SSブログ

逼塞──美濃部達吉遠望(81) [美濃部達吉遠望]

img20230206_08212934.jpg
 二・二六事件のあと、難を免れた岡田啓介は首相を辞任し、外相の広田弘毅が首相になった。元老の西園寺公望は当初、近衛文麿を推挙したが、近衛は皇道派の荒木貞雄や真崎甚三郎と親しかったため、要請を辞退した。そのため、広田の名前が浮上したのである。
 陸軍では皇道派の排除が進んだ。多くの者が逮捕され、有罪となった。真崎自身も軍法会議にかけられ、かろうじて無罪となったものの表舞台からは姿を消す。そのほか、多くの人物が左遷され、皇道派は壊滅状態となった。それとともに、軍による政治干渉はより露骨になり、やがてそれは実質的な政治支配へと進んでいく。
 日中関係は緊張の度合いを高めていた。1901年の北京議定書以来認められていた天津の支那駐屯軍は関東軍にならって、華北を第二の満州国にすることを狙っていた。支那駐屯軍は長城の南、河北省北東部に、殷汝耕(いんじょこう)を傀儡(かいらい)首班とする冀東(きとう)防共自治政府を樹立する。だが、その他の河北省やチャハル省(内モンゴル)では、軍閥の宋哲元がまだ支配権を保っていた。
 蒋介石は共産党勢力の掃滅に追われていた。12月、それを張学良が諫める「西安事件」が起こり、その結果、国民党と共産党がふたたび「合作」し、ともに日本と対決する方針が打ち出された。やがて、盧溝橋(ろこうきょう)事件が発生し、日中戦争がはじまる。
 広田内閣のもとでは、増税が打ちだされ、大幅に軍備費が拡張された。貿易赤字が一挙に拡大する。国際連盟脱退以来、国際的な孤立を余儀なくされている日本はドイツとのあいだに日独防共協定を結び、ドイツを盟邦と呼ぶことになる。
 広田内閣が成立したあと、以前から辞意を表明していた枢密院議長の一木喜徳郎は辞任し、引退した。法制局長官の金森徳次郎も1月にすでに辞任していた。
 日本がいよいよ軍事色を強めるなか、美濃部達吉は吉祥寺の自宅でひっそりと過ごしていた。そのころ、美濃部宅を訪れた女性がいる。民子夫人の友人である。
 1925年(大正14年)5月、彼女は小説を書きたいと思って、伊香保温泉にやってきた。ところが、泊まった旅館は、とても小説を書ける雰囲気ではなく、榛名山の麓までやってきたところ、画架を立て、三脚に腰をおろした和服の婦人と出会った。あれこれ話をしているうちに仲良くなって、その婦人が母親と滞在する伊香保のホテルを訪れた。それが小説家、吉屋信子と美濃部民子の出会いだった。
 このとき民子は40代後半、吉屋信子は20代後半で、民子は出遭ったときの印象をのちに「あの時あなたを女子大あたりの女学生かと思ったら、もう小説を書いている方と知ってびっくりしました」と語っている。
 それから美濃部民子と吉屋信子とのつきあいがはじまり、1936年(昭和11年)の晩春に、吉屋はタケノコ料理をごちそうになるため、絵の仲間の白根夫人とともに吉祥寺に新築されたばかりの美濃部邸を訪れることになった。
 広い庭園には竹林があり、タケノコがとれるのだった。門前は警官の姿がものものしかったが、邸内は森閑と静まっていたという。
 吉屋はそのとき「美濃部がごあいさつしたいと申しますから」といわれて、はじめて夫人から達吉を紹介された。

〈民子夫人は私を伴って二階の博士の書斎へ案内された。博士にお会いするのはなんとその日が初めての私だった。
 階段をあがりつつ私は胸がときめいた。(天皇機関説)問題前にもしお会いしたら単に偉い学者にお目にかかるという、それだけだったかも知れない……けれどもいまこの時の博士はその多年の学説を無念に葬り去られた悲劇の学者だった。国家権力の嵐のなかにあくまでもわが信念をまげず、あらゆる地位を投げうって書斎に隠棲の老博士にまみゆると思うと、私は一瞬の興奮を覚えた。
 前庭を見渡せるその書斎は広い日本間の中央に大きな机、その前に端然と憲法学の殉教者はすわって居られた。大島がすりらしい羽織とついのきもの姿、卵型の整った輪郭のお顔に眼鏡の奥の優しい目、鼻下に短いヒゲ。まったく高雅なそしてあたたかい温容の老紳士!
「学問の研究は一生かかっても出来ないぐらいたくさんありますので……いまそれをゆっくりやれる時になりました。」
 もの静かな淡々とした口調で言われたこの言葉はいまもはっきり覚えている。そのご研究の時間をお邪魔しないようにと、うやうやしくお辞儀して立ちかかると「せっかくこの遠くまで来られたから、ゆっくり遊んでいらっしゃい」と孤高の学者はおっしゃった。〉

