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ブローデルをめぐって(7)──商品世界ファイル(15) [商品世界ファイル]

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 近世社会の特徴のひとつとして挙げられるのは、市場経済の広がりと、商人による商圏の拡大といってよいでしょう。
 ブローデルはこんなふうに書いています。
 たとえば、17世紀にフィレンツェとリヴォルノに本拠地を構えていたサミニアーティ商会は、地中海全域だけでなく、リヨン、アムステルダム、ロンドンにまで取引を広げ、香辛料や胡椒(こしょう)、絹などの特権的商品だけでなく、手形や金銭、貴金属も扱っていました。
 16世紀にアウクスブルクに拠点をおいていたフッガー家やヴェルザー家は、ハンガリー、ボヘミア、アルプスに鉱山事業を展開する巨大な商人で、早い時期からスペインの王室と結びついていました。
 そのような大規模な商人でなくても、たとえばドイツのニュルンベルクなどにも多くの商人がいて、中東、アフリカ、インド、アメリカとの商業活動を担っていました。しかし、アウクスブルクとニュルンベルクの経済は1570年に破綻し、その後はライプツィヒが商業の中心地となっていきます。
 ヨーロッパの都市の特徴は、都市が地方空間を握っているだけではなく、国際空間をも掌握していることでした。15世紀から17世紀までの花形商品は胡椒ですが、それは次第に後退し、それに代わって、15世紀から18世紀にかけては、砂糖が急速なリズムで消費空間を広げていきます。
 砂糖はほとんどサトウキビが原料です。ニューギニアを原産とするサトウキビは、インドからはじまって、地中海、大西洋、さらにアメリカへと移植されていきました。15世紀と16世紀、砂糖はまだ贅沢品でしたが、17世紀、18世紀になるとアメリカからヨーロッパに砂糖が大量に輸入されるようになります。18世紀になると、ヨーロッパでは砂糖はもはや珍しい商品ではなくなり、食料品店や菓子店のどこにでもある商品になっていました。
 もうひとつの世界商品が貴金属です。
 金や銀を産出するのは辺鄙な地でした。ブローデルは、金の産出地として、アジアではボルネオ、スマトラ、海南島、チベット、セレベスなどの名前を挙げています。アフリカではスーダンが金の産地として知られていました。中部ヨーロッパには銀鉱がありました。
 新大陸ではインディオが砂金採集のため強制労働にかりだされていました。銀を産出した鉱山としては、ボリビアのポトシが有名です。ブラジルでもまだこの時代、砂金が出ていました。カリフォルニアにゴールドラッシュが巻き起こるのは、まだ先の19世紀半ばになってからです。
 貴金属を受け入れ、それを貨幣としてさかんに流通させたのは、ヨーロッパの国ぐにでした。いっぽう、それを貯蔵したのが、インドと中国です。中国は金に貨幣の役割を与えず、もっぱら銀を貨幣としました。
 ここからは、当時の世界貿易の流れが想像できます。中国の絹、陶磁器、茶、インドの高級綿織物、宝石、真珠はヨーロッパに流れ、中国とインドには、その代わりヨーロッパから新大陸産の貴金属がもたらされたのです。
 ヨーロッパでは貴金属は主に貨幣として利用されています。しかし、ヨーロッパはアジアからいつまでも木綿製品や絹製品、香辛料、薬種、茶などを、一方的に輸入しているわけにはいきませんでした。そこで、レヴァントには毛織物を、中国にはインドの木綿とアヘンを送り、わずかながらも収支のバランスをとろうとしました。だが、それだけではとても間にあいません。ヨーロッパ全域にわたり、鉱業開発と工業化が推進されたのも、国際収支を改善しようとする努力の一環だった、とブローデルはみています。
