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最終回──美濃部達吉遠望(95) [美濃部達吉遠望]

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 1947年(昭和22年)にはいっても、日本の景気はいっこうに回復しなかった。前年夏はマッカーサー司令部が食糧輸入を実施し、小麦粉を放出するなどして、ようやく食糧危機をしのいだ。だが、工業生産は戦前ピーク時の1割に落ちこんでおり、庶民の生活はどん底に近かった。
 共産党系の産別と社会党系の総同盟が全国労働組合共同闘争委員会を結成し、2月1日のゼネストを計画する。吉田茂首相は元日のラジオ放送で労働組合の活動家たちを「不逞(ふてい)の輩(やから)」と呼んで、強い反感を買っていた。
 2・1ゼネストが実現することはない。マッカーサーが禁止命令を発したからである。
 その代わり、マッカーサーは吉田に総選挙の実施を命じる。
 4月25日の総選挙では、片山哲の社会党が吉田の自由党を破って、僅差ながら第1党となり、第3党の民主党(芦田均党首)、第4党の国民協同党(三木武夫書記長)とともに連立政権を組むことになった。
社会党委員長の片山哲が首相となった。
 国民から幅広く支持されて5月24日に発足した片山内閣は、しかし、その後、GHQからの干渉もあって、左右の激しい内部分裂を引き起こし、たちまち失速していく。
 そのころ、国際的には米ソの対立が激しくなり、冷戦がはじまっていた。
 やがて、片山内閣は政治的指導力を失い、総辞職に追いこまれ、三党連立の枠組みを残したまま、1948年(昭和23年)3月に民主党の芦田均を首相とする中道政権が成立する。
 だが、その芦田政権も昭和電工疑獄によって10月に退陣し、保守の吉田茂がふたたび政権の座につくのである。
 そのころから、アメリカの世界戦略は共産主義封じ込め路線に移行する。日本でもGHQの政策は右旋回しはじめる。いわゆる逆コースである。
 政治の世界は激しく揺れ動き、経済も光が見いだせず、人びとはその日暮らしを余儀なくされていた。
 そうしたなか、美濃部達吉はひたすら新憲法に向き合っていた。そして、1年あまりのあいだに、じつに新憲法に関する4冊の本を出版するのである。
 その4冊とは、『新憲法概論』(1947年4月、有斐閣)、『新憲法逐条解説』(同7月、日本評論社)、『新憲法の基本原理』(同10月、国立書院)、『日本国憲法原論』(1948年4月、有斐閣)である。
 著述のかたわら、公職適否審査委員会委員長や全国選挙管理委員会委員長も務めている。必ずしも暇とはいえない。忙しいなかで猛烈な執筆活動をつづけていたのである。
 何がそんなにも達吉を駆り立てていたのだろう。書きたいことは山ほどあるのに、時間はさほど残されていないという思いが強かったのかもしれない。
 それがどんな本だったかをざっと見ておく。
『新憲法概論』は、戦後の統治システムを論じた著作である。新憲法のもとで、天皇、国民、国会、内閣、司法、地方自治の政治的仕組みがどのように変わったかを説明している。
『新憲法逐条』は、前文から全11章103条におよぶ日本国憲法の逐条解説である。
『新憲法の基本原理』では、日本国憲法を支える統治思想が論じられる。新憲法を支えるのは、民定憲法主義、国民主権主義、永久平和主義、自由平等主義、三権分立主義、地方自治主義の思想だ、と達吉はいう。
 そして、最後に『日本国憲法原論』がくる。これは前の3冊を集大成したものだ。それだけではない。
ウォルター・バジョットの『イギリス国制論』のひそみにならっていうと、それは美濃部流の『日本国制論』ではなかったか。つまり、ここで達吉は、日本国憲法にもとづく戦後日本の国のかたちを描こうとしたのである。
 達吉はいう。
 ポツダム宣言の受諾により、日本は明治以後新たに獲得した領土をすべて失った。しかし、新憲法により国民は永久不可侵の普遍的な権利として、基本的人権を保障されることになった。各個人の人格が最大限尊重されることも定められた。国民の自由と平等を基本とする体制が生まれた。
 明治憲法では、天皇は国家最高の統治者であり、統治のすべての権能は天皇に集中していた。それが新憲法では大きく変わった。

