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天皇機関説事件(8)──美濃部達吉遠望(79) [美濃部達吉遠望]

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 9月18日、美濃部達吉は貴族院に議員の辞表を提出したあと、長い声明を発表した。
 辞職理由については、こう述べている。

〈私が貴族院議員を拝辞しようと決心したのはよほど以前のことで、前議会の終わったころから既に相当の時期には進退を決したいと思っていたのであります。私の説が正しいか否かは別問題にして、ともかくも貴族院で私のなした演説が議員中一部の人々の反感を買い、激しい言葉をもって私を非難するものがあり、これに対して別段の排撃も加えられず全院これを寛容する態度をとっております以上、私が引き続き在職していることは将来ますます貴族院の空気を混乱せしむる恐れあるものと考えましたので、貴族院の秩序のためにも私は職を退くのが至当であろうと思ったのであります。〉

 私の演説を一部の議員が激しい言葉で非難した。これにたいし、貴族院ではそれを批判する声もたいして上がらず、こんな状況では引き続き在職していても、ますます貴族院の雰囲気を悪くするだけだと思った。これが達吉の上げる辞職理由である。まるで現在の貴族院に失望したかのように聞こえる。
 声明はさらにつづく。しかし、すぐに辞職しなかったのは、当時、告発されていたこともあり、ただちに辞職したなら、自分の学説がまちがっていることを認め、起訴を免れるために公職を辞職したと思われるのが、いやで、今日までその決心を実行することを差し控えてきたという。

〈しかるに今回司法処分もいよいよ最後の決定をみるにいたり、司法省から不起訴に決したことの通知を受けましたので、いよいよかつての決心を実行する時期が来たものと考えて、今日辞表を提出いたしたのであります。くれぐれも申し上げますが、それは私の学説を翻すとか自分の著書の間違っていたことを認めるとかいう問題ではなく、ただ貴族院の今日の空気において私が議員としての職分を尽くすことが甚だ困難となったことを深く感じたがためにほかなりません。今後は自由の天地に立って一意自分の終生の仕事として学問にのみ精進したいと願っております。〉

 自分の学説は間違っていない。まして自分の著書が法律に触れるなどとは夢にも思っていない。司法省からは不起訴の通知を受けた。ただ、いまのような貴族院の空気のなかでは、とても議員としての職分を尽くせないと思うので、辞職することにした。これからは自由の天地のもと、自分の本分である学問に専心したい。
 いかにもサバサバしたといった強気の声明は、大きな反発を招いた。検察当局としては達吉に「重大な責任を痛感」し、大いに「謹慎の意」を表明してもらわねば困るのである。
それは政府も同じだった。とくに憤慨したのは法相と陸海相である。
 9月21日、達吉は小原直法相に、先日の談話は自分の意にそわぬものであったので取り消したいという書簡を送り、政府はこれをもって諒とした。
 いっぽう、司法当局は、今回の事件はあくまでも起訴猶予であって、天皇機関説とそれを説明した著作は、改正出版法第27条の安寧秩序を害する罪にあたるが、諸事情を考慮して起訴猶予としたことを、あらためて発表した。
 出版法27条は前年の1934年(昭和9年)に改正され、「安寧秩序を妨害」する文書図画(とが)を出版した著作者、発行者を罰するという規定がつけ加えられた。しかし、美濃部の著書はそれ以前に発行されており、本人も反省の意向を表明しているため、そうした「諸事情」を勘案して、不起訴にしたというのである。だが、そこには、今後、天皇機関説を唱える出版物は禁止するという強い意向も含まれていた。
 軍部はそもそも美濃部を起訴猶予にしたことに納得しなかった。その著書を告発した衆議院議員の江藤源九郎も同じである。
 政府は8月3日の国体明徴声明で事件のけりをつけたかったのだが、だんだんそうもいかなくなってきた。
 軍部は閣議で陸海相を通じて、先の美濃部取り調べ文書の公表、金森法制局長官の処分、一木枢密院議長の辞任を求めた。貴族院の強硬派、政友会の国体明徴実行委員も政府を突き上げた。
 9月25日、軍は閣議に3カ条の要求をだした。美濃部が法相あてにみずからの声明を取り消す書簡を送った経緯を説明せよ、政府の機関説にたいする所見が陸海軍大臣の所信と一致しているかどうかをあきらかにせよ、政府はこれまで機関説絶滅の処置をどのようにとってきたかを公表せよ、といったものである。
 小原法相は司法権の独立を盾にして、捜査上の秘密は公表できないと突き放した。美濃部の声明取り消しの書簡は新聞に発表したとおりだとも説明した。さらに今後、天皇機関説に関する新たな出版物については厳重に取り締まると述べた。
 岡田首相は天皇機関説に関しては軍部の見解と全く相一致すると述べたが、それだけでは軍は納得しない。とくに一木、金森の進退問題が残されていた。しかし、岡田首相自身は健康上の理由などから自発的に辞任するのならともかく、政府として両人に辞任を求めることはないという意向を示した。
 9月26日、昭和天皇は御学問所で陸軍参謀総長の閑院宮載仁(ことひと)と会見し、機関説問題にたいする軍の動きに懸念を示した。各方面に下克上の風潮があり、とくに支那の出先の専断を警戒するよう陸軍大臣に伝えよとも話している。
侍従武官長の本庄繁は、天皇が「このごろの天気は無軌道だが、政治もまたそうだ」といった独り言をもらしたことを記録している。
 軍部の要求にたいし、27日の閣議では小原法相があらためて美濃部の起訴猶予処分の経過を説明し、さらに文部省、内務省、司法省から国体明徴の実績報告が提出された。だが、この実績報告は各閣僚の承認が得られなかった。
 そのため、「国体明徴のため執りたる処置概要」という報告が新たにまとめられ、10月1日の閣議で承認され、公表されることになった。そこには、憲法の講義、憲法関係出版物、国体観念徹底に関する処置が記されていた。要するに天皇機関説徹底排除がより強化されたのである。
 この実績報告が提出された段階で、軍部はひとまず矛をおさめ、しばらく問題の成り行きを見守ることにした。
 だが軍の強硬派や在郷軍人会はまだ納得しない。10月8日、陸海相は閣議前に岡田首相と会見し、すみやかに機関説を排撃し、国体明徴をさらに徹底するとともに、人事問題を解決するよう求めた。
さらに、そのさい、両相は8月3日の国体明徴声明にはまだ曖昧さが残っているため、政府としてはあらためて「皇国統治権は天皇にあり」との信念を示す再声明を出すべきだと主張した。
 人事問題はともかくとして、政府はけっきょくのところ、この軍部の要求に引きずられていく。
 政府と軍のあいだで、慎重に再声明の文案が練られることになった。在郷軍人会の意向も取り入れられた。政府としては、この声明で、何としても天皇機関説問題にけりをつけなければならないと考えていた。
 だが、文案づくりは難航する。政府と軍の意向はなかなかまとまらなかった。ようやく妥協が成立したのは、10月15日午前になってからである。その日の午後3時に閣議が開かれ、閣僚が異議なくこれを了承し、午後4時半に政府はその声明文を発表した。

