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統帥権とは何か──美濃部達吉遠望(58) [美濃部達吉遠望]

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 1930年(昭和5年)4月にロンドン海軍条約が調印されることになった時点で、美濃部達吉は「帝国大学新聞」にこう書いている。

〈日本の最初からの主張がそのまま貫徹せらるることを得なかったとはいえ、すべての国際協定は相互の譲歩と妥協とによってのみ成立しうべきものであるから、それもまことにやむをえないところといわねばならぬ。もし協定が不成立に終わり、再び無制限な製艦競争が行わるるものとすれば、それはわれわれ国民の忍びえないところで、協定の内容が十分の満足に値するものではないとしても、なおわれわれはその成立を喜ばねばならぬ。〉

 ロンドンでは補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)の対米比率7割を確保するという政府目標はわずかに達成できなかったけれども、ともかくも無制限な軍備競争に歯止めがかかったことを達吉は喜んでいる。
 しかし、なぜロンドン条約に関して軍部と内閣のあいだに意見の不一致がみられ、それが政争の具に化そうとしているのか。
 海軍軍令部はあくまでも対米7割の要求を貫徹しようとし、これにたいし内閣は全権の交渉にもとづく妥協案を容認した。内閣が条約を締結したことにたいし、軍令部はその後もあくまでも反対する姿勢を示した。内閣は軍を統帥する天皇の大権を犯して、天皇の勅裁を仰ぎ、勝手に条約を結んだと思い詰めていた。
 ここで、念のためにつけ加えておくと、昭和天皇自身は国際協調派であり、軍縮推進を支持する立場をとっており、むしろ軍の突出を懸念していたという事実を記しておかねばならないだろう。
海軍軍令部の主張に正当性はあるのか。
 明治憲法にはたしかに「天皇は陸海軍を統帥す」と定められている。軍事の統帥権は直接天皇に属するのであって、内閣の関与を許すものではなかった。
 しかし、ここで達吉は軍統帥の大権は軍編制の大権とは異なるという考え方をもちだす。軍の統帥権は軍の活動を指揮統率する権限であり、参謀本部や軍令部が責任をもつ。これにたいし、軍の編制権は軍の設置や規模、編制を決める権限であって、それは国の外交や財政にかかわる事柄である以上、国の政務に属し、内閣のみがその輔弼(ほひつ)の任にあたるというのである。
 もちろん、ロンドンの海軍条約に関しても、軍令部や軍事参議院[軍事諮問機関]は意見を述べることができる。しかし、軍の編制権について責任を有するのは内閣であって、条約を調印するのも内閣の責任に属し、議会での討議をへて、条約の批准を審議するのは枢密院の役割である。
「故に条約上の批准はたとえそれが軍事に関するものであっても、純然たる国務上の行為であって、もはや帷幄(いあく)[天皇直属]の機関のこれに関与しうべきものではない」と、達吉は論じた。
 4月23日から5月13日まで、第58特別議会が開かれた。
 議会は冒頭から荒れて、議場は野党政友会による政府批判の場と化した。政友会の犬養毅(総裁)と鳩山一郎(総務)はともに軍部の独走を懸念する考え方をもちながらも、野党の立場から、ロンドン条約には国防上の欠陥があり、その調印は統帥権干犯にあたる、と激しく政府を批判した。これにたいし、浜口首相は答弁を拒否し、官僚的、非立憲的だとの非難を招くことになる。
 ほんらい、議会は論戦の場であるべきである。それによって、国民が政治に関心をもち、政治的意識を高めることも期待できる。たとえ与党が議会で絶対多数を占めていたとしても、少数政党の鋭い質問に答えるのを余儀なくされるところに、達吉は立憲政治の妙味を感じていた。
 今回の議会において政府は明白な答弁を回避しつづける姿勢をとりつづけた。重要な問題なのだから、政策論争があってしかるべきだと思わざるをえない。
 いっぽうで、達吉は政府が不答弁主義を貫く理由がわからないでもなかった。

〈それはいうまでもなく、明白に政府の所信を言明することによって、政府と軍部との衝突を来(きた)さんことを恐れたためであって、すなわちこの問題に関して政府と軍部との間に、完全なる意見の一致を得ておらぬことを明示するものである。〉

 そう記す達吉は日本の立憲政治の脆弱(ぜいじゃく)さを感じないわけにはいかない。日本の議会政治はようやく確立されたとはいえ、その政治基盤はじつにあやうい。

〈わが今日の状態においては、内閣の進退を左右すべき政治上の勢力として、衆議院は必ずしも重きをなすに足らず、その外に、貴族院があるのみならず、なお軍部があり、枢密院があるのであって、これがわが争うべからざる現状であり、しかしてそれは議会における海軍条約問題に関する論争の間にも、暗黙に示されたところである。〉