〈新憲法においては、これに反して統治のすべての権能は国民に属することをその基本主義としている。立法権は国会に行政権は内閣に司法権は裁判所に属することを原則とするのであるが、それらはいずれも国民の代表機関として国民の名においてその権能を行うのであって、その源泉は国民に発するものとせられている。〉

 天皇の大権が取り除かれたのは、「天皇を擁する権臣が天皇の名を持って専権を擅(ほしいまま)にし、その結果は日本を無謀の戦争に導入し、ついに歴史上未曾有(みぞう)の悲惨なる敗北に陥いらせしめたことに鑑み、将来かかる惨禍を再びせざらしむるため」だ。
 こうして、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴とされることになった。
 これはイギリス国王の場合と同じだと達吉はいい、はじめて「象徴」という概念を認めることになった。

〈「象徴」とは……天皇のご一身が国家の現れであり、国民の全体が一体として結合している姿であるという趣意を示すものである。国家はもちろん思想上に国民の全体を統合せられたものとして思考するというのにとどまるのであるが、かかる思想上の無形の存在を形体的に表現したものは即ち天皇の御一身で、国民は天皇を国家の姿として国民統合の現れとして仰ぎ見るべきことが要求せられるのである。……国家の尊厳が天皇の御一身により表現せられ、国民は何人もその尊厳を冒瀆すべからざる義務を負うのである。〉

 これが天皇中心主義者の達吉が「象徴」という概念に託した思いだった。敗戦によって、天皇は滅んだわけではない。国民の総意にもとづき、「象徴」として、以前にまして仰ぎ見られる存在となったのだ。
 最高統治権者としての天皇の地位は失われた。だが、天皇には象徴として、さまざまな国事行為を行う権能が残されており、しかもその地位は血統によって世襲される。
 その意味で、天皇は「依然君主たる地位を保有したもうものと見るべく、新憲法が国民主権主義を基調となせるにかかわらず、日本の政体は依然君主政であり共和政に転じたものと見るべきではない」。
 天皇の神格性は否定されたが、天皇が国家の象徴として、尊栄の地位にあることは何ら変わらない。「天皇の御一身は国家の象徴であり、国民は崇敬の念を持って仰ぎたてまつるべきことは、国民としての当然の義務でなければならぬ」と、達吉は何度も強調する。
 その天皇のもとで、日本は戦争を放棄し、軍備を撤廃することを戦後の国是とするのだ。
 日本が戦争を放棄するのは、世界の平和を希求するためである。日本はいかなる場合にも絶対に戦争を発動することはない。国際紛争を解決する手段としての武力を日本はもたない。武力によって相手国を威嚇したり、また相手国の領域を占領したりすることはない。
 民主主義を支えるのは国権の最高機関としての国会である。国会は国民の公選した議員によって構成され、国民の総意を代表する合議機関として、立法をおこなう。「国会が国政を行うのは即ち国民が国政を行うのにほかならない」と達吉はいう。
 達吉は議会が国民の代表機関であることは法律によって定められているとし、議会の重要性をこう指摘する。

〈議会が国民を代表すということは決して既に成立している国民の意思が議会により発表せらるることの意味ではなく、議会の発表する意思が法律上に国民の総意として認めらるることを意味する。国民はそれ自身に意思能力を有するものではなく、議会制度の設あるによって始めて国法上に意思の主体たるのである。〉