 16世紀以前からヨーロッパの国は重商主義政策をとっていました。その狙いは、貴金属の流出を防ぐことにありましたが、それ以上に強く望まれたのは貿易収支を黒字にすることでした。当時は、国家の富は貨幣の備蓄にほかならないという考え方が根強かったといえるでしょう。
 たしかに貿易収支の慢性的赤字は、国の経済を構造的に悪化させます。実際、インドでは1760年以降、中国では1820年ないし1840年以降、慢性的な貿易赤字が生じるようになっていました。
 いつの間に、インドや中国がヨーロッパにたいし貿易赤字になっていたのでしょう。16世紀以降、ヨーロッパ人はアジアに進出しますが、それはただちに古くからの貿易構造を変えたわけではありません。香辛料をはじめとするアジアの商品は、銀によってしか手に入りませんでした。
 しかし、ヨーロッパの勢力は、次第にアジア内部にはいりこんでいきます。当初、インドの沿岸交易を担ったのはポルトガルです。その後、オランダ人はジャワ島に入植し、バタヴィアを建設しました。アジアはまだその時点では、貿易面でヨーロッパにたいし圧倒的な優位を保っていました。
 インドの貿易収支は、1730年ごろから悪化しはじめます。ムガル帝国は崩壊しつつあり、経済もまた弱体化していました。1757年のプラッシーの戦いにより、イギリス東インド会社はベンガルを征服、金銀宝石を本国に持ち帰ります。インドは、そのとき以後、大生産・商業国という威信ある地位から、イギリス製品の買い手で原料の供給者という植民地の地位に転落していくことになります。
 その運命はつづいて中国をも襲います。中国ではヨーロッパに輸出するため、茶の栽培農地を広げたため、綿が不足するようになっていました。そこで、綿をインドから輸入するようになります。1780年以降は、インド産のアヘンがはいってくるようになり、1820年ごろからは、貿易収支が赤字になっていきます。清朝の崩壊がはじまろうとしていました。
 前に、近世の特徴は市場経済の広がりに求められると書きました。しかし、近代が近づくにつれ、市場経済をさらに発展させたのはヨーロッパで、それまで優位を保っていたアジアはむしろ後退していきます。いったい何があったのでしょうか。
 ブローデルはそこに資本の働きをとらえています。資本が経済を動かす時代がはじまろうとしていました。
 資本とは商品を動かしたり、つくりだしたりすることのできるおカネの力にほかなりません。それはその途中に耐久的な資本財(商店や作業場、道具、船など)をつくりだします。これは固定資本、すなわち商品をつくるための商品ともいえます。そして、何よりも重要なのは、資本が雇用(マルクス流にいえば商品化された労働力)を生みだしたことです。
 昔の経済は固定資本の損耗が激しく、それが経済成長の阻害要因となっていました。家屋にしても、船舶、橋、灌漑用水路、あるいは道具や機械にしても、けっして長持ちしませんでした。火災もしばしば村や都市に大きな損害を与えています。経済技術構造がわずかな資本形成しか許さないとすれば、一昔前の資本主義が、大部分の投資を流通の領域に向けていたことはやむを得なかったのです。
 とはいえ、16世紀末のイタリアのように、通貨の過剰に悩む地域もありました。カネは土地の購入や、田舎の別荘、華麗な建造物に向けられていました。華麗な文化の時代は、「イタリアが、その経済が消費することのできる資本財と金銭の量を超えて、もちすぎてしまった」ことの結果だった、とブローデルはいいます。あまったカネは消尽するほかありません。社会の脆弱さと利潤の低さが、資本主義の発達、ないし全面化をはばんでいました。

 それでも、15世紀から18世紀にかけて、資本は流通から生産の領域に進出していきます。それが本格化するのは、19世紀以降の近代になってからですが、飛躍に向けての助走はすでにはじまっています。
 われわれは近世のイメージとして、都市は消費で、農村は生産という構図を思い浮かべます。すると、資本が流通から生産の領域に進出するといった場合、生産の拠点である農村を資本が包摂すると考えるかもしれません。
