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美濃部達吉襲撃事件──美濃部達吉遠望(80) [美濃部達吉遠望]

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 1935年(昭和10年)10月15日に岡田内閣が第2次国体明徴声明を発表したあと、天皇機関説問題は次第に収束していく。
 だが、その余波はつづいていた。
 美濃部の自宅には、大日本生産党、新日本国民同盟、大日本国粋会、皇道会といった右翼団体から抗議書や脅迫状が連日のように届いていた。なかには美濃部に自決を迫る墨書でしたためられたものもあった。
 10月30日には、樋口敏夫という21歳の青年が逮捕されている。
 樋口は下関の高等小学校を卒業後、職業を転々とし、素行が修まらなかったが、美濃部の起訴猶予処分を知って、美濃部を葬り去らねばと思い、勤め先のカネを180円ほど着服し、上京した。途中、遊興を重ねながら、洲崎の遊郭に登楼したとき、電話帳で美濃部宅の所在を確かめた。そのあと、白鞘(しろさや)の匕首(あいくち)をもって美濃部邸の周辺をうろついていたが、警戒厳重のため目的を達することができなかった。
 10月30日に深川区木場の丸文旅館に宿泊中、挙動不審者として逮捕された。「西洋機関説の根絶こそ急務だ」という内容の川島陸相あて書簡をたずさえていた。
 翌1936年(昭和11年)1月15日に岡田内閣はワシントン条約につづきロンドン海軍軍縮条約からの脱退を決定し、1月21日に衆議院を解散した。総選挙は2月20日に実施され、その結果、与党の民政党が205議席、多数派野党の政友会が171議席と与党が逆転勝利を収め、議会のねじれ現象が解消された。
 新たな暴漢が達吉を襲ったのは、選挙の開票がおこなわれているさなかの2月21日のことである。
 そのとき達吉は小石川の竹早町から武蔵野町吉祥寺に移転し、二千坪もの土地に邸宅を構えていた。国鉄中央本線(現J R 中央線)の吉祥寺駅は40年近く前からできていたが、1934年(昭和9年)に帝都電鉄(現京王電鉄)の吉祥寺駅が完成し、都心からの利便性が高まった。
 次第に家が立て込むようになっている。邸宅の近くには成蹊学園があった。
 その日の様子を達吉の妻、民子(多美子)はのちにこう記している。

〈その日は、二、三日前に降った雪がむら消えて道路は自動車の轍(わだち)の後だけ黒く見えていました。私はその時門の外にいたのですが、その道を向こうから黒紋付きの羽織を着た背の高い、四角い顔をした男が、手に白い深い籠にみかんや林檎(リンゴ)を入れ、赤い幅の広いリボンを大きく結んだのを、何も包まずそのままぶら下げてやってきました。門には、五、六人の巡査が出入りの人を誰何(すいか)するのでした。私はどこかの執事が見舞いに来たくらいに思っていました。その人は何年か前に講義を聴いた教え子だと称し、友人の紹介状を持っていたので、応接間へ通って会談していましたが、そのうちに果物籠の底からピストルを取りだして狙撃したのでした。それが21日で、26日があの二・二六事件でした。その後は、中心からそれたので脅迫状も来なくなり、読んだり書いたり静かに心のままの朝夕を2階の書斎で過ごしていました。〉

 その日の朝、黒紋付きの羽織を着たごつい感じの30歳くらいの男が、大きな果物籠を提げて、美濃部邸にやってきた。犯人は福岡地裁元予審判事、弁護士、小田俊夫というニセ名刺を出し、教え子と名乗って達吉に面会を求めた。応接間で達吉と時事問題や機関説問題について話を交わしたが、どうも様子がおかしい。
 達吉が自説を曲げていないことを確かめると、男は果物籠から書状を提示した。それを見ると、「天誅(てんちゅう) 逆賊美濃部達吉」と書かれていた。あきらかに斬奸状である。身の危険を感じた達吉はあわてて玄関から生け垣の外に逃れた。
 すると男はピストルを取りだし、達吉を追いながら、背後から狙撃した。これに気づいた警備の警官は男にピストルで応酬し、男を倒し、逮捕した。そのさい、達吉は右の膝あたりに銃弾を受け、転んだ。
 すぐに東大病院に運ばれたが、傷は浅かった。
 戦後の座談会では、こんな会話が交わされている(達吉はすでに亡くなっている)。

