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広がる論争──美濃部達吉遠望(32) [美濃部達吉遠望]

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 引きつづき、明治末年から大正はじめにかけての、いわゆる第1次天皇機関説論争にふれる。
 それから二十数年後のち、美濃部達吉は東京帝国大学を退官したあとに記した「退官雑筆」(1934年)のなかで、このときの上杉慎吉との論争を「三十余年の教授生活の中でも最も不愉快な思い出の一つ」だったと語っている。
 上杉はすでに1929年(昭和4年)に亡くなっていた。達吉の信念は変わっていない。変わったのは時代である。このとき、まだ達吉はまたもや天皇機関説批判がこんどはさらに大波となって、わが身に襲ってくるなどとは思っていなかった。だが、かすかな悪い予感が、明治末年ごろの論争をふり返らせている。
 あのとき、なぜ同僚の上杉教授が、自分の『憲法講話』を激しく攻撃し、美濃部の天皇機関説は「日本の国体を否認し、日本をもって民主国なりとするもの」だと糾弾したのかが理解できなかった。上杉自身も少し前まで国家法人説を認め、君主は国家の機関だといっていたのに、にわかに意見を変えたのだ。「私が国体を否定する乱臣賊子であるかのごとき攻撃を加えられたのであるから、私は呆然として言うところを知らなかった」というのが正直な気持ちだった。
達吉はさらに当時をこう回顧する。

〈学問上の論争ではなく、「国体」という太刀を提(さ)げて、大上段から、国体を否認する乱臣賊子であると、真向梨割(まっこうなしわり)に切り下げられたのであるから、私としては迷惑この上もないことであった。しかもそれ[批判対象となった『憲法講話』]は文部省の嘱託による中等教育講習会の講演であるというので、累(るい)を文部省に及ぼす虞(おそれ)があったし、一方にはある有力な向きからは、文部省に内申があり、私を免官させようとする運動が盛んであるというような情報をも受けたので、やむを得ず、私は新聞紙や雑誌で、一応弁明を加えたのであった。〉

 ことばが喚起するイメージは、しばしば論争のゆくえを左右する。達吉は天皇機関説という言い方を避けて、君主は国家の最高機関といった言い方をしていた。同じことといえば同じことなのだが、あえて天皇機関説というと、どこか天皇をただの役割とみなすかのようなイメージを与え、尊皇の念が欠けるかのような印象がつくられることを達吉は恐れていた。
 そのいっぽうで、国体ということばをかざせば、日本は万邦無比の国体を有しているというように、それだけで憲法を超えた超越的な価値があるかのようにみえてしまう。
そこで、国体を否認していると決めつければ、理屈ぬきに、それは論敵を葬り去ることのできる魔法のことばとなる。これに対抗するには、自分の発言は国体に反していないと弁明するほか逃げ道はなくなってしまう。学問上の論争はのっけから封殺されてしまう。そのため、達吉は日本がどのような国であるかを説明するさいに、国体という言い回しを避け、政体という概念を用いていた。
 いずれにせよ、上杉慎吉が仕掛けた策略は、達吉を大学教授の地位から葬り去ろうとする意図を秘めていた。文部省に内申があり、美濃部を免官させようとする運動もあったという。その「有力な向き」とは穂積八束(やつか)だったといううわさもあったが、はっきりとはしなかった。だが、その運動は成功しない。達吉の岳父が元文部大臣で、当時枢密顧問官の菊池大麓だったことも関係しているかもしれない。

 この論争で、達吉に被害はなかった。むしろ、達吉を支持する声が強かったという。

〈幸いにして、学界では、二三の例外はないではないが、一般には私の説が承認せられておるようであり、文部省および他の官界においても、私の弁明を諒としたもののごとく、免官にならずして終わった。〉

 とはいえ、このとき論争があったことにより、文部省の側はかりそめにも国体にかかわる以上、美濃部説を取り入れることに慎重になった。

〈しかし、何にもせよ国体を名としての攻撃であり、しかして事の苟(かりそめに)も国体に関する限り、文部省は極度に神経過敏であるので、こういう物議をひき起こした以上、爾来(じらい)文部省が私を遠ざけるにいたったことも、やむを得ないところであろう。
その時まで、中等教員検定試験の法制の試験委員は、毎年私が嘱託を受けていたのであったが、この時を最後として、全く嘱託を受けないことになったし、また文部省から出版する予定をもって、中等教育の法制教科書の起草を嘱託せられ、既に脱稿して差し出してあったのが、遂に出版せられないで終わったのも、おそらくはこれが原因となったのであろうと思う。〉

