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ある時代背景──美濃部達吉遠望(8) [美濃部達吉遠望]

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 すこし回り道になるが、ここで幼年時代から少年時代にかけての達吉をめぐって、その時代背景に触れておくことにする。それは単なる背景にとどまらない。のちに達吉がみずからの憲法論を築いていくさいの前提となる流れだったともいえる。
 達吉は1873年(明治6年)に生まれたが、そのころ明治新政府は江戸時代の清算をおこなうことに躍起になっていた。西南戦争が終わる1877年(明治10年)までは、革命と解体の時代がつづいていた。
 明治国家の建設がはじまるのは、そのあとである。
 中村隆英の『明治大正史』を参考にしながら、その流れを概観してみよう。
 維新のはじまりは開港と王政復古である。尊皇攘夷はねじれて、いつのまにか尊皇開国に変わっていたが、革命の先は見えず不安に満ちていた。
 最初にともかくも求められたのは幕藩体制を解体することである。
 1869年(明治2年)には版籍奉還がおこなわれた。すでに幕府が崩壊した以上、諸大名が幕府から預かっていた土地と人民を天皇に返還し、あらためてその地位を認めてもらおうとするのはとうぜんのことだ。これにより全国の国土は天皇の国土となった。
 だが、維新が革命である以上、藩はけっして昔に戻らない。1871年(明治4年)には廃藩置県が断行される。半独立状態にあった封建の藩が廃止され、統一中央政府のもとに県が設立された。
 当初は、これまでの藩を引き継いで、全国に3府302県がつくられた。だが、その年のうちに3府72県まで整理される。このとき、前に述べたように、達吉の生まれた姫路藩は姫路県となり、さらに飾磨県と改称されている。
 この年11月には、岩倉具視(ともみ)を大使、木戸孝允(たかよし)と大久保利通を副使とする、いわゆる岩倉使節団が2年弱にわたる欧米歴訪の旅に出発した。留守政府を預かったのは西郷隆盛だ。
 大きな改革はしないと約束したはずだった。ところが、実質上の西郷政権に集った大隈重信や井上馨(かおる)、江藤新平らは、鬼の居ぬ間にとばかりに、次々と改革に着手した。
 改革のベースとしたのは、天皇のもとでの西洋化である。軍事、法律、教育、医学、産業、風俗、出版など、あらゆる面で西洋の作風が取り入れられていく。そして、それらはこれまでの伝統に乗っかり、伝統を押しつぶしていった。
 1872年(明治5年)、留守政府は学制を発布し、大学、中学校、小学校からなる新たな学校制度を発足させた。学校の普及には時間がかかり、その制度もころころ変わる。だが、いずれにせよ達吉が明治の教育の階段を上って、海外留学のルートをたどるようになったのは、この学制のおかげだった。
 穢多・非人と呼ばれていた被差別民の呼称が廃止され(新平民と陰でささやかれるようになったとしても)、廃刀令が出され、僧侶の肉食妻帯が許されるようになったのもこの年からである。
 まもなくキリスト教の禁教が解かれた。キリスト教の布教が認められていなかったなら、達吉が神戸の乾行義塾で英語を学ぶ機会もなかったわけである。
 徴兵令が出されたのも西郷政権のときだ。陸軍は内乱を想定し、地域の鎮圧を目的として、東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本に鎮台を置いた。海軍の強化も進んでいた。
 司法卿となった江藤新平は、民法や刑法、裁判の手続き法などの整備を急速に進めていた。
 インフレと貿易問題は悩みのタネだった。だが、明治政府がもっとも苦慮していたのが財政問題で、西郷政権もそれに対応しようとした。
 最初の課題が、旧藩の借金と藩札をどう清算するかだった。中村隆英によると、新政府は旧藩の借金を、だいたい7割から8割踏み倒したという。それによって、大名貸しをおこなっていた大商人の多くが倒産に追いこまれた。達吉の育った港町、高砂の商人も、これにからんで大きな痛手をこうむったにちがいない。
