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ブローデルをめぐって(9)──商品世界ファイル(17) [商品世界ファイル]

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 15世紀から18世紀にかけては、商業活動が活発になった時代です。都市には大商人がいて、その下に行商人や小売商人、雑貨商、穀物商などがいました。さらに、その周辺には外交員、仲買人、水夫、人足、仲仕、高利貸しなどがたむろっています。
 大商人は卸売商兼金融業者として、大きな事業を手がけています。全世界を相手に富を築く大商人は、その下の商人たちとはまったく別の階級に属する上流人士でした。
 資本はまだ生産の領域を支配していたわけではありません。プランテーションやマニュファクチュアはありましたが、資本は直接、事業を起こすのはまれで、いわば生産の領域を遠巻きにして、できあがった商品を市場に運ぶことによって利益を得ていました。資本主義への助走はすでにはじまっていますが、資本が商品(資本財および労働力)によって商品をつくりだす時代はまだ到来していません。
 そのことは金融についてもいえます。金持ちは資金提供者として教皇庁や王侯、商人、船主にカネを貸し付けていました。17世紀にオランダでは資金を貸し付ける銀行も誕生します。しかし、全体として銀行は未発達で、おカネを預けたり振り替えたりするようなものはあっても、表だって資金を貸し付けてくれる金融機関はなかったのです。
 それでも、商業が盛んになると、自然におカネが集まってくるような場所ができてきます。それが13世紀から15世紀にかけてのフィレンツェ、16世紀のジェノヴァ、そして17世紀のアムステルダムでした。
 近世においては、遠隔地交易に多くの資金が投入されました。もちろん、近隣の小麦、羊毛、塩などの交易も盛んになっていました。しかし、遠隔地交易に乗り出す数少ない業者が、アメリカとアジアを股にかけ、絹や胡椒、香辛料、タバコ、コーヒー、砂糖、銀の延べ棒などを扱って、大きな利益を得ていたことは確かです。実際、商業ブルジョワジーは、遠隔地交易のなかから生まれてきます。
 それでも、この時代はまだ金融システムがじゅうぶんに確立されていたとはいえません。金融システムがしっかりしてくるのは1694年にイギリスでイングランド銀行が設立されてからです。
 貨幣は金銀の複本位制、あるいは金銀銅の三本位制がとられていました。16世紀半ばにアメリカから銀が大量に流入すると、金銀の比率は大きく変動します。ここでも優位な立場にあるのは大商人で、かれらは「黒い貨幣」(銅貨)と呼ばれていた小銭をすぐに流通に戻し、手元に価値の高い貨幣だけをとどめました。金貸しは貸し付けを銅貨でおこない、銀貨で返却を求めていました。
 経済のかなめとなるのがインフレーションです。貨幣量の増加によりヨーロッパでは物価が上昇していきます。しかし、賃金は同じ比率では上昇しませんでした。そのため、金持ちはインフレーションで大きな被害をこうむるどころか、大いに潤っていました。
 この時代、会社と呼ばれるものは、それほど多くありません。会社の起源は9世紀ないし10世紀にさかのぼります。ヴェネツイア人が地中海で一航海のためにだけ「海の結社」をつくったのが最初です。その後、ルッカやシエナ、フィレンツェで商人たちは会社をつくり、亜麻布や毛織物、香辛料、サフランなどを仕入れ、内陸交易をおこないました。
 ドイツではヴェルザー家とフッガー家が大きな勢力を誇っていました。しかし、16世紀になると、それまでの同族会社に代わって、合資会社がヨーロッパ全域に広がっていきます。合資会社では、出資者が経営にかかわるものの、自分たちの出資分にしか責任を負わないで済むというメリットがありました。
 そして、いよいよ最後に株式会社が登場します。出資者は資本の持ち分を所有し、会社の上げる利益を株式の持ち分に応じて得ることができました。イギリスでは16世紀にモスクワ会社が誕生しますが、これは株式会社です。それ以前からヴェネツィアやジェノヴァでも株式会社はあったといいます。
