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弾圧下の著作活動──美濃部達吉遠望(84) [美濃部達吉遠望]

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 天皇機関説事件のあった1935年(昭和10年)から太平洋戦争がはじまる1941年(昭和16年)にかけて、美濃部達吉は憲法学説や時事評論に関する著作こそ発表しなかったものの、専門分野である行政法の分野においては活発な著述活動を持続していた。
 その主な仕事は、上下巻合わせて2415ページにおよぶ大著『日本行政法』となって結実する。その上巻は1936年に、下巻は1940年4月に有斐閣から発行された。上巻は行政法の総論で、下巻が扱うのは各論である。各論では、警察法からはじまって、経済統制、労働の保護と統制、文化の保護と統制、公企業論、公用負担法、財政法、軍政法などが論じられ、くしくも戦時統制の実態を記録する作業となった。
 著作はそれだけにとどまらなかった。行政法を軸に、その周辺にも広がっていく。刑事罰の領域にまで踏みこんだ記述が、この時期の特徴である。
 1936年には土地収用問題を扱った『公用収用法原理』(有斐閣)、選挙訴訟を扱った『選挙争訟及(および)当選争訟の研究』(弘文堂書房)、1937年には『選挙罰則の研究』(良書普及会)、1939年には『行政刑法概論』(岩波書店)、『公務員賄賂罪の研究』(岩波書店)、1941年には『日本鉱業法原理』(日本評論社)、1944年には『経済刑法の基礎理論』(有斐閣)が出版されている。
 さらに驚くことに、達吉は、これらの著作に加えて、1935年から45年まで、ほとんど毎年(1942年と44年を除いて)のように、刑事判例を批判する『公法判例評釈』を有斐閣から出しつづけていた。
 家永三郎はこの時期の達吉について、こう書いている。

〈事件[天皇機関説事件]以後いわば日陰者の身の上となったこの十年間の彼の業績は、純粋に学問的観点のみに限って見ても、きわめて充実した内容にみたされているのである。しかも、この時期の美濃部の学問活動は、単に理論的に新鮮な研究を豊富に送り出した、という純学問的な観点のみにとどまらず、それらの著作が、年ごとに強化して行くファシズム体制下の、狂信的な軍国主義の横溢する時勢の中で書かれたものでありながら、時局への便乗迎合の口吻(こうふん)が少しもふくまれていないのはもとよりのこと、前々からの美濃部法学の自由主義的原理が堅持され、むしろ時局に籍口(しゃこう)する国家権力の濫用をきびしく批判する態度によって貫かれている点において、絶大な思想史的意義を有するものであることを特に重視する必要があると思う。〉

 家永三郎は社会主義的な立場から、しばしば美濃部達吉の思想的限界を指摘しているが、ここでは絶賛である。達吉はあくまでも自由主義者として、戦時中も、近代にふさわしい日本の国家や法、公務員(議員や裁判官を含め)のあり方を追求しつづけてきたといえるだろう。その目的は法治国家の積極的意義を唱えつつ、権力の濫用を防ぎ、民衆の権利を守ることにおかれていた。
 のちに東大総長の南原繁も、戦後の美濃部達吉追悼会で、この時期の達吉について、こう語っている。

〈しかるに、当時[天皇機関説事件当時]貴族院議員であられた先生御一身に集中された非難攻撃と強迫に対して、先生がいかに処せられたか。終始一貫、所信を曲げず、よく孤影奮闘されたことは、世人の記憶に新たなところであります。ここに一個の人間としての先生の剛毅な精神と強靱な意志を語るものがあります。……先生はよく考え、よく書かれたと同時に、実に力強く生き、闘われた人であります。
さらにそれにつづく十年の日が先生にとってどれだけの忍苦と勇気を要した生活であったでありましょう。貴族院議員と一切の公職を辞せられて後も、世の冷笑と迫害に堪え、しばしば生命の危険をも冒して、先生は荻窪[正しくは吉祥寺]の寓居にあって、きわめて限られた学問の自由の限界内に、もっぱら著作に従事せられたのであります。しかもその胸中、世に行われる暴力の圧制と真理の蹂躙(じゅうりん)に対する忿怒(ふんぬ)、戦争と国家の前途を思うての憂国の至情、けだし、堪え難きものがあったと想(おも)うのであります。〉

 ふたつの引用は戦時中の達吉の姿、とりわけ剛毅で強靱、不撓不屈の人柄をよくとらえている。南原のいう達吉を支える「憂国の至情」は、自称でない分、真実味がある。達吉はあくまでも天皇中心主義者でありつづけている。
 家永三郎はとくに終戦にいたるまで毎年のように出版された『公法判例評釈』に注目している。これは裁判所(とくに大審院)の判例を批評したもので、とりわけ行政犯にたいする刑罰法規の拡張解釈に鋭い批判の目が向けられている。
 行政犯と刑事犯とは異なる。行政犯が行政の定めた法令や規則に違反した者を指すのにたいして、刑事犯は殺人や放火、傷害、その他社会的な害悪をおよぼした者をいう。たとえば行政犯には、脱税や価格統制違反、闇取引、選挙違反などが含まれる。その行政犯が刑事犯のように扱われ、厳しく処罰されるケースが増えていた。
 国家権力のとめどない拡張が進んでいた。国策の徹底と厳罰主義が唱えられるなか、裁判官には自由裁量権が認められ、司法はその独立性を失って、政治に迎合する傾向が強くなっていた。
ここで『公法判例評釈』で達吉がどのような判例を挙げて批判していたかを、家永三郎にしたがって例示しておくことにしよう。
 1939年(昭和14年)2月28日の大審院判決は、省令はそれを掲載した官報が被告人の居住地に到着していない場合でも、発令された時点で効力を発揮するとして、被告人を有罪とした。この判決文にたいし、達吉は反論する。「法令の公布が人民に対して効力を生ずるためには、人民がこれを知りうる状態におかれることを要する」のであって、人民が公布を知らない時点でなされた省令違反に罰則を適用するのは「刑罰不遡及の原則」に反する。あくまでも人民の権利を擁護するのだ。
 1940年(昭和15年)6月3日の大審院判決は、狩猟禁止が明示されている場所において、狸を捕獲した行為を狩猟法違反と判断した。だが、達吉は捕獲と狩猟はことなり、狩猟法違反とするのは「罰則の不当な拡大解釈」だと批判する。
 また以前も、大審院は御猟場で鴨一匹を捕獲した者を狩猟法違反とし、猟銃を没収する措置にでたが、それは交通違反を犯したら自動車を没収するというのと同じで、この没収には正当な理由がない、と達吉は批判した。権力の濫用を指摘したのである。
 選挙罰則についても、それがしばしば誤って適用されていると指摘している。1934年(昭和9年)の改正では、厳罰主義が一層徹底されることになったが、それにより、とうてい罪になると思われない行為までもが有罪として判定されることになった。そうした取り締まり強化が、戦前の日本では民主的な政治活動を制限することにつながっていたのだ。
 非常時局は当局による徴発に拍車をかけていた。1938年(昭和13年)4月12日に大審院は、所用のためと称して外泊し、それにより所有する馬の徴発を免れようとしたとして、被告に徴発忌避罪の判決を下した。だが、達吉にいわせれば、それは法律の拡大解釈にほかならない。
 また1939年(昭和14年)5月4日に、大審院は2年前に軍政に関する記事を掲載した雑誌「国際経済」にたいし、軍事に関する造言蜚語を禁じた陸軍刑法第99条違反だとする判決を下した。これもまた、法律の拡大解釈である。
 1939年(昭和14年)12月22日に大審院は、支那事変(日中戦争)に出征中の夫の留守宅に、その妻と情交することを目的に前後3度にわたり忍びこんだ男を、戸主に無断で住居に侵入したとして、住居侵入罪で懲役に処した。
 当時、応召軍人の妻をめぐる姦淫事件が全国にわたり数多く報告されていた。当局は、出征軍人の妻との情交を目的として、その家に立ち入った行為を、戦時刑事特別法による住居侵入罪とすることにした。だが、この事例にたいしても、達吉は住居侵入罪の拡大解釈だと批判する。
 家永三郎はこう書いている。

〈おそらく政府としては、出征軍人の妻の姦通を厳罰して銃後風紀の粛正を行なおうと欲しながらも、姦通罪が親告罪であるために出征中の本夫よりの告訴を得ることが困難なため、窮余の策として姦夫だけを住居侵入罪で検挙・起訴する統一方針を立てていたのであろう。そして、裁判所は「国策」に合した法解釈をしようという裁判官意識に基づいて、その擬律を支持する態度をとったわけである。しかし、美濃部からすれば、そのような法解釈はきわめて附会の解釈とされることを免れず、痛烈な批判が加えられることとなったのである。〉

 経済統制に関する法律も拡大解釈されることが多かった。
 そのころは綿糸や生糸も統制の対象になっていて、自由な売買は許されず、警察はそれに違反した者を次々と摘発していた。大審院は、統制規則が出される以前に売買契約が結ばれ、それによって販売されたものも違法とした。
 また、使用期間の定められた割当票にしたがって契約を結んだものの、商品の受け取りが期間外になった場合も、取り締まりの対象となった。
 達吉はそのいずれの場合も、国策を笠に着た法の拡大解釈だとして、できるかぎり国民の人権を守る立場をとりつづけた。
 達吉の「評釈」には治安維持法や国家総動員法などの悪法をそれ自体として批判した箇所はない。それが限界だと指摘する向きもある。だが、たとえ悪法であっても、議会で成立した以上、それは法にちがいなかった。
 それをただすのは議会の仕事である。ファシズムの時代においては、法学者には、その法が司法のもとで拡大解釈されていないかを監視し批評するくらいしか許されていなかったのである。だが、その仕事は、軍事統制のもとで社会に何がおこっているかをはからずも記録する貴重な作業となった。
 そんな達吉の日々の研鑽を、家永三郎は「行政法学者としての著作活動の自由の遺されていたのを活用し、法学者としての領域を厳守しながらも、最も原理的な点においてファッシズムに対するきびしい対決を持続し、敗戦の日までその態度をかえなかった」と評価している。

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