 しかし、それはそう簡単ではありませんでした。
 商人が土地を買っても、その目的は貴族になるためでした。当時はまだ荘園制が保たれており、土地が資本主義的に利用されることはまずありません。しかも、土地は簡単には売り買いできませんでした。
 農村は人口過密で、つねに窮乏と飢餓のぎりぎりの線上にあり、人間が多すぎることが生産性の向上を妨げていました。農民は生きていくのがやっとで、しかも不作の試練に耐え、さまざまな賦課租を払うために、休みなく働くことを強いられていたのです。
 農民は世界のどこでも、貧窮と忍耐、不屈さのなかで生きていました。農民は生き延びるために、多くの副業をいとなんでいました。鉱夫や水夫、石切、行商、運送、日雇いなどの仕事にもついています。
 そして、農民といっても、その状況は国や地域によってさまざまで、その身分も奴隷、農奴、自由保有農民、折半小作人、小作人とさまざまでした。
 フランスでは13世紀に農奴解放の動きが広がり、15世紀に農民は土地に縛られなくなります。イギリスでは18世紀に囲い込み運動が発生し、農民は次第に都市にやってくるようになります。
 とはいえ、荘園制は長くつづいたのです。農村には貴族の領地が広がっており、農民は領主に賦課租を収めねばなりませんでした。賦課租は、金銭、現物、労働(賦役)から成り立っていましたが、賦役は次第に金納に変わっていきます。
 近世になると、貴族は領主権によって、さまざまな税を徴収し、時に土地を集中化し、折半小作地をつくることにも成功しています。農民は農奴でなくなり、自由に土地を離れることができるようになりますが、ほとんどの農民は、それまでどおり、領主のもつ土地を耕しつづけていました。
 農民の生活は「生き延び、生殖し、みずからの務めを果たしつづけるだけ」のことであり、これにたいし、「つねに飢餓のおそれにさらされている世界において、領主たちは日のあたる側にいた」と、ブローデルは書いています。
 この農村世界に資本主義はどのように入りこむことができたのでしょう。そこはまだ領主や地主が支配する世界でした。
 資本主義が農村にはいるケースはまだまれです。たとえばジェノヴァの事業家は15世紀にシチリアでサトウキビの栽培をはじめています。ボルドーやブルゴーニュでは、17世紀から大規模なぶどう畑が広がるようになります。その畑を所有していたのは、都市の高等法院や僧院でした。
 いっぽう、東ヨーロッパでは、16世紀に「第2次農奴制」ともいえる揺り戻しが発生します。農民はふたたび土地に結びつけられ、自由に移動できず、域外結婚もできなくなります。物納賦課と労力奉仕が強化されました。
 じつはこの時代、東ヨーロッパは、西ヨーロッパの原料「植民地」になろうとしていたのです。東ヨーロッパで農民への負担が大きくなったのは、領主たちが、西ヨーロッパの大量需給にこたえようとしたためです。
 農村はもはや自給自足の共同体ではなくなっていました。というのも領主たちが、領地の穀物や木材、家畜などを西ヨーロッパに積極的に売りに出していたからです。こうした農奴制の再現は、商業資本主義の影響によるものです。大地主はアムステルダムの商業資本主義の手先と化していました。
 ポーランドの領主は、グダニスクの商人から支払いを受け、グダニスクの商人は、オランダ商人から前払いを受けるという関係にありました。つまり、荘園領主は資本のシステムに組みこまれていたわけです。とはいえ、それは資本が直接、生産にかかわっているわけではありませんでした。資本はあくまでも生産の外側にいて、その成果を待ち受けています。
 それは「新大陸」のアメリカでも同じでした。アメリカでは多くの地域や島で、プランテーションがつくられていました。そこで商品の生産を支えていたのは、アフリカから連れてこられた黒人奴隷でした。