 しかし、特許大商業会社を別とすれば、株式会社が急速に普及することはありませんでした。株主についても、どこかうさんくさい感じをまぬかれなかったのです。それでも18世紀半ばになると、海上保険会社や、運河会社、鉱山、水道会社などで、株式会社の形態が広がっていきます。
 何といっても注目されたのは、特許会社としての株式会社です。この特許会社には、国家から遠隔交易を独り占めする特権が与えられていました。
 最初に国家と会社を結びつけたのはヴェネツィアで、ヴェネツィアには17世紀以前から、こうした会社がありました。アメリカ大陸の発見後、スペインやポルトガルなども、国家と事業との結びつきを強めていきます。オランダとイギリスの大特許会社は、それを引き継いだものといえます。
 特許会社にはかならず国家がからんでいますが、それは国家の財政を補助することが目的でした。特許会社は国家が与えてくれた独占権にたいする見返りを求められます。こうした特許会社の代表が、オランダ、イギリス、フランスで17世紀につくられた東インド会社です。
 特許会社のなかで、東インド会社のみが成功をおさめたのは、「アジア商業がもっぱら奢侈という星の下にあった」からであり、そこにはアジア貿易の困難さにともなう「成功の地理学」があった、とブローデルは述べています。アジアとの交易によって、ヨーロッパには「胡椒、上質の香辛料、絹、インド更紗、中国の金、日本の銀、やがて茶、コーヒー、漆器、磁器」などがもたらされました。
 こうした商業活動の活発化は、社会全体にも影響を与えていきます。
 都市では、ブルジョア階級が誕生するとともに、貴族階級のブルジョア化がみられます。
 18世紀のフランスではブルジョアが人口の8パーセントを占めていた、とブローデルはいいます。しかし、ブルジョアといっても上から下までさまざまで、そのランクはたえず入れ替わりました。上層のブルジョアは2パーセント足らずで、その数は上層の貴族とほぼ同じだったようです。ブルジョアの後裔は、官職を得て法服貴族となりたがりました。
 都市や農村では、しょっちゅう一揆や暴動、騒動が起こっています。農民の反乱が勝利することはありませんでしたが、それでも農民は少しずつ自由を勝ち取っていきます。
 労働者の騒動もありましたが、それが広がることはまれでした。労働者は安い賃金と失業のあいだで、身動きのとれない状態におかれていました。
 資本家の勝手な振る舞いにたいし、労働者がストライキに立ち上がるのはとうぜんでした。リヨンでもアムステルダムでも、その他の産業中心地でも労働者は立ち上がり、粘り強く戦います。しかし、それは広がりをみせません。おそらく、その理由は労働者が別々の同業組合に属していたことと、そして、市当局と結びついている工場主が圧倒的な権力を有していたためです。当時はまだ労働組合の結成は禁止されていました。
 さらに、都市には膨大な下層プロレタリアが存在しました。貧民、乞食、浮浪者の群れです。
 都市でぎりぎりの生活をしている人びとは、雇用状況が悪化すれば、たちまち貧民となります。貧民にはまだ仕事がありますが、乞食や浮浪者となると、物乞いをしたり、残飯をあさったりして生きるのがせいいっぱいです。
 18世紀になると、貧困者の数はさらに増えていきます。農村の囲い込み運動に加え、飢饉などによって、貧民が都市に流れこんできたからです。生き地獄から抜けだすのは容易ではありません。密造・密輸組織にはいったり、山賊、海賊、軍隊、召使い、下僕になったりするのはひとつの脱出口でした。
 商業活動の活発化は都市人口の膨張をもたらしましたが、それはかならずしも社会全体の豊かさとは結びついていなかったのです。
 近世になって変化したのは社会だけではありません。国家も大きく変化しました。国家は単なる統治機構ではなく、重商主義を推進する機関となっていました。重商主義の背景には、国家の富とは金銀の蓄積にほかならないという考え方があります。いずれにせよ、国家が経済を常に意識するようになることが近世の特徴です。
 相次ぐ戦争によって、国家の支出はうなぎのぼりになりました。重商主義は、ある意味、戦争を支える経済戦略として採用されたともいえます。
