満も爆発して、4年後に秦は滅んだ。
img20210607_06090470.jpg
[秦の武人。陳舜臣『中国の歴史』第3巻カバーから。平山郁夫]
 旧勢力をまとめ、合従の盟主となったのが楚の項羽である。だが、秦の都、咸陽を先に落としたのは、中流農民の子、劉邦だった。前206年、項羽は劉邦を漢王に封じた。だが、やがて両者の戦いがおこり、劉邦が勝利して、漢王朝の皇帝、高祖となる(前202年)。
 漢王朝は前漢と後漢に分かれる。紀元8年、14代目の孺子嬰(じゅしえい)のとき、王莽により王位を簒奪され、前漢は滅ぶ。だが、王莽の新はすぐに途絶え、25年に劉秀が後漢を立て、光武帝となった。
 秦の暴政と漢楚の戦いが終わったあと、中国は疲弊していた。そのため、漢の政府は、何よりも時局の安定を優先した。戦争による人口の減少と生産設備の破壊は経済上の大打撃にちがいなかった。だが、災禍がすぎてしまうと、それから後の発展は容易だった、と宮崎は書いている。
 高祖は政治の安定をはかるために、封建と郡県とを混ぜ合わせる姑息な手段をとった。諸将に領土を与えて王とすると同時に、機を見計らって取り潰しをはかることによって事実上の直轄地を増やし、そこに親族を配置していった。
 最大の外敵はモンゴル系の匈奴だった。前漢初期、匈奴は冒頓(ボクトツ)があらわれ、遊牧帝国を築いていた。高祖は匈奴との戦いに敗れ、毎年、多くの金帛を贈ることで平和を保った。
 高祖は在位12年目で亡くなり、子の恵帝が即位する。だが、権力を握っていたのは実母の呂太后である。恵帝が在位7年、24歳で亡くなると、その子が天子となり、呂太后が正式に摂政となった。
 呂太后が病死すると、高祖の同郷グループがクーデターをおこし、呂氏一族を誅滅し、恵帝の弟、文帝を位につかせた。文帝の治世23年は泰平無事のうちにすぎ、宮中の生活もきわめて質素だった。
 問題がなかったわけではない。ひとつは封建諸王の勢力が強く、ややもすれば中央から離反しがちなことだった。実際、次の景帝のときには、呉楚七国の乱が勃発した。匈奴による侵攻も多く、漢はこれを防御することに追われた。さらに貧富の格差や奢侈の傾向も進んでいた。
 呉楚七国の乱は平定され、漢の地盤はかえって強固なものとなった。景帝を継いだ武帝は在位54年を数え、漢を全盛に導いた。
 儒教が次第に学問の正統と認められるようになったのも武帝の時代である。このころ年号が制定され、暦がつくられた。
 武帝は匈奴との戦いにも乗り出した。側近のなかから衛青、霍去病(かくきょへい)、李広利などを将軍に任じ、匈奴を打たせた。戦いは長引いたが、大打撃を受けた匈奴はゴビ砂漠の向こうに退いた。
 武帝はさらに南越を征し、朝鮮を滅ぼした。西方の大がかりな遠征にも乗りだし、張騫(ちょうけん)を使節として遣わしている。張騫は大月氏(だいげっし)の国都(現在のサマルカンド付近)にまで出向いた。
 武帝は万里の長城の西端を北に押し上げ、その南に酒泉、武威の2郡を設け、大砂漠への出口となる敦煌に至るまでの道を保護させている。
 西の方、現在のフェルガナ地方(現ウズベキスタン東部)に大宛国があり、そこが名馬の産地であることも知った。武帝は軍を送り、三千匹以上の馬を連れ帰らせている。
bc2c-dynasty@824.png
[前漢時代の地図。「世界歴史まっぷ」から]
 大規模な東西交易がはじまっていた。
 宮崎はこう書いている。

〈中国が西アジアから求めたものは宝石、珊瑚、ガラス、香料などであり、加工品、工芸品が多かった。これに対し中国から輸出するには黄金と絹を主とした。絹は中国の特産品であり、黄金の価値は東方の中国において低く、西へ行くほど高かったからである。〉

 黄金の流出は、やがて貨幣量の減少という重要な影響をもたらす。

 度重なる戦争は国庫に大きな負担をもたらした。いっぽう、資本家は戦争でうるおい、とりわけ武器製造業者は巨利を博していた。そこで政府は塩と鉄を専売とし、そこから利益をあげようとした。だが、なかなかうまくいかない。品質の悪いものが流通し、苦情が増えるばかりだった。
 それでも政府はあらゆる手段を用いて、税の増収をはかった。
 金に加えて銀を貨幣とすることもこの時代からはじまっている。武帝はさらに銅銭の形状を統一し、青銅の五銖銭を鋳造した。
 この時代、多くの成金長者が生まれた。だが、好景気はいつまでもつづかなかった。
 武帝の長い治世が終わると昭帝が後を継ぎ、民力の休養をはかった。宣帝は朝廷で威をふるう霍氏一族を排除し、地方官のなかから成績のよい者を抜擢して、中央の大臣に登用した。しかし、宣帝が在位25年で死ぬと、そのあとは凡庸な君主がつづき、またも外戚が権力をほしいままにするようになった。
 宣帝の子、元帝は在位16年で死に、子、成帝の時代になると、朝廷の様子ががらりと変わった。淫乱で酒飲みの成帝は政治に興味がなく、母の王氏一族に政治を任せきりとなる。その一人が王莽だった。
 成帝が死ぬと、哀帝、平帝と、年若い天子が帝位をつぐ。大臣の王莽が政治の衝にあたるようになるのは、自然の成り行きだった。王莽はやがて帝位を簒奪するにいたる。紀元8年のことである。
 王莽に協力したのは、若いころにともに学んだ同学のグループだったという。かれらは儒教の再生という理想に燃えていた。
 王莽は官僚が堕落し、貧富の格差が広がり、貧民が塗炭の苦しみを味わっているこの社会を立てなおすには、古代聖王の政治を復活させるほかないと考えていた。
 王莽は国号をあらため新とし、次々と政令を発布した。だが、何もかもうまくいかない。匈奴との関係もおかしくなる。そして、四方に叛乱が発生するなか、都の長安にはいった劉玄の軍によって殺される。
新はわずか15年で滅んだ。