宮沢(俊義) そのときは塀の外でございますか。
美濃部(民子) 生垣のそとです。亮吉もおりまして、それからすぐ帝大へ行ったんですけれども、別にどうでもなかったようでした。
鳩山(一郎) 足でしたね。
美濃部 どうしてこんなところに入ったんですか、足のうしろの膝小僧のところです。
宮沢 意識は……。
美濃部 いえそれどころじゃありません。血もろくに出ないほどでした。
宮沢 よほど運がよかったのですね。
美濃部 そのとき死ななかったのはずいぶん仕合わせでございます。
宮沢 それから病院へお入りになるとまもなく二・二六ですね。
美濃部 そうしたら病院ではまた襲撃されると思って隠すので大さわぎです。そのとき犯人は吉祥寺付近の病院へ入ってとても重体だったらしいですが、治ったそうです。

 夫人は達吉がなぜ膝小僧のうしろみたいなところを撃たれたか不思議がっている。そのときの公判で、銃弾は犯人の銃から発射されたものではないことが証明されている。どうやら護衛の警官が誤って撃った弾があたったようだが、その真相はいまもあきらかにされていない。
 だが、いずれにせよ、このとき殺されなかったのは幸いだった。
 犯人は小田十壮といい、福岡県遠賀郡芦屋町に生まれ、中央大学を中退後、故郷の大統社工業塾舎監となり、国士として活動し、不起訴処分を受けた美濃部が反省しないのを知って、美濃部の殺害を計画したのだという。
 美濃部が襲撃され東大病院に入院した直後に二・二六事件が発生した。弟子の宮沢俊義によると、東大病院当局はいろいろと心配して、工事中でまだ使っていない新しい病室に達吉を移した。病室の隣には数名の警官が待機し、その病室が人に知られないよう、格別の注意を払ったという。
 東大病院は達吉が叛乱軍の標的になることを恐れていた。
 2月26日未明、3日前の大雪がまだ解けていないなか、第一師団の歩兵第一連隊、歩兵第三連隊、近衛歩兵第三連隊の約1400名の部隊が出動し、首相の岡田啓介、蔵相の高橋是清、内大臣の斎藤実、侍従長の鈴木貫太郎、陸軍教育総監の渡辺錠太郎、前内大臣の牧野伸顕を襲撃した。
 元老の西園寺公望も当初、襲撃の対象となっていたが、仲間割れのため見送られた。襲撃されたうち、高橋と斎藤、渡辺の3人が死亡し、鈴木は重傷を負い、湯河原の旅館にいた牧野は窮地を脱した。岡田首相は当初、死亡したものと思われたが、のちに秘書官で義弟の松尾伝蔵予備陸軍大佐が間違えて殺害されたことが判明、岡田自身は無事脱出した。
 決起部隊は同時に首相官邸、陸相官邸、陸軍省、警視庁などを占拠し、議事堂を中心として三宅坂、赤坂見附、溜池、虎の門、桜田門の一帯を制覇した。東京朝日新聞も襲撃されたが、占拠を免れている。
 部隊を指揮したのは皇道派の青年将校たちである。なかでも、その中心となったのは、安藤輝三、栗原安秀、磯部浅一、村中孝次、香田清貞である。その蹶起(けっき)趣意書には「茲(ここ)に同憂同志機を一にして蹶起し奸賊を誅滅(ちゅうめつ)して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳を竭(つく)し以つて神洲赤子の微衷(びちゅう)を献ぜんとす」などと記されていた。
 要するに、同憂の同志たちが決起し、天皇の尊厳を踏みにじっている極悪人を滅ぼし、国体を守るために全力を尽くし、天皇の赤子としての真心を捧げたいというのである。
 ここにも天皇機関説事件の揺曳がなかったとはいえない。皇道派の青年将校たちは天皇機関説の撃滅をはかっていた。そこには天皇を利用して私意をほしいままにしている重臣や大臣は排除されなければならないという発想があった。
 青年将校たちは北一輝の『日本改造法案大綱』の影響を受け、西田税を通じて北とも接触していたが、北自身がこのクーデターを計画したわけではない。北は何より天皇機関説論者である。にもかかわらず、のちに軍はみずからの責任を回避するため、北をこの事件の首謀者にでっちあげることになる。
 青年将校たちは北からクーデターの発想を引き継いだものの、その後の政権構想をほとんどもたなかった。天皇の大御心(おおみこころ)に待ち、皇道派の真崎甚三郎(前陸軍教育総監)または柳川平助(前陸軍次官)が首相になって、宮中を刷新するとともに、統制派を一掃することを望んでいただけである。