 とはいえ、この時代、国家の管理している貨幣は貴金属からなり、紙幣はまだつくられていません。行政機構もじゅうぶんに備わっているとはいえませんでした。軍隊そのものも人員不足でした。
 国家のヒエラルキーで重要なのは、王の直臣、貴族、領主、都市、教会でした。国王は、領主のなかから、他にぬきんでて王という位を獲得した存在にすぎません。そのため国王は貴族たちとの縁を切るわけにはいきませんでした。そのころ、都市のブルジョアたちも、公職を買って、貴族に列するようになっていました。
 近世にはいって、国家はヨーロッパ世界を動かす新しい力となっていきます。国家は資本主義を優遇し、それを援助するようになっています。しかし、いっぽうで、資本主義の躍進をさまたげる役割も果たしていた、とブローデルは指摘しています。
 この時代に大きな力をふるっていたのが宗教です。
 イスラム世界は商業文明を根幹としていました。
 絹や米、サトウキビ、紙、綿などの産品、さらにはインド数字(アラビア数字)、失われていたギリシア科学、火薬、羅針盤などの技術は、イスラム世界を介してヨーロッパにもたらされたものです。
 イスラム世界は、ジブラルタルから中国にまでひろがっていました。東インド会社ができるまでは、アジアの貴重な商品はすべてイスラム世界を経て、ヨーロッパに運ばれていたのです。
 キリスト教と資本主義は当初、折り合いが悪く、とりわけ金利については、教会の側から激しい反感がありました。5%ないし6%以上の金利をとる高利貸しは禁止されていました。しかし、それが次第に緩んできて、経済活動にはリスクが伴う以上、ある程度の金利はやむを得ないという解釈が生まれます。
 マックス・ウェーバーは16世紀以降、オランダやイギリスで商業資本主義が隆盛したのは、プロテスタンティズムの精神があったからだと唱えました。これにたいし、ブローデルは、ウェーバーの主張には論拠がないと批判しています。カルヴァンが登場するはるか前から、資本主義への門はとっくに開かれていたというわけです。
 17世紀はじめまで資本主義の中心はローマ・カトリックのイタリアにおかれていました。アメリカ大陸を発見し、アジアへの航路を開いたのも、地中海ヨーロッパの国々(スペインとポルトガル)だったといいます。当時もハンザ同盟都市や、バルト海沿岸の交易はあったものの、北方の経済活動は概して立ち後れていました。
 その後、経済の中心が北方に移動したことは事実です。宗教改革が北方諸国に一体性をもたらし、先進的な南方諸国に対抗する契機を与えたことはたしかでしょう。しかし、プロテスタンティズムの精神が資本主義の隆盛をもたらしたとするウェーバーの論理は牽強付会だ、とブローデルは述べています。
 資本主義は新たな心性をもたらしました。それは、金銭の礼賛、時間の貴重さ、つつましく暮らすことの必要、などですが、もし資本主義的心性の起源を把握したいのなら、「中世のイタリア諸都市におもむき、そこにじっくり腰を据えること」以外にない、とブローデルは書いています。
 いっぽう、アジアは日本を例外として資本主義の発達に遅れをとりました。
 中国ではあまりにも中央集権的な国家が、市場経済と資本主義の発達を抑えてしまったのにたいし、日本では国家からある程度独立した経済的・社会的勢力がつくられており、それが資本主義的発展への余地を残したという見方もあります。しかし、それはあまりに単純な見方です。
 ブローデルは徳川時代の日本において、商人階層が生き残り、資本を蓄積したこと、貨幣や為替手形の流通がおこなわれたこと、職人生産から初期的なマニュファクチュアが形成されたこと、市場経済が発達したこと、鎖国のもとでも中国や朝鮮、オランダとの交易がつづいたことなどを、明治維新後、日本が経済躍進を遂げた理由として挙げています。
 イスラム世界やインドを含め、アジアでは資本主義の発達を妨げる何らかの要因があったことはたしかです。ブローデルの本では、それが何だったのかは、ひとつの大きな課題として残されました。

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