 そのあと、民子夫人は書庫も見せてくれた。多くの書籍が並ぶなかに、白い陶器にはいった菊正宗の一瓶がだいじそうに飾ってあったのがご愛敬だった。
 民子夫人の交友関係は広い。高砂の「美濃部親子文庫」には、野上弥生子から民子夫人に宛てた37通の書簡と、民子夫人から野上弥生子に宛てた10通の書簡が残されている。1929年(昭和4年)から1958年(昭和33年)にかけてのものだ。まだ活字化されていないので、機会があれば紹介することにしよう。
 野上弥生子は1936年(昭和11年)2月の総選挙で、弟の小手川金次郎(武馬)が地元大分県で選挙応援をして選挙違反で逮捕され、有罪となったとき、東大名誉教授の達吉に頼みこんで、特別弁護人として、控訴院(高等裁判所)に抗弁書を出してもらったことがあるという。
 これをみても、野上弥生子が美濃部家と親しかったことがわかるだろう。
 達吉が天皇機関説事件以後、日本の敗戦にいたるまでの10年間、どのような思想的営為を紡いでいたかについては、家永三郎の『美濃部達吉の思想史的研究』に詳細な記述がある。
 以下、それに準拠しながら、逼塞を余儀なくされた達吉の10年間を追ってみることにする。
 息子の亮吉は父の思い出として、「父は相当がんこであった。一度こうと決意したことは、容易なことでは撤回しなかった」と書いている。そのことは天皇機関説事件についても、達吉が自説を決して曲げなかったのをみてもわかるだろう。
 家永三郎自身も1943年11月から翌年5月まで、帝国学士院で達吉の主宰する『帝室制度史』の編纂(へんさん)を手伝ったときに、そのことを実感した。家永などの歴史学者が起草した草稿を達吉は書き改め、そのあと修正を求めても、けっして応じることがなかったという。
 貴族院議員を辞職したあと、達吉の公職としては、帝国学士院会員としての『帝室制度史』の仕事しか残っていなかった。達吉はその事実上の委員長として、実に熱心に仕事に取り組み、みずから原稿の執筆にあたっていた。
 しかし、天皇機関説事件以降、達吉の言論活動が封殺されたことはたしかである。憲法学説について論じることは許されず、政治評論を書くこともできなくなった。
 亮吉はこう書いている。

〈父は殆ど筆をとらなかった。こんなことは父の一生のうちでも珍しいことであった。いずれは世の中が変り、父の書物を出版できる時が来るだろうから、その時のためにひまのある今のうちに書いておいたらとすすめても、なかなか机に向う気持は起らなかったらしい。出版できるめあてのない本を書く気にはどうしてもならないと言い言いしていた。父ほど本を書くことがすきでも、やはり出版のめあてがないと筆をとる気にはなれないらしい。本が書けなかったこの期間には、実によく映画を見にでかけた。映画の批評を中央公論だかに書いたこともあった。又探てい小説が好きで新青年を毎号欠かさず読んでいた。〉

 確かめてみると、達吉は1938年(昭和13年)1月号の「婦人公論」と9月号の「中央公論」に「映画雑筆」を寄せている。これは『オーケストラの少女』や『舞踏会の手帖』『わたし貴婦人よ』などに触れたものだという。帝劇や日比谷劇場で映画を観る機会が増えていた。
 いっぽう「新青年」は都会的なセンスにあふれた総合娯楽雑誌で、はじめは江戸川乱歩や横溝正史が推理小説を書いていたが、1930年代には小栗虫太郎や木々高太郎なども登場する。美濃部家を訪れた吉屋信子も「新青年」の執筆者だった。
 相撲はもともと好きで、国技館に専用のさじきをもっており、毎場所ほとんど欠かさず見にいっていた。「中央公論」や「帝国大学新聞」にも相撲についての雑感を書いている。
 だからといって、達吉は仕事をやめたわけではない。たしかに憲法や政治に関する執筆はできなくなった。しかし、もともと専門は憲法学ではなく、行政法なのである。1908年(明治41年)からずっと東大で行政法を教えたきた。行政法についての著作も数多い。だが、それを研究しつくしたとはいえないし、吉屋信子に話したように「いまそれをゆっくりやれる時になりました」と思うようになっていた。

nice!(8)  コメント(0) 

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント