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息子、美濃部亮吉の逮捕──美濃部達吉遠望(82) [美濃部達吉遠望]

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 1937年(昭和12年)1月、軍部が政友会からの批判に手を焼いて、議会の解散を主張したのを機に広田は内閣を投げだし、林銑十郎(元朝鮮軍司令官、元陸相)内閣が発足した。元老の西園寺公望は当初、軍部ファシズムの流れに批判的な陸軍大将の宇垣一成(かずしげ)を推挙したが、陸軍の反対により、その組閣は実現しなかった。
 しかし、林内閣も長続きしない。もともと評判が悪かったうえに政権に有利な議会を形成しようとして、いきなり総選挙に打って出たが、もののみごとに失敗し、総辞職する。与党で軍部政党の昭和会や国民同盟はまったくふるわず、民政党と政友会の二大勢力が引きつづき議会を支配し、社会大衆党が躍進した。
 そのあと登場したのが西園寺の秘蔵っ子とされる青年宰相、近衛文麿である。だが、内閣発足からひと月ほどたった7月7日に、緊張のつづく中国大陸で盧溝橋事件に直面し、そのまま日中戦争に突入する事態となった。
 日本が戦時体制に突入しようとするなか、時局への発言を封じられた美濃部達吉は、ほとんど自宅に籠もりながら、これまでみずからが切り開いてきた行政法の体系をまとめる仕事に専念していた。
 すでに前年12月には、これまで『行政法撮要』として何度も改訂を重ねてきた著書を組み立て直し、『日本行政法』上巻と題して有斐閣から刊行した。その下巻をまとめる作業がいまもこつこつと続いている。
 東京帝国大学を退職してから出版した「美濃部達吉著作集」は『日本憲法の基本主義』『法の本質』『ケルゼン学説の批判』『公法と私法』の全部で4巻からなっていたが、天皇機関説事件のさなか、まず『日本憲法の基本主義』が発禁となり、つづいて『法の本質』と『ケルゼン学説の批判』も発禁となり、かろうじて『公法と私法』だけが引き続き販売されていた。
 しかし、憲法や時局とは関係のない『日本行政法』は出版を認められた。上巻だけで実に1040ページの大著である。その下巻は3年4カ月後の1940年(昭和15年)4月になってようやく発売されるが、これも1375ページの大著へと膨らんでいく。
 それまでの学業の蓄積があったとはいえ、これをみても、その間、達吉が合わせて2415ページを数える『日本行政法』の完成に向け、いかに心血を注いでいたかがわかるだろう。
 行政法という名称の法律はない。行政法とは行政にかかわる法律のすべてを指し、その範囲は広く、時代に応じて常に変化している。
 そもそも行政とは何か。
『日本行政法』では、こんなふうに論じている。
 行政は国家の統治作用としての立法、行政、司法の三権のひとつで、この三権は区別されながらも、互いに関連している。立法が基準としての法規を制定するとすれば、行政はその基準にしたがって実施され、行政が法規を破ることはできない。いっぽう、司法が一般に民事および刑事の法規にしたがって国家秩序の維持をはかるのにたいし、行政はあくまでも国家の目的を達するための作業をめざす。
 達吉は行政とは第一に「法規の下に行わるる国家の作用」であり、第二に「民事及び刑事以外の目的の為にする作用」であると規定する。このことは行政が法的な根拠にもとづいて執行されるとともに、みずからが勝手に法をつくることができないことを意味している。
 行政の主体は基本的には国家の機関であり、そのほかに国家によって公共団体(自治団体)が地域行政を担うことを認められている。
 それでは行政法とは何か。達吉はいう。

〈行政法は、もし一言でその定義を与えるとすれば、行政に関する国内公法であるということができる。その観念の要素をなすものは(1)行政に関する法であること(2)国内法であること(3)公法であることの3点にある。〉