 1873年(明治6年)、西郷政権は大胆な施策に踏みこむ。地租改正である。これまで物納していた年貢に代わり、税は金納しなくてはならなくなった。税のベースになったのが地租である。政府は国の定めた土地価格に応じて、土地所有者から3%の国税と1%の地方税をとると宣言した。
 加えて、秩禄処分に向けて、舵が切られた。明治にはいっても、元公家や元武家には華族や士族として禄(俸給)が与えられていた。
 その家禄の奉還が奨励されるようになったのが、やはり留守政府の時代である。家禄を奉還すれば、4年ないし6年分の資金が与えられる。だが、それに応じる華族や士族は少なかった。
 財政負担に耐えきれなくなった明治政府は、3年後の1876年(明治9年)、ついに秩禄処分に踏みきることになる。
 それはともかく、留守政府のはずの西郷政権がはたした政治改革は意外と大きかった。西郷政権は幕藩体制を解体し、明治国家建設の露払いをしたといえるくらいである。
 そこに2年近く日本を留守にした岩倉使節団の一行が戻ってくる。
 1873年夏から秋にかけて、いわゆる征韓論争が発生した。西郷隆盛が帰朝した大久保利通と対立し、朝鮮征伐を唱える西郷がそれに反対する大久保に敗れて、下野したとされるできごとである。
 しかし、その実際をみると、奇妙なことに閣僚のなかでは西郷だけが「征韓論」者ではなかったことがわかる。西郷はみずから朝鮮におもむき、開国の理を説いて、日朝の連携をうながそうとしていた。
 いったん認められていた西郷の派遣は、土壇場で岩倉・木戸・大久保によってひっくり返された。それにより大隈重信を除いて、西郷政権の主要閣僚(江藤新平や板垣退助など)は一斉に政府を去った。
征韓論争は政府の実権をめぐる争いにほかならなかった。これに勝利したことにより、岩倉使節団の主要メンバーは、留守政府を一掃することに成功した。
 西郷の留守政府のあとは実質上の大久保政権が成立した。
 大久保政権で際立っていたのは対外攻略である。
 1874年(明治7年)、漂流した琉球人(宮古島島民)が台湾の先住民に殺害されたことから、明治政府は台湾に軍を送り、先住民を掃討した。
 そのころはまだ沖縄に琉球王国が存続していた。日本はこの台湾征討によって、清国から賠償金を得るとともに、沖縄が日本の一部であることを事実上、国際的に認めさせたのである。
 1875年(明治8年)9月、仁川(インチョン)近くの江華島で事件が発生した。その周辺海域を測量していた日本の軍艦に江華島の砲台から乱射が浴びせられたため、日本軍は江華島の砲台を破壊した。この事件をきっかけに日本側はすぐさま6隻の艦隊を派遣し、砲艦外交のもと強引に朝鮮側と日朝修好条規を結ぶ。朝鮮は強引に開国を余儀なくされた。
 征韓論で政府を追われた西郷隆盛は、このとき篠原冬一郎(国幹[くにもと])に、わが国のとった態度は先方を軽蔑したもので、天理に恥ずべき行為だという内容の書簡を送っている。
 大久保政権がめざしたのは国家の確立である。欧米歴訪の経験は、大久保に近代国家なくしてはこれからの日本はないというという意識をめざめさせていた。国家は対外的に武を張り、対内的に治を安んじてこそ国家たりうる。そうした思いが大久保を前に走らせていた。
 だが、国内では急進的な近代化を前に各地で不満が爆発する。1876年(明治9年)には、地租改正に反対する農民一揆が全国に広がった。秩禄処分の強行に反発する不平士族たちは次々と反乱をおこした。そして、その反乱は大きな渦となって、明治10年の西南戦争へとつながっていく。
 近代国家の創成がつくりだすそんな遠い海鳴りを、たとえかすかであったとしても、ものごころのついた達吉がとらえていたと想像するのはうがちすぎだろうか。

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コメント 1

U3

 お早うございます。
 歴史は時の為政者によって都合良く書き換えられるという事例を目の当たりにした思いが致します。

 ブログ小説また始めました。
by U3 (2021-12-13 08:31) 

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