 議会こそ国民の意思を表す機関である。
 新憲法においては、新たな法律は天皇によって裁可されるのではなく、国会の議決のみによって確定され、天皇はそれを認証し公布する権能を有するにすぎない。その意味で、国会は唯一の立法機関である。
 条約についても、その締結権は内閣にあるとしても、事後に国会の承認を得なければならない。
また、内閣総理大臣は国会の指名によるところであり、衆議院の内閣不信任案決議により、内閣は総辞職を迫られることになっている。
 このように新憲法における国会の役割はきわめて大きいが、それゆえに国民が国会議員を選ぶ選挙が重要な意味を持っている。
 達吉にとっては、新憲法に規定される象徴天皇制と平和主義、民主主義こそが、戦後日本の国制を支える要にほかならなかった。
 この構造が維持されれば、たとえどのような荒波が襲おうと、この国は何とかやっていけるのではないか。
 新憲法の解釈をひととおり終えたあとも、達吉は仕事の手を休めることはなかった。選挙法と行政法についても書きなおさなければならなかった。
 体調はすぐれない。
 そして、1948年(昭和23年)3月、「法律時報」のために「新憲法に於ける行政と司法」という論考を執筆しているときに発作を起こし、倒れる。
 にもかかわらず、重態に陥る寸前まで筆を取りつづける。
『選挙法詳説』と『行政法序論』が遺著となった。
 亡くなったのは5月23日のことである。享年75歳。
 5月29日、東京大学法学部の25番教室で、国家学会、法学協会主催の告別追悼会がおこなわれた。
 そのとき、息子の亮吉はこう語っている。

〈父は、もともと大変丈夫であったようである。「さけの頭」とか「ぼら」とかいうあだ名が残っているように、大変なやせっぽちであった。目方も12貫[45キロ]そこそこだったろう。それにもかかわらず病気らしい病気にかかったことがない。第一高等中学校の時腸チフスで死にかけたという話は聞いているけれども、病床に横たわる父の記憶はない。いくら健康でも戦争中の栄養不足は相当こたえたらしい。終戦後は身体の衰弱が相当目立つようになった。「心筋梗塞」とかで、風呂に入った後など、息使いがずいぶん苦しそうだった。それに、身体の方々がかゆくってたまらなかったらしい。軽い尿毒症にかかっていたようである。〉

 さらに亮吉は父の遺著となった『行政法序論』の序文にこう記している。

〈5月15日の夜までは、全く同じ状態で生活を続けてきた。ただその日には夜食を取らず、珍しく酒があったのに好きな晩酌の盃も傾けず、早く寝てしまったことが多少の心配の種になっただけであった。そして、翌日一日平静に寝た後、21日の夜には尿毒症のため全く意識を失い、その後は昏々と眠り続け、23日の夜息を引き取ったのである。父は、最後まで死期の迫ったことも自覚せず、死の苦しみも味わなかったように思われる。〉

 最後の最後まで仕事をやりつづけた末の大往生だった。
 達吉が常連執筆者だった「国家学会雑誌」の7月号には、「美濃部先生の追憶」という特集が組まれた。
 そのなかの一文で、弟子の宮沢俊義は達吉の業績を紹介しながら、かれの実証的な態度と民主主義的信念を讃えている。軍部や右翼陣営から攻撃され、非難囂々(ごうごう)の世論を前にしても、先生は少しも動ぜず、敢然としてその所信を主張しつづけた。
 敗戦はそれまで封じられていた学問的言論の自由をもたらし、「先生の学問的活動は、堰(せき)を切られた水のような勢いで、さかんになり」というのは、まさに宮沢の実感だったろう。

〈齢(よわい)古稀を超えた先生の近年のかくのごとき活動は、まことに、超人的であります。かような超人的な活動にもとづく過労が、結局、先生のご逝去を早めることになりましたことは、まことに残念でありますが、しかし、最後まで学問研究をつづけ、文字どおり倒れてのちやまれましたことは、あのように学問を熱愛された先生としては、本望だとお考えになったのではないでしょうか。〉

 明治憲法は57年で命を終えた。しかし、戦後憲法は現在の2023年(令和5年)にいたるまで77年の命脈を保っている。
 達吉はこのふたつの憲法のあいだで闘いつづけたのである。

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