 法学者の論理は緻密である。それを理解するためには全巻を読破しなければならないが、それにはよほどの覚悟がいる。いずれにせよ、行政法とは国内の行政機関に属する公務員による公的活動全般を規制する法のすべてを指すということができるだろう。ここで重要なのは警察や経済活動、社会活動を含め、行政が国民にたいし法にもとづかない恣意的な行動をなしえないと定められていることである。
 達吉は現代行政法の原則を次のように述べる。
第一は法治行政を基本とすること。法治行政の原則は人民の権利を保証することである。行政は法律にもとづくことを要し、法律の根拠にもとづくのでなければ、人民の自由および財産を侵すことはできない。さらに、法治主義が維持されるためには立法権と行政権の分立を前提とする。
 第二に行政組織は中央集権主義を原則とする。ただし、外交や軍事、幣制などを除く一般内政に関しては、地方分権を選ぶほうが地域の実情に沿う場合が多い。こうした自治行政においては、ほんらい国家に属する行政権が国家から公共団体に委任されることになる。
 第三は公民国家主義である。封建時代の身分制国家とちがい、現代の公民国家では、君主のもと国民は平等であることを保障されている。そこでは門閥政治(血統にもとづく政治)が禁止され、職業の自由が保証され、各個人は法律上平等の立場におかれている。
 さらに第四に文化国家主義である。ここでは行政の目的が、単に治安、すなわち公共の安寧秩序を保持するにとどまらず、積極的な文化目的すなわち国民の幸福増進をめざすことにおかれる。
 第五は私有財産制度である。すなわち国家は私有財産の安全を保障し、法律によらなければ、国家権力をもってしても、これを侵すことができないことを原則としなければならない。法律によって制限されないかぎり、私有財産不可侵の原則、財産上の取引自由の原則、財産相続の原則は維持される。
 達吉はこうした五点を現代行政法の原則として掲げている。
 行政法の研究はまだまだつづく。
 ファシズムの激しい流れが進むなか、達吉は現代国家における行政の原則を追求しつづけていた。行政法は現実の行政に立脚する法理であって、けっして理想論ではない。だが、その法理を築きあげようとすればするほど、ファシズム体制がそれを破壊しようとしていることに気づかないわけにはいかない。達吉の研究ははからずも戦時行政法の実態を記録する作業へと踏みこんでいく。
 当初、北京郊外の偶発的な衝突からはじまった日中戦争は、収まるどころか、ますます全面的な戦争へと拡大していた。戦火は上海にも広がり、日本軍は国民政府の首都、南京を攻略する。
 大幅な軍備拡張に踏み切った軍部はあくまでも強気だった。軍備拡張は日本経済に大きな負担をもたらす。国家による経済の直接統制が必至となっていた。思想統制もさらに強化された。
 1938年(昭和13年)2月、美濃部家にとって一大事件が発生する。息子の亮吉が逮捕されたのである。亮吉はまもなく34歳を迎えるところで、4年前にドイツ留学から戻ってから法政大学教授に就任した。結婚もして、長男も生まれ、父の住む吉祥寺の家の別棟で暮らしていた。
 2月1日、そこに4人の警官がやってきて、ちょっと聞きたいことがあるから、警察署まで同行してほしいという。勾引状も何ももっていない。亮吉はのこのこついていき、そのまま勾留された。治安維持法違反容疑による逮捕だった。
 この日、逮捕されたのは亮吉だけではなかった。東大教授の大内兵衛、同助教授の有沢広巳、脇村義太郎、法政大学教授の阿部勇、南謹二、東北大学助教授の宇野弘蔵など、合わせて38人が一斉に逮捕されていた。
 国体の変革と私有財産制の否定を目的とする結社を組織した者、およびそれに加入したり、それを支援した者を重く罰する治安維持法は、いくらでも拡大適用することができた。それは共産党だけではなく、マルクス主義の研究サークル、さらに労働運動や農民運動の活動家を一網打尽にすることも可能だった。
 とりわけ日中戦争の勃発以来、その網はさらに広げられ、軍を批判する思想の統制にまでおよんでいた。前年12月にも、当局と学内の圧力を受け、矢内原忠雄が無理やり東大教授を辞任させられている。
 今回の逮捕は前年12月15日の450人以上にのぼる労農派の一斉検挙につづくもので、それが教授グループにまでおよんだのである。人民戦線事件とも呼ばれる。労農派といっても、特別の組織があったわけではない。かつて『労農』という合法雑誌が発行されており、その執筆や編集にかかわった人たちが労農派と名づけられたにすぎない。いまや軍国主義を批判すること自体が許されなくなっていた。
 亮吉は最初、吉祥寺の自宅からタクシーで田無署に連行され、翌日、芝愛宕署の留置場に移された。拷問こそ受けなかったが、調べは11月までだらだらとつづいた。それは精神的拷問に近かった。留置場は雑居房で、環境は劣悪だった。だが、あまり長くいるので、しまいには牢名主のような存在になったという。
 12月になって、ようやく起訴が決定し、巣鴨の拘置所に送られた。7月に予審がはじまり、8月の初めにようやく保釈で出所することができたが、それまで実に1年半にわたって拘束されたのである。
 巣鴨の拘置所では、父の達吉と面会することができた。
 亮吉はこう書いている。

〈父とは小まどからではなく、別の部屋で自由に面会することができた。父は砂上楼閣的につくり上げられたこの事件に心から憤激していた。神聖にして犯すことのできない法律が、このように悪用されるのは、父にとっては見るにたえない痛憤事であったにちがいない。父は、弁護士の登録をして法廷において大いに争おうと決意した。〉

 公判は1942年(昭和17年)5月にはじまり、9月28日の第1審判決で、有沢広巳と阿部勇を除く全員が無罪となった。亮吉を含め、ほとんどの被告は、労農派が国体変革をめざす結社であることを知らなかったというのが判決理由である。
 弁護側は控訴し、翌年6月の第2審判決で、有沢、阿部を含め、教授グループ全員が無罪を勝ちとる。2審では、そもそも労農派は国体変革を目的とする結社とは認められないという結論が出された。
達吉はあまりに目立つ存在であるため、この裁判には直接かかわらなかった。それでも検挙以来、教授グループ全員が無罪を勝ちとるまでの6年間、やきもきする日がつづいたことはまちがいないだろう。

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