 天皇への働きかけとしては、侍従武官長の本庄繁のルートが考えられていた。本庄はかれらに同調する山口太一郎(歩兵第一連隊中隊長)の義父にあたる。だが、肝心の真崎も柳川も腰が座っていない。最初に皇道の名称を唱えた荒木貞夫は、すでに青年将校たちの信頼を失っている。天皇の大御心に待つクーデター計画は最初から底が抜けていた。
 昭和天皇は侍従から早朝に事件を知らされ、とうとうやったかとつぶやいたと伝えられるが、内心怒っていた。その後、宮内大臣をはじめとする宮中側近の意見をいれて、天皇は早急に反乱軍を鎮圧する方針をとった。当初、岡田首相が殺害されたと伝えられたが、臨時政府をつくることは毛頭考えなかった。
 だが、当日の段階で、肝心の軍はどうしたらいいかわからなくなっていた。荒木や真崎らの皇道派の意見により、陸軍大臣から決起側の説得を試みる案がだされ、その日の午後、陸軍大臣告示として、「蹶起(けっき)の主旨に就(つい)ては天聴に達せられあり」、「諸子の行動は国体顕現の至情に基くものと認む」などとする五項目の内容が決起部隊に伝えられた。この告示を受けた青年将校たちは、自分たちの行動が認められたと喜んだ。
 翌2月27日には戒厳令が布かれ、東京警備司令官香椎(かしい)浩平が戒厳司令官に就任した。決起部隊は自分たちの意に沿った新政権が発足することを期待している。香椎戒厳司令官も平和的な解決をめざした。
 だが、昭和天皇は決起部隊を反乱軍とみて、鎮圧を督促する。本庄侍従武官は天皇が「朕(ちん)が股肱(ここう)の老臣を殺戮す、此(かく)の如き兇暴の将校等、其(その)精神に於(おい)ても何の恕(ゆる)すべきものありや」と述べたと記録している。その日の午後にも反乱部隊が鎮圧されないのを知って、天皇は「朕自ら近衛師団を率い、此(これ)が鎮定に当らん」と発言したとされる。
 こうした宮中の動きを受けて陸軍首脳部もようやく武力鎮圧の用意を調えることになった。近衛師団を含む在京部隊、甲府や佐倉の連隊、宇都宮の部隊が集められて反乱軍を包囲し、連合艦隊の第一艦隊の主力が芝浦沖に到着し、万一の事態に備えた。
 決起部隊を所属原隊に撤退させよという奉勅命令が下達されたのは28日の午前5時すぎである。奉勅命令は天皇の命令であり、絶対である。青年将校たちは自分たちが逆賊となり、敗北の運命にあることを知った。
 空からは「下士官兵に告ぐ」のビラがまかれた。今からでも遅くないから原隊へ帰れ、抵抗する者は全部逆賊であるから射殺する、お前たちの父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ、といったすさまじい内容である。
 さらにラジオからは「勅命が発せられたのである。すでに天皇陛下の御命令が発せられたのである」ではじまる「兵に告ぐ」という放送が流れた。
 いまや反乱軍となった決起部隊は騒然とした雰囲気に包まれた。皇道派で陸軍省軍事調査部長の山下奉文(ともゆき)は、青年将校たちに自決を勧め、宮中に勅使を派遣するよう求めた。だが、本庄からその話を聞いた昭和天皇は「自殺するなら勝手にせよ」と、勅使派遣に応じなかった。北一輝からは自決するなと青年将校たちに電話がかかってきた。
 戒厳司令部は29日午前9時の攻撃開始を決定する。もし戦闘がはじまっていたら、東京の真ん中で、日本軍どうしが戦う大惨劇になったはずだ、と半藤一利も書いている。だが、そうはならなかった。迫る包囲軍を前に決起将校らは遂に降伏の道を選ぶ。下士官兵のほとんどが原隊に復帰した。
 安藤輝三は自殺をはかるが、一命を取り留めた。午後2時ごろ、牧野伸顕を襲撃したさいに負傷した河野寿(のち自決)と自殺未遂により病院に送られた安藤輝三を除き、決起将校たちは陸軍大臣官邸に集まった。
 山下らから暗に自決を勧められるが、それを拒否した。野中四郎だけが自決する。その後、かれらは武装解除され、憲兵によって拘束され、午後6時ごろ、渋谷の陸軍東京衛戍(えいじゅ)刑務所に送られた。
 決起した将校のうち16人が死刑となり、クーデター計画の首魁(しゅかい)とされた北一輝と西田税にも死刑の判決が下された。
 達吉は病室の警備にあたる隣りの警察官から、二・二六事件の推移を聞いていた。気が気ではなかったはずだが、恩師の一木喜徳郎(枢密院議長)が襲われなかったことに胸をなでおろしていただろう。
 二・二六事件は天皇機関説排撃の動きを暴力的にいっそう推し進めることになった。だが、同時にそれは、国家の最高機関である天皇の意思が発動された事件だったのである。

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