 つまり、日本では貴族院はともかく、軍部や枢密院が反対すれば、たとえ議会で多数派を握る政党内閣であっても、たちまち崩壊してしまうのが現実だった。軍部には内閣に陸相や海相を送らないという奥の手があり、枢密院には内閣による緊急勅令案を拒否するという裏技があった。
 そのため、政府は天皇をかさにきた軍部や枢密院を刺激しないよう万全の注意を払わねばならず、やむなく議会での不答弁主義を貫く事態もありえたのである。それは日本の議会主義の発達にとって、不幸な現象以外の何ものでもなかった。
 それでも達吉が政府によるロンドン条約調印を擁護しつづけたのは、あくまでもデモクラシーにもとづく議会政治を守ろうとしたためである。
 議会開催中、達吉は「東京朝日新聞」でも、政府を支持する論陣を張った。
 天皇の大権のもと、「軍の統帥については、これを政府の職責の外に置き、専ら軍部当局者の自由活動に一任することは相当の理由あること」はいうまでもない。とはいえ、陸軍大臣や海軍大臣は現役の武官として政府の一角を占めている。
 すると、陸海軍と陸海軍大臣を包含する政府とのあいだに完全なる意見の一致をみない場合はどのように考えればよいか。陸海軍は統帥の大権を有しているとしても、それにはおのずから限界があり、陸海軍編制の大権は政府に属しているとみるべきである、と達吉は主張する。

〈軍部の当局は、自ら戦争の任に当たるべき当事者であるから、いやが上にも戦闘力を強からしむることに努むるのが当然の傾向であって、外交、財政、経済、世界的思想の趨勢等政治上の関係を考慮することの乏しいのは免れがたいところである。これに絶対の価値を置くことは、国家をして軍国主義の弊に陥らしむる恐れがある。その意見はできるだけ尊重することが適当であるとしても、それはただ参考材料たるにとどめ、それをいかほどにまで採用するかは、もっぱら政府の決するところとなすことが、国家のために是非とも必要である。〉

 達吉はそのように論じ、政府が議会で言えないことをいわば代弁した。
 雑誌「改造」の6月号でも、達吉は統帥権と編制権は分離して考えるべきだと主張した。しかし、ここではそもそも統帥権の独立とは何かという問題にさらに踏みこんでいる。

〈統帥権の独立とは、陸海軍の統帥についての大権が内閣の責任の外に置かれ、内閣は全然それに関与することを得ず、したがってまた議会もこれを批判し論議しえないことをいう。かくのごとき原則は、立憲政治の普通の原則としては一般に認めらるるところではない。立憲政治は責任政治であり、国のすべての政治については[内閣が]国民に対し、ことに議会に対して責任をとるものであることを要求する。……その結果として陸海軍もまた内閣大臣の統轄の下に立ち、陸海軍の行動についても、内閣がその終局の責任を負担するものとせらるることが、各立憲国の普通の原則である。〉

 ところが、なぜ日本においては、統帥権の独立というような変則がまかりとおっているのか。それは日本の憲法が旧ドイツ、オーストリアの憲法をとりいれたことに由来する。この両国だけは、陸海軍の統帥を他の一般国務と区別し、統帥権を皇帝の大権に属するものと規定していた。
 統帥権独立の原則は主としてドイツで発達した制度だ、と達吉はいう。しかし、そのドイツでも革命後、統帥権の独立は認められなくなった。
「今日においては統帥権の独立というような原則は、日本を除くのほかは、世界のいずれの立憲国においても認めないところとなったということができる」
 立憲政治の原則においては、統帥大権についても国務大臣がこれを輔弼し、その責にあたるのがとうぜんであり、統帥権の独立というような原則はまったく認めるべきではない。
 とはいえ、日本では現実に統帥権が早くから一般の政務から分離されて、政府からある程度独立した地位を保ってきたのも事実である。統帥権に関して天皇を補佐するのは国務大臣ではなく、参謀本部や軍令部といった軍の機関であり、軍事参議院が天皇の諮詢(しじゅん)にあたることになっている。
 しかしながら、統帥権のおよぶ範囲にはおのずから限界があり、それは軍令にかぎられ、軍の編制など軍政については大権を輔弼する任はもっぱら内閣に属する。こうした主張を達吉はくり返した。
 さらに、政府が軍の主張におもねることなく、みずからの見識において兵力の量を定めることができるためには、現在のような陸海軍大臣の現役武官制を撤廃し、文官制を採用すべきだとも主張している。
 達吉は明治憲法のアポリアにまで踏みこんでいた。

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