 王莽の末期には、多くの劉氏が立ち上がった。劉氏の末裔を名乗ることが、蜂起の名目としても好都合だったという。混沌とした戦いの末、最後は劉秀が中原一帯をおさえ、紀元25年に漢の皇帝を名乗った。後漢の光武帝である。都は長安から洛陽に移された。
 在位31年のあいだ、光武帝は北方の匈奴と争わず、西域も放棄して、もっぱら民力の回復にあたった。
 次の明帝、章帝、和帝のころから、対外政策がふたたび活発になる。西域の攻略にもっとも貢献したのは班超である。「西域にあること三十年、その間に西域五十余国を漢に朝貢せしめた」という。班超はシリアにまで使者を派遣した。
 このころ、ふたたび東西交通がさかんになった。
img20210607_07005071.jpg
[シルクロード。『中国の歴史』より]
 匈奴は南と北に分裂した。後漢は南匈奴と連合して北匈奴を攻め、北匈奴を西方に敗走させた。宮崎によると、ローマ帝国末期にヨーロッパに侵入するフン族は、この北匈奴の末裔にほかならないという。
 後漢に衰退のきざしが見えはじめるのは、6代目の安帝(在位106〜125)のころからである。外戚の専権がはじまり、宦官が勢力をふるうようになっていた。官位も売られるようになり、品質の悪い金持ちと中央の宦臣が結びつく構造が生まれていた。
 中央と地方の分裂もはじまった。
 このころ地方では荘園が発達する。
 荘園について、宮崎はこう書いている。

〈原来(がんらい)人民の耕地は牆壁(しょうへき)を廻らした亭[部落のこと]の外側にほぼ拡がっているものであるが、その郊外には原野が横たわっていることが多い。富人等は既墾の耕地を買い漁るだけで満足せず、未墾の原野を開拓して、此処を自己の別荘としだした。……単に別館があるばかりでなく、周囲に山林、原野、池沼、耕地が付属して、多種多様の産物があり、それだけで自給自足できる囲いこみ地である。その労働力には貧民を招き、半ば奴隷的に使役するのであった。〉

 この風習は前漢時代にはじまり、後漢時代にさかんになった。荘園には政府の力がおよばないから、従来の郷や亭に残された人民のうえに租税負担が重くのしかかってくる。本籍を捨て、荘園に逃げこむ流民も増え、部曲となった。
 そこに太平道という道教の運動が登場する。
太平道をおこしたのは、鉅鹿(きょろく)の張角という者だった。符水の呪により、医薬を用いないでも病気を治せると唱えて、数十万の信者を集めた。
 最初は単なる民間の相互扶助団体だったが、それが当時の反政府気運にあおられて、革命運動に転化し、紀元184年に一斉蜂起した。
 いっぽう、益州[現在の四川盆地と漢中盆地]でも、張魯による五斗米道がはやりはじめていた。米を五斗だせば入会できたので、五斗米道という名前がついたという。
 五斗米道も太平道と同じく、病気治療と旅の便宜をはかる相互扶助団体である。一時は漢中に宗教王国を築くことになる。
 蜂起した張角の太平道の信徒は、黄巾をつけていたので、黄巾賊と呼ばれた。政府は正規軍をくりだして、この黄巾の乱の鎮圧にあたった。
 黄巾の乱はまもなく平定される。しかし、このとき義勇軍を組織した新興勢力のなかから、新たな英雄があらわれ、覇を争うようになる。
 後漢の朝廷では、霊帝のあと、14歳の息子、弁が即位する。だが、宦官勢力に取りこまれてしまったため、司隷校尉[いわば都知事]の袁紹(えんしょう)が兵を率いて宮中にはいり、宦官を排除した。
 だが、袁紹に政治力はない。そこに将軍の董卓(とうたく)が大軍を擁して、朝廷に乗りこみ、少年天子を廃して、その弟で9歳になる献帝を位につけた。
 都を逃れた袁紹は諸将を糾合し、洛陽の董卓を攻めた。董卓は洛陽を捨てて、献帝をつれて長安に逃げ、長安で病死した(殺害説もある)。
 その後、天下は四分五裂状態となる。そこに台頭してくるのが曹操だった。曹操は黄河流域を平定し、献帝から魏王に封ぜられ、河南省の許に都を置いた。だが、揚子江の上流、蜀には劉備、下流の呉には孫権がいた。三国時代が幕を開ける。

〈従来の中国の大勢は、分散から統一へと進む動きが主潮であったが、これから以後の中国は分裂的傾向が強く現われ、時に統一が出現しても忽ち分裂の波に捲きこまれる。明らかに世の中が変ってきたことが分る。〉

 そう宮崎は書いている。

nice!(14)  コメント(0) 

nice! 14

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント