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天皇機関説事件(7)──美濃部達吉遠望(78) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉は9月14日にふたたび司法省検事局に出頭し、検事の取り調べを受けることになった。
 だが、そのひと月ほど前の8月12日、陸軍では大事件が起こっていた。三宅坂の陸軍省内で、相沢三郎陸軍中佐が永田鉄山軍務局長を斬殺したのである。相沢は永田の陰謀によって真崎甚三郎教育総監が先月更迭されたと信じこんでおり、そのため永田に天誅を加えたのだと言い張った。その背後にはクーデターも辞さない皇道派とクーデターを排除する統制派との対立がうごめいていた。この事件の責任をとって、林銑十郎は陸軍大臣を辞任し、川島義之がその後任となった。
 相沢事件は、軍部内の皇道派と統制派の対立を浮き彫りにしただけではない。翌年の二・二六事件の導火線となったのである。
 達吉が検事局に呼びだされたのは、陸軍内で緊張が高まっているさなかだった。検察当局としても、そろそろ天皇機関説事件にかたをつけ、一連の騒動を収める必要があった。
 この日の取り調べは、もっぱら詔勅批判の自由という達吉の所説にしぼられた。詔勅批判が皇室の尊厳の冒瀆にあたるかどうかが焦点である。不敬罪が成立するか否かが問われていた。
 検察側の「聴取要領」によると、最初に達吉は、ここでいう詔勅とは、国務大臣の輔弼にもとづく天皇の意思(実際には政府の意志)として出される法律、勅令、条約、予算、親任官の任命などをいうと説明したうえで、こう述べている。

〈私が憲法精義に述べておりますのは、通俗に詔勅という語を誤解して、こういうものとは異なった特別神聖なもののように感じております誤解を正すことを主眼として、法律や勅令や条約やその他の国務に関する詔勅を批評することは不敬の罪にならぬことを述べんとしたのであります。ただ用語の不足のために誤解を招くにいたりましたのは甚だ恐縮に存じております。〉

 天皇が国家の最高機関である立憲制のもとでは、詔勅といっても、それは天皇の直接定めたものではなく、政府による法律や勅令、条約などといった形態をとる。そうした「詔勅」を批評することは許されており、まったく不敬にはあたらない、と達吉は主張した。
 さらにみずからの学説についても、貴族院で弁明したとおりで、「今日といえども少しも弁明を変更する必要を認めません」と述べている。
 検察側は憲法第3条、すなわち「天皇は神聖にして侵すべからず」をどう理解するかについて、達吉の見解を尋ねた。
 これは「天皇の御一身に関する規定」であって、その御一身自体が公共的な性格をもっているというのが、達吉の解釈だった。さらに「御一身の範囲は、玉体、ご行動等のみならず、御真影、三種の神器、天皇旗、御製、御衣、皇居等は御一身と離るべからざる関係にあり……憲法第3条の適用を受ける」、すなわちそれらすべては神聖にして侵してはならないものだ、と答えている。
 そのうえで、天皇は国務大権、皇室大権、統帥大権、祭祀大権、栄誉大権をもつと達吉はいう。そのなかで国務大権は国務大臣の輔弼によって発揮されるものであり、国務大権によって下される「詔勅」、すなわち法律、勅令、条約、予算などは、輔弼者である国務大臣の責任を伴う以上、とうぜん公に論議されてしかるべきだと主張した。
 自分が著書において「詔勅を非難することは即ち国務大臣の責任を論議する所以(ゆえん)であって」と記したのは「法律上においては詔勅を非難することは国務大臣の輔弼の是非を論議することになる」という意味だ、と達吉は説明する。
 実際、ロンドン軍縮条約の批准にあたっても、さまざまな論議が巻き起こったのであって、「ご批准遊ばされたこと自体を論議することは、もちろん法律上許されざるところであります」と、その論議自体が天皇に及ぶものではないとも説明した。
 法律や勅令、条約などは、天皇を国家の最高機関とする立憲制のもとでは、最終的に詔勅のかたちをとるのであって、そうした詔勅を批判すること自体は、天皇の大権を侵犯することにはならないというのが、達吉の解釈である。
 その解釈は往々にして誤解を生みやすく、取り調べの検事たちにもなかなか理解しがたいものだった。それでも、達吉の憲法学説が不敬罪にあたるとみることは、どうみても無理があった。
 最後に検事たちから現在の心境を聞かれて、達吉はこう答えている。

〈私の著書は不幸にして発売禁止になりましたが、私は今も自分の学説が誤っているとか、自分の書いたものが出版法に抵触するものであるとかいうようなことは少しも考えておりません。しかし間違っているか否かは別としまして、私の著書のために世間の物議を引き起こし、政府にまで非常な迷惑を及ぼしたことについては誠に恐懼に堪えません。〉

 さらに達吉は、4月以来すべての学校の講義を辞退していること、3月以後は新聞や雑誌の寄稿依頼も断っていること、やむをえない時以外は外出も控え、謹慎していることなども述べた。貴族院議員の地位については、勅選された経緯もあり、ただちに議員を辞任しようとは思っていないが、将来適当な時期が来たら進退を考慮したいと話している。
 この日の夜遅く竹早町に帰宅すると、さすがにくたびれた達吉を息子の亮吉が迎えた。記者たちが待ち構えていた。
 翌日の「東京朝日新聞」によると、やがて着替えをして、玄関にあらわれた達吉は、「疲労も何のその、満面の笑いをうかべて」、記者の質問に答え、取り調べの内容については言えないが、「私としては前回と何らの相違もなく、もちろん訂正などもない」としたうえで、断じて「心境の変化」はないし、議員辞職も考えていない、と話している。
 しかし、実際はこの時点で、すでに貴族院議員の辞職を決意していた。そのことは取り調べのさい、検事にもそれとなく伝えていた。
 事態を収拾するには達吉がみずから学説の誤りを認め、議員を辞職するほかないと考えていた政府は、あらゆる伝手をたどって、辞職を勧告していた。
 息子の亮吉の回想によると、内閣書記官長の白根竹介や、兄で元朝鮮銀行総裁の美濃部俊吉、貴族院議員の小坂順三なども、議員を辞職するよう説得にあたったらしい。亮吉自身も内務省警保局長の唐沢俊樹に呼ばれて、辞職しないと右翼団体が何をしでかすかわからないと脅されたこともあるという。
 達吉はがんとして議員辞職を拒否した。やめると、まるで自分の学説が誤りだったと認めることを恐れたからである。
 だが、不退転の決意をもっていた達吉も9月にはいって、ついに親友で貴族院議員の松本烝治の説得を受けて、議員を辞職する決意を固めた。
 松本は司法省の高官と懇談し、このままでは起訴せざるをえないし、公判となれば、ますます機関説問題が集中砲撃を浴びる、もし美濃部が公職を辞するなら起訴猶予にするという話を引きだしていた。その話を踏まえて、松本は達吉を説得し、達吉も了承した。
「父は案外あっさりと松本博士のすすめに従った。全くあっけないようだった」と亮吉は書いている。9月9日のことである。
 達吉は辞職を決意した。だが、亮吉によると「父はあくまで、辞職をしたから起訴猶予になったという形を取りたくない、起訴猶予になってから、世間を騒がして相すまなかったということで公職を辞退することにしたいと主張した」。順番にこだわったのである。
 達吉の辞職意向は松本を通じて、司法省高官に伝えられた。
 9月18日午前10時、検事局は起訴猶予の決定を下した。それを受けて、10時半に達吉は貴族院議員の辞表を提出した。
 ただし、起訴猶予といっても、有罪にはちがいない。
 その日、光行次郎検事総長はおよそ次のような談話を発表した。
 美濃部氏の憲法に関する著作について、不敬罪に該当する記述があるとの告発があったが、検察当局で慎重に検討した結果、故意に皇室にたいし不敬の言説をなしたとは認められないため、不敬罪には問えないと判断した。その著書における説明や機関説などについては「現下の社会情勢において国民思想に好ましからざる影響を与うること少なからず」、安寧秩序を妨害する嫌疑がないとはいえない。しかし、それらの著書はかなり以前に出されたものであり、いま刑責を問うのは苛酷に失するばかりか、美濃部氏が謹慎の意を表明している点に鑑み、起訴しないことにした。さらに詔勅批判の記述についても皇室の尊厳を冒瀆する罪に該当する嫌疑はあるが、美濃部氏はその解説に不十分な点があったことを認め、将来その言説を慎むとしており、貴族院での発言が世間を騒がした責任を痛感していることを確認できたため、不起訴としたものである。
 小原直法相も、およそ次のような談話を発表した。
 司法部としては美濃部博士の所説が安寧秩序を紊乱するものと認め、起訴する準備を進めていたが、博士が貴族院議員拝辞の意思を表明したため、起訴猶予という処分に落着した。政府の国体明徴声明と今度の司法処分には何ら関係がないが、社会情勢の判断があったことはいうまでもない。「学説の問題は司法処分とは別個のものであるが、実際においては文部省から機関説はいけないということを各学校に通牒してあるのだから、実際問題として機関説はなくなるであろうし、憲法の説明は元首とか総攬という用語になるのではないかと思う」
 達吉も声明を発表した。しかし、この声明が物議をかもすことになる。

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