〈曩(さき)に政府は国体の本義に関し所信を披瀝(ひれき)し以(もっ)て国民の嚮(むか)う所を明(あきらか)にし愈々(いよいよ)其精華を発揚せんことを期したり。抑々(そもそも)我国に於ける統治権の主体が天皇にましますことは我国体の本義にして帝国国民の絶対不動の信念なり、帝国憲法の上諭並に条章の精神亦(また)茲(ここ)に存するものと拝察す。然るに漫(みだ)りに外国の事例学説を援(ひ)いて我国体に擬し、統治権の主体は天皇にましまさずして国家なりとし天皇は国家の機関なりとなすが如き所謂(いわゆる)天皇機関説は神聖なる我国体に戻り其本義を愆(あやま)るものにして厳に之を芟除(さんじょ)せざるべからず。政教其他百般の事項総(すべ)て万邦無比なる我国体の本義を基とし其真髄を顕揚するを要す。政府は右の信念に基き茲(ここ)に重ねて意のあるところを闡明(せんめい)し、以て国体観念を愈々明徴ならしめ其実績を収むる為(ため)全幅の力を尽さんことを期す。〉

 いわゆる第2次国体明徴声明である。8月3日の第1次声明と比べて細かな修正がほどこされているが、それは指摘されなければほとんどわからない。
 最大の修正は、国家法人説を否定し、国家自体の統治権を認めず、統治権の主体を天皇にしぼったことである。加えて、天皇機関説を芟除(さんじょ)する、すなわち徹底的に取り除くという強い言葉が用いられていた。そんなことは、言われなければ、ほとんどだれも気づかなかった。
 だが、第1次と第2次の国体明徴声明には大きなちがいがある。第1次の声明が議会の主導によるものだったのにたいし、第2次の声明は軍の主導によるものだったことである。その後、天皇機関説騒動が表向き収束したのは、そのちがいによる。
 強硬派にとっては、たしかに課題が残っていた。天皇機関説の大本である美濃部達吉は排除された。しかし、一木枢密院議長や金森法制局長官はまだ居座っている。それ以上に、一木を擁護する宮中リベラル派の牧野伸顕内大臣、斎藤実前首相(まもなく内大臣となる)、鈴木貫太郎侍従長、さらにはその後ろに控えた元老、西園寺公望の存在が何ともうとましかった。
 さすがに軍の首脳部は、そうした強硬派の動きを抑える。在郷軍人会にも自重を求めた。第2次声明にもとづき、文部省内に国体明徴機関を設け、日本精神の昂揚をはかるという方向が打ちだされた。それにより、天皇機関説事件にけりがつけられることになった。
 陸軍の青年将校たちはそれでは収まらない。事件の波紋は、さらにつづくことになる。
 天皇機関説事件とは、けっきょく何だったのか。それは、立憲君主と神聖君主の二重性をもつ天皇の神聖性をより高めることで、軍が政治的実権をもつ、天皇をシンボルとする全体主義国家をつくろうとする、時の勢力による執拗なこころみにほかならなかった。総力戦の準備がはじまろうとしていた。
 だが、その前に大きな波乱が待ち受けている。

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