 役所の事なかれ主義が発揮され、達吉は中等教員検定試験の委員をはずされただけでなく、すでに執筆を終えていた中学生用の教科書も出版されないままになったことがわかる。
 それでも雑誌『太陽』や『読売新聞』に載った論説で、達吉の考え方は学界や官界だけではなく、広く国民の知るところとなり、多くの支持を集めたことは、このときの論争の成果だった。その理由は、達吉のいわゆる天皇機関説が、有司専制を批判し、国民の権利を拡張する方向性を指し示していたからである。
 前回も紹介したが、当時の論争の広がりを、もう少しみておく。
 達吉は孤立していたわけではない。むしろ、当時は上杉を批判し、達吉を支持する声のほうが強かったといえるだろう。
 たとえば京都帝国大学法科大学教授の市村光恵(いちむら・みつえ)は、美濃部・上杉論争にからんで、雑誌『太陽』に「上杉博士を難ず」という一文を載せ、上杉の態度が学者的ではなく、むしろ婉曲的に議論を圧迫する気配があることを批判している。上杉が美濃部を「国体に対する異説者」、「民主論者」と決めつけ、さも君主国王を「人民の家来」、「人民の使用人」といったかのように捏造した姿勢は、じつにみにくいと断言した。そのうえで、自分は国家法人説、君主機関説を断固支持すると表明した。
 いっぽう上杉を支持したのは、東大で長く憲法学講座を担当していた穂積八束だった。穂積は1912年(大正元年)8月に病気のため大学を辞職し、10月に亡くなるが、亡くなる直前、美濃部・上杉論争にかかわり、『太陽』に「国体の異説と人心の傾向」と題する談話を発表した。
 穂積はいまや学者のあいだでは君主機関説が主流となり、美濃部のような言語道断の説が平然と迎えられていることを慨嘆する。いまの聖世に白昼公然、「統治権は皇位に存せず」、「皇位をもって統治の主体とするのは我が国体に反する」といった異説が流布されているのは、ただ唖然とするばかりだという。
 教育当局はなぜこんな異説を取り締まらないのか。わが数千年の歴史においては、皇位主権を疑う者はだれ一人としていなかった。それなのに、現在の聖世において、皇位主権を否認し、天皇は統治権を有したもう主体ではないなどと、露骨に公言する者が出現した。とてもがまんするわけにはいかない。言論の自由とは、こういうことを指すのだろうか、と穂積の腹の虫はおさまらなかった。
 穂積の談話は最初から最後まで、この調子だった。これも、人の感情をあおりながら、美濃部の説が人心を攪乱する「国体の異説」であることをきわだたせる手法だった。
達吉にとって、立憲君主制のもとで天皇が国家の最高機関であることはいうまでもないことだった(だが同時に議会も国家の機関である)。しかし、穂積や上杉にとっては、天皇が国家の機関であることは国民に広く知られてはならない「真実」だった。天皇の名で出される勅語や勅令、詔勅、布告は、それ自体天皇直接の意志として、臣民が受け止め、服従せねばならない規律なのだった。
 そのことからも、穂積や上杉の天皇主権説をもっとも強く支持したのが山県有朋だったことは、容易に想像できるだろう。
『太陽』の主幹、浮田和民(うきた・かずたみ)は、論争が過熱するなか、「無用なる議論」と題して、もっと冷静な議論をするよう呼びかけた。天皇を国家の最高機関と呼ぶのは、けっして「不敬」ではないと美濃部を擁護しつつ、はたして天皇機関説が正しいかどうかは研究の余地があるとした。浮田は美濃部が近代の君主を論じていても、はたして日本古来の天皇を認識しているかという重要な問題提起をしていたのかもしれない。
『太陽』誌上での美濃部・上杉論争は1年近くつづき、新聞でも取りあげられて、ジャーナリズムをにぎわせることになる。だが、次第に立ち消えになっていったのは、世間の関心を集めるできごとが次々とおこったからである。
 立花隆はこう書いている。

〈上杉が生きて活躍していた時代は、そのまま大正デモクラシーの時代であり、上杉のような思想は一般社会からは必ずしも受け入れてもらえない時代だった。上杉はどちらかというと、同時代が自分の思いとは反対の方向にどんどん動いていくのを失意と焦燥をもって見ていたのである。それだけに、吉野作造や美濃部達吉のような大正デモクラシーの旗手的存在に対しては、強い敵愾心を持っていた。〉

 上杉の思想が復活するのは、昭和ファシズム期においてである。国体を護持せよという主張が次第に強くなってくる。国民の自由と権利は制限されようとしていた。
 だが、いまは大正デモクラシーがはじまったところだ。それはどんな時代だったのだろうか。

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