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ブローデルをめぐって(8)──商品世界ファイル(16) [商品世界ファイル]

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 近世のヨーロッパでは産業は小規模なもので、農業と一体化していました。産業がとつぜん動きはじめるのは、農作業のできない冬になってからです。小麦の刈り取りなどがおこなわれる夏は、農業が忙しくなる季節です。
 農民が産業に乗りだすのは貧しさからでした。領地がせまく、農業さえままならぬイタリアのルッカは、絹織物に活路を見いだしました。山地の住民は、土地の貧しさを補うために、麻加工の仕事をはじめました。スコットランド高地のやせた耕地で生きていけない農民は、鉱夫や織工になって糊口をしのぎました。
 中部ヨーロッパでは、15世紀、鉱山の活動に大きな変化が生じました。フッガー家などの富裕な商人が鉱山をみずからの手に握ったのです。こうしてそれまでの自由な労働者は賃金労働者となったのです。資本投下は、生産量のめざましい増加をもたらしました。
 しかし、フッガー家といえども単独で鉱山を引き受けるには、財力が不足していました。鉱山の背後にはつねに王侯がいて、国家はつねに鉱山事業に関与していました。それは貨幣の鋳造と関係しています。
 16世紀にはいくつもの有名な鉱山が放棄されて、国家の手に渡りました。アメリカでの鉱山開発が、ヨーロッパの鉱山に大きな打撃を与えたのです。商人たちは鉱山の直接経営から手を引くようになります。それでも製品の販売や周辺の事業には引きつづきかかわっていました。
 鉱山には労働力の集中を必要とします。すでに労働者の階層化が進行し、中間管理職も生まれています。労働者の頂点には商人の代理人である職場長、そしてその下に職工長という体制がつくられていました。
 16世紀中葉以降、ヨーロッパは次第に鉱山開発から後退し、金属原料を国外に依存するようになります。
 とりわけアメリカ大陸で、鉱山の直接開発がなされました。有名なのがボリビアのポトシ銀山です。山で採掘された銀鉱石は、ふもとで粉砕され、アマルガム法によって精練されました。大きな利益をふところにするのは、商業ネットワークを握っている大商人たちです。
 大規模な設備を必要とする岩塩鉱は、大商人によって運営されていましたが、塩田は小企業による経営が一般的でした。鉄についても、鉱山と高炉、製鉄所は別々に運営されており、どれもさほど大きな規模ではありませんでした。鉄の大規模生産が可能になるのは18世紀になってからです。
 石炭の採掘も小規模で、露天掘りが中心で、表層部の石炭を取るだけでした。ところが18世紀になると、状況が一変します。石炭の需要が一気に高まったのです。すると、本式の採掘が求められ、大資本が石炭に関心を示すようになりました。
 産業活動が活発化するのは、18世紀にはいってからです。それまでイタリアとネーデルラントにかぎられていた産業が、ヨーロッパ全体に広がっていきます。
 そのころの産業の主力は衣服と織物です。衣服は身を包むもので、なくてはならないものでした。カーテンや壁掛け、壁布などの織物は奢侈品で、民衆が織物を買えるようになるのは、18世紀に綿製品が登場してからです。
 13世紀、14世紀には、イタリアの羊毛製品がもてはやされました。その後、16世紀にイタリアが最後の経済的繁栄を謳歌できたのは、絹のおかげでした。絹はやがてスイス、ドイツ、オランダ、イギリス、そしてとりわけフランスのリヨンへと広がっていきます。17世紀にはイギリスの上質な毛織物が登場します。
 18世紀には木綿が新しい勝者となります。インドの更紗がヨーロッパを埋め尽くしました。そこで、ヨーロッパはインドを模倣し、木綿を織り、捺染する作業に挑戦することになります。18世紀後半には、さまざまな加工技法によって、絹とウールの混紡、麻と綿の混紡といった新しい織物が登場します。イギリスの産業革命では、木綿が大きな役割を果たすことになります。
 資本主義を牽引したのは都市の商人ですが、かれらも職人の同業組合を無視するわけにいきませんでした。しかし、次第に大組合は大商人の手に移り、ついに問屋制度が生まれてきます。
 商人が職人に原料と賃金の一部を前貸しし、生産者に仕事を発注するのが問屋制です。同業組合は徐々に崩壊し、商人のもとで、職人どうしが協同作業をする体制が生まれます。
 商人が直接、生産を握っていない地域も残っていました。イギリスの地方の羊毛加工、フランス南部ラングドッグの釘製造、フランス北部トロワの麻加工などです。こうした自由生産地域の存在は、近くに市場や大市があることが前提になっていました。フランス南部の山間部、ジェヴォーダンでは、冬場になると農民たちが織機の前に座って、織物を仕上げ、それを近くの市に売りにいくのが通例となっていました。
