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日中戦争が泥沼化──美濃部達吉遠望(83) [美濃部達吉遠望]

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 日中戦争が泥沼化していた。
 中国は西安事変による第2次国共合作をへて、抗日姿勢を固めていた。近衛政権は日本の威信をかけて、国民党政権をつぶそうとした。上海から上陸した日本軍は猛烈な勢いで国民党政府の首都、南京を攻略する。だが、国民党は政府を南京から武漢へと移す。それを日本軍が追撃する。戦線が伸びる。日本は中国の点と線としか支配できない。中国共産党軍が隙をついて、時折、それを寸断する。
 日中戦争の勃発以来、日本国内では経済統制が強まっていた。軍需産業を優先するため、民需は抑えられ、輸出入も規制され、軍需にかかわる主要工場は陸海軍の管理下に置かれるようになった。企画院が創設され、戦争経済のための物資動員計画がつくられる。賃金統制と価格統制もはじまった。軍人はもちろん官僚、さらに一部学者や社会大衆党も統制経済を支持するようになった。
 1938年(昭和13年)3月に国家総動員法が成立する。これにより、政府は経済、労働関係、言論活動の統制をおこなう権限を無条件に与えられることになった。ナチスの全権委任法に等しい。政友会も民政党もこれに反対するが、陸軍のにらみが効いて、抵抗もむなしく、論戦は強引に葬り去られる。
 社会大衆党の西尾末広は、むしろ積極的に法案を支持し、その賛成演説で、近衛首相は「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、大胆に日本の進むべき道を進むべきであろう」とぶった。これは皮肉でも何でもない。西尾はヒトラーとムッソリーニとスターリンこそ、当世の三大政治家だと考えていた。
 しかし、政友会と民政党の両党から「スターリンのごとく」とは何だと反発がでて、西尾は衆議院議員から除名される。そんな空騒ぎをともないながら、法案はほとんど修正もなく可決されていった。
 近衛首相は「蒋介石を相手にせず」という強気の姿勢を示し、あくまでも国民党政権打倒をめざすいっぽうで、ひそかに戦争終結の糸口を探っていた。だが、陸相の杉山元と意見が合わない。そこで、5月に内閣を改造し、陸相に板垣征四郎、外相に宇垣一成、蔵相に池田成彬、文相に荒木貞夫、厚相に木戸幸一らの大物を据える人事をおこなった。
 中国軍を包囲するため、4月から6月にかけ、中支那派遣軍と北支那派遣軍の合同による徐州作戦が展開された。だが、中国軍は包囲を抜けだし、作戦は失敗する。和平工作もうまくいかない。10月にはようやく武漢を占領した。だが国民党政府はすでに重慶に移動していた。日本軍に重慶まで攻め込む力は残っていなかった。
 そこで、陸軍は重慶政府を分裂させる工作を試みる。国民党の重鎮、汪兆銘を重慶から脱出させ、かれのもとに新政府をつくらせようという計画を立てた。汪兆銘は重慶を脱出し、12月に仏領インドシナのハノイに到着した。
 この謀略が成功する前に、近衛は「東亜新秩序」構想を発表していた。日本の戦争目的は、東アジアに永久永遠の安定をもたらす新秩序の建設にあるのだという。この構想はイギリスやアメリカの猛反発を招く。
 だが、近衛には根気がない。1939年(昭和14年)1月には、嫌気がさして内閣を投げだし、国粋主義者で枢密院議長の平沼騏一郎に首相の座を譲り、みずからは枢密院議長の座に逃げこんだ。平沼を毛嫌いしてきた西園寺公望や牧野伸顕も、もはやこの流れを止めることはできない。
 平沼内閣をもっとも苦慮させたのが日独軍事同盟問題である。1937年の日独防共協定以来、陸軍はドイツとの軍事同盟に乗り気だった。仮想敵国はソ連である。だが、英米も敵国に含まれるとなれば、慎重な検討が必要になった。首相、外相、陸相、海相、蔵相による五相会議が70回以上開かれたものの、結論はでなかった。とくに海相の米内光政が、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美とともに強く反対した。
 だが、そうこうしているうちに、ドイツは5月にイタリアと同盟条約を結び、さらに8月23日にソ連と不可侵条約を締結してしまう。ドイツは前年にオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキア全土をも併合していたが、いまやソ連と密約を結び、ポーランドの分割をもくろんでいたのだ。
 ドイツがソ連と不可侵条約を結ぶなどとは考えもしなかった平沼内閣は「複雑怪奇」なヨーロッパ情勢について行けず、退陣を表明し、陸軍大将の阿部信行が首相に就任した。英米との関係を改善し、中国との戦争を処理することが期待されていた。
 ところが9月1日、ドイツがポーランドに侵攻、同じくソ連が東からパーランドに侵出した。ポーランドと同盟条約を結んでいたイギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦がはじまった。
 日中戦争は膠着状態にある。日本軍は海南島を占拠し、親日派要人の暗殺犯引き渡しを求めて天津租界を封鎖した。これにたいし、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、翌年から通告どおりの廃棄を実施した。ワシントン海軍条約もすでに廃棄されている。
 5月中旬から8月下旬にかけ、満州西北部ではノモンハン事件が発生していた。満州国とモンゴルとの国境をめぐって、主として関東軍とソ連軍が激戦をくり広げ、日本軍は大打撃を受ける。それ以降、日本軍はソ連軍との直接対決を避けるようになった。
 日本はどこへ向かうのか。行方は混沌としていた。
 そのころ美濃部達吉は自宅の書斎にこもって、『日本行政法』の下巻をまとめる仕事をつづけていた。8月になって、1年半ぶりに息子の亮吉が保釈で釈放された。だが、先に裁判が待っている。達吉もこの裁判の勝利に向けて、全力を尽くすつもりでいる。亮吉はつれあいの関係を頼って、信越化学工業の嘱託となり、少なくとも生活の心配からは免れた。
 最近どんな仕事をしているのかと聞かれて、達吉は12月4日の「帝国大学新聞」に、こんなふうに書いている。

〈どんな仕事をしているかと聞かれて、わざわざ本紙で吹聴するのも、おこがましいが、最近の仕事にしているのは、『日本行政法』の下巻を完成することで、毎日ただそれのみに熱中している。これまでに書いたことのある単純な教科書ふうのものでなく、多少自信のもてるものを書き遺したいと思って、同書の上巻を公にしたのは、3年前の昭和11年12月であったが、その後いろいろの事故があって、続稿の執筆が途絶えがちになり、ようやく今年になって、この春以来もっぱらそれのみに従事することとなし、万事をさしおいてその脱稿にいそしんでいる。〉

「いろいろの事故」というのは、言うまでもなく息子、亮吉の逮捕と勾留が最大のものである。それも何とか無事保釈されるめどがついて、執筆が進むようになり、『日本行政法』下巻の完成が近づいている、と報告したわけだ。
 行政法には特有のやっかいさがあった。それは、行政法が行政にかかわるさまざまな法令によって構成されおり、その法令がたえず改正されていることだ。そのため行政法の書物は、すぐに最新版ではなくなってしまう恐れがあった。
近年、とりわけ著しいのは、経済行政の領域だった。「国民の全経済力を国防の目的に適合せしむるため……国家的権力をもって国民の経済生活を統制する」動きが進んでいる。
 国際的、国内的経済情勢からみて、経済統制がおこなわれることはやむをえない。しかし、それがさらに進んで、もし学問や芸術の上にも統制がおよぶことになると、国の文化は萎縮してしまうことになるだろう、と達吉はいう。

〈学問や芸術は力から生まれるものではなく純然たる知能の産物であり、ただ天分ある人々の献身的な研究と努力とによってのみ、進歩し発達しうべきものである。曲学阿世という語は、近頃はあまり行なわれなくなったが、もし権力をもって学問や芸術を統制しようとするならば、真の意味においての学問や芸術は亡びてしまい、ただ権力におもねり統制に便乗するいわゆる曲学阿世の徒のみが、世にはびこることとなるであろう。〉

 達吉節は健在である。
 経済統制も一見よさそうにみえて、大きな弊害を含んでいる。

〈権力をもって人民の生活を統制するということは事の性質上きわめて困難な事柄であって、もしその権力の用い方にすこしでも無理があれば、良民をして強いて犯罪者たらしむるような結果に陥いり、拡充せらるべき生産はかえって縮小し、円滑ならしめんとする配給はかえって停頓し、国民の経済力は統制あるがためにかえって一層不健全を加うることがないとはいえぬ。〉

 軍備最優先のための経済統制は、経済にゆがみをもたらし、経済を停滞させ、人びとの生活を圧迫し、かえって犯罪者が増える結果をもたらすかもしれない。
 さらに最近は、当局者から「厳罰主義というようないかにも不愉快な語」を聞かされることが多くなった。しかし、厳罰主義が叫ばれるなかで、重要なのは司法の厳正独立であって、「もし司法権の運用が、政治的の動機によって左右せらるるようなことがあれば、国家の禍いこれよりはなはだしきはないであろう」と、達吉はいう。
 ファシズムが進展するなか、司法権の独立さえ危ぶまれる状況になりつつあった。

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