 ブラジル東北部にサトウキビ畑が開かれたのは、1550年ごろのことです。農場には農園主の邸宅と奴隷小屋、砂糖圧搾場が付設されていました。君臨していたのは農園主ですが、最終的に砂糖の相場を握っていたのは、リスボンの卸売商人です。ヨーロッパの商業が、新大陸での生産と、旧大陸での販売を支配していたといえるでしょう。
 カリブ海にまたがるアンティル諸島(キューバやハイチ)でサトウキビの栽培がはじまったのは17世紀半ばのことです。イギリス領ジャマイカでも18世紀半ばからサトウキビ農園がつくられるようになりました。
 当時の記録によると、砂糖やコーヒー、藍、綿など植民地の産物はヨーロッパで高く売れたものの、コストがかかり、プランターにとっては、さほどもうからなかったといいます。ヨーロッパの大商人は前払いによって、プランターをしばり、植民地の産物を安く買いたたいていました。
 イギリスの先進的農村で荘園が消滅し、近代的な土地所有関係が生まれるのは18世紀後半になってからです。貴族のもつ農村の地所は資本主義的借地農に賃貸され、賃金労働者が雇用されるようになります。
 パリ周辺では、都市住民、すなわちブルジョアジーが、農民と貴族から土地を購入していました。しかし、こうした地所を経営していたのは地主ではなく、大借地農です。大借地農こそが、企業者であると同時に「村落世界の真の支配者」だった、とブローデルは書いています。
 ヴェネツィアは15世紀はじめに内陸部に領土を広げ、農業国に変貌しました。とりわけ17世紀をすぎると、ヴェネツィアの財閥貴族は商業を見捨てて、農業経営の方向に舵を切ります。財閥貴族の所有する土地では、管理官の監督のもと、一種の農業マニュファクチャーが運営され、小麦、トウモロコシ、麻が栽培され、牛と羊が飼育されていました。
 19世紀はじめ、ローマ近郊の広大な農地には、あらゆる地方からの労働者が集められていました。農作業は請負制で、多くの請負師の監督のもとでおこなわれました。労働者に食料を提供するのは農園主の役割でした。
 19世紀のはじめにローマ周辺の土地を所有していたのは、領主たちと宗教団体です。しかし、どちらも土地の経営に手をだすことはなく、実際に農地を預かっていたのは大借地農です。その土地はさらに小借地農に下請けにだされていました。そこには、あらゆる地方から労働者が集められ、請負師の監督のもとで農作業がおこなわれていました。「これは資本主義の明らかな闖入である」と、ブローデルは書いています。
 フィレンツェの財力によって、トスカーナの田園も大きく変貌しました。零細農民の農地は山間部に残るのみで、平野と丘の斜面はポデーレと呼ばれる折半小作地となり、そこでの収入は、地主と小作人によって折半されました。地主は農民の家の近くに別荘を所有しています。折半小作人は賃金労働者ではありません。オリーブオイルやワインなど、収益の上がる産品をつくることを余儀なくされていました。こうしてトスカーナでも、農業は次第に資本主義的な性格を帯びていくことになります。
 しかし、ヨーロッパでも、こうした先進地域は例外でした。南イタリアやシチリアでは、貴族がますます権力を強め、再封建化を進めています。遅れていたのはアラゴンやスペイン南部、スコットランドやアイルランドも同じです。
 17世紀後半から18世紀前半にかけ、フランスの領主貴族は地代を値上げしたり、境界を動かしたり、共有地を分割したりといった強硬策をとるようになります。これは伝統への復帰というより、資本主義の誘惑のもとで、かれらが大きな利潤を求めたためです。しかし、フランスではイギリスのように土地の資本主義的利用が進んでおらず、そのため、18世紀後半になると、こうした領主の反動にたいする異議申し立てが生じ、それが旧体制打破というスローガンとなって、大革命へとつながっていくことになります。

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