 前産業時代の産業は、家内手工業と問屋制が大部分ですが、そこにマニュファクチュアと工場が姿をあらわします。マニュファクチュアを手工業によるもの、工場を機械設備にもとづくものとするのが一般的な区別ですが、その区別はあいまいです。マニュファクチュアの規模にしても、ごく少人数のものから、大規模なものまでさまざまでした。
 いずれにせよ、問屋制度の行きつく先がマニュファクチュアで、最終的な仕上げ作業がおこなわれる場所がマニュファクチュアだったと理解することができます。
 最終工程で、比較的大きな設備を必要としたのは、仕上げ作業がもっともむずかしかったからです。しかし、それ以上にマニュファクチュアの最終目的は、最終的な製品を手中に収めること、さらには需要に合わせて生産を調整することだったといえるでしょう。
 マニュファクチュアによってつくられる製品は、麻レースから革製品、陶磁器、毛織物、石鹸製造、鉄、ろうそく、絹製品、瓦、紙、板ガラス、ビロード、綿布にいたるまで、じつに多種多様でした。さらにいうと、マニュファクチュアは技術的進歩のモデルでもありました。国家は産業を保護するために、先進的なマニュファクチュアを支援しました。
 17世紀、18世紀にかけて、マニュファクチュアでは資本の規模が大きくなっていきます。印刷、製糖、ビール醸造、毛織物のマニュファクチュアでも、高価な設備が必要となり、それなりの投資をしなくてはなりませんでした。
 常に資金難がついてまわります。社会状況の悪化や、投資の失敗などにより、倒産も生じました。もちろん、危機を乗り切った勅許マニュファクチュアもあります。しかし、伝統的なマニュファクチュアの株式は、18世紀が進むにつれて、事業家ではなく「年金生活者」の貴族が所有するようになります。
 利潤率の変動は激しく、予想を許しませんでした。工業生産のカーブは短期間に激しく上下し、長期的にみても、はじめ上昇したカーブが下降していきます。ひとつの産業の衰退は、他の産業の上昇と並行しています。
 15世紀から18世紀にかけては、いかなる産業も、いつ急激に落ちこむかもしれない、きわめてあやうい基盤のうえに成り立っていた、とブローデルは記しています。
 近世の商品世界について述べるには、そのころの輸送手段にも触れないわけにはいきません。
 輸送と生産のつながりはだいじです。18世紀には輸送のスピードが上昇し、輸送量が格段に増えていきます。
 この時代、すべての陸上輸送は、宿駅ごとの旅籠に依存していました。旅籠は商取引の中心であり、同時に運送業の取次も兼ねていました。
 民間業者と公共運送業とのあいだには競争がありました。17世紀にはドイツとイタリアを結ぶ主要幹線道路に大規模な運送商会が出現します。その本拠地はスイスと南ドイツに置かれていました。アムステルダムやロンドンなどにも、大規模な運送業者がいたことはいうまでもありません。
 河川輸送には、小舟や大型船、筏などが用いられていました。河川輸送の欠陥はスピードの遅さです。しかも、それは増水や風、凍結など川の気まぐれに左右されました。
 ほかにもさまざまな障害がありました。川のあちこちに無数の通行税徴収所があることもやっかいでした。運河は合理的な解決法でしたが、閘門の多さが船の動きを遅くします。さらに気性の荒い水運業者をどう扱うかもめんどうな問題でした。
 フランスやドイツにくらべると、イギリスでは輸送はよほど自由でした。石炭は海上輸送で課税されるだけで、道路や河川の輸送では何の障壁もありません。とはいえ輸送費はけっしてばかにならず、ニューカッスル炭はロンドンでは現地の5倍の価格になりました。
 道路や河川にくらべ、海上輸送はより大規模で、その投資も巨額なものとなりました。中世ヨーロッパでは、船は数人の仲間のもちものでした。かれらは仲間で操舵手や船頭を雇い、自分たちの商品を積みこんで目的地に向かい、そこで商取引をおこないます。
 15世紀末には、すでに大型貨物船が登場しています。船には一部の資金を出資する持ち分保有者や、食糧や道具類を供給する現物出資者、さらには抜け目のない投機家もかかわっていました。
 海上輸送の発展につれて、造船会社や保険会社も誕生します。18世紀には、遠洋航海に多くの資本が注ぎこまれ、国もその事業にかかわりました。
 保険で保護されているとはいえ、航海に危険はつきものです。遠距離交易は成功すれば大きな利益が舞いこみます。これにたいし、近距離輸送は競争が激しいために運賃が抑えられ、たいしてもうかりませんでした。
 18世紀以降になると、海運業では、固定資本の割合が大きくなり、人間にたいする支出は減っていきます。造船はますます複雑なものとなり、船価は上昇しました。船長や航海士、操舵手の技倆もあがっていきます。いっぽうトン数あたりの乗組員の数は減少していきました。
 概していうと、18世紀までの段階では、資本主義はまだ生産部門に仮住まいしているにすぎなかった、とブローデルは論じています。当時の資本家である大商人は、まだそれほど生産のなかに飛びこんではいなかったのです。資本が積極的に生産の領域を支配するのは産業革命以降です。

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