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ブローデルをめぐって(10)──商品世界ファイル(18) [商品世界ファイル]

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 しめくくりとして触れたいのが産業革命についてです。
 ブローデルは、ある推計にもとづいて1960年のドル換算評価で、18世紀における一人当たりGNPを、イギリスが150ないし190(1700年)、アメリカ大陸のイギリス植民地(のちの米国)が250ないし290(1710年)、フランスが170ないし200(1781〜90年)と推計しています。これにたいしインドは160ないし210(1800年)、日本は160(1750年)、中国は228(1800年)という数字をだしています。
 1人あたりGNPに関しては、イギリス、アメリカ(イギリス植民地)、フランスと、インド、中国、日本はさほど変わらなかったことがわかります。それがなぜ19世紀に大きく変化して、西ヨーロッパと米国が優位を占め、インドや中国などが遅れをとっていくのでしょう。そして日本はなぜ急速にその遅れを取り戻していったのでしょうか。
 その謎を、ブローデルは産業革命によって解き明かそうとしています。
 産業革命は1750年代ないし1760年代にイギリスではじまって、現在もつづいている、とブローデルはいいます。さらに、産業革命は単なる経済的過程ではなく、生活のあらゆる分野とつながっているとも書いています。
 それはとつぜんはじまったわけではありません。長い前段階があり、何度も失敗した前史がありました。
 18世紀半ばから後半にかけ、イギリスで農業や商業、産業の面で何が起こっていたのかをみておきましょう。
 まず農業についてみると、18世紀にはまだ農業は機械化されていません。半月形の鎌、長柄の鎌、殻竿(からざお)などが、農具として一般に用いられていました。機械が導入されるまでの農業の進歩は、耕作法や輪作、種の選択、牛馬の利用、収量を増大させる工夫によるものでした。
 こうした農業改良は17世紀半ば以降に定着しました。加えてそのころから、農家は小麦栽培よりも牧畜に力を入れるようになります。それによって肥料がより多く供給され、小麦や大麦の収量が増大するという好循環が生じました。
 1650年から1750年にかけ農業生産性は13%増加し、イギリスは小麦の輸出国になります。また、17世紀末から18世紀はじめにかけて、農村産業も発達しました。イングランドの各州で、レースや帽子、釘、紙などの製造産業が盛んになっていきます。
 農業生産性の増大は、人口増を支えることになります。そのいっぽうで貧しい地方での手工業の発展は予備労働力を生みだしました。
 イギリス農業の特徴は、領主体制が崩壊していたことです。大地主の貴族はみずからの土地を農地経営者(借地農)にゆだね、そこから地代を徴収し、加えて年金で生活することに甘んじていました。農地経営者は、大きな土地を運用し、賃金労働者を雇って、農業をいとなんでいました。
 エンクロージャー(囲い込み)運動がさかんになると共有地は廃止され、大土地所有が進んでいきます。それが農業の効率化へとつながります。
 イギリスでは、農業は早くから全国市場と結びついていました。農業は鉄工業の大きな需要先で、農家は鉄製の農具を数多く利用していました。
 イギリスの人口は1700年には583万5000人、1790年には821万6000人、1850年には1800万人へと増加していきます。その間、出生率は上昇し、死亡率は低下していきました。
農村は豊かになり、都市は膨張し、産業従事者数が増えていきます。都市は活気に満ちていました。そのいっぽうで、貧困と悲惨さも際立っています。
 産業革命を導いたのが技術だったことはまちがいありません。しかし、その技術も生産と結びつき、需要に支えられなければ、ほとんど空振りに終わってしまったでしょう。
その点、織物業ではめざましい進展がありました。杼(ひ)の開発もないがしろにできません。これによって織りのリズムが加速されたからです。
 さらに1765年ごろに発明されたジェニー紡績機、1769年ごろのアークライトの水力機、1779年のクロンプトンによるミュール紡績機が大きな技術革新をもたらしました。これによってイギリスでは、紡績の速度が10倍になり、アンティル諸島(のちには北アメリカの南部植民地)やインドなどからの綿花輸入量も倍増しました。
 冶金業についていうと、コークスによる溶鉱法は1709年に発明されていたもののあまり普及せず、18世紀半ばをすぎても、鉄は大半が木炭利用の高炉でつくられていました。コークスを使うほうが、生産費が高くついたからです。
 しかし、鉄の需要が増えると、木炭の価格が上昇し、いっぽうで石炭価格が下落したため、コークスが広く使用されるようになりました。その分水嶺となったのが1775年です。その後、蒸気設備によって、高炉の大型化が可能になっていきます。
 鉄が大量に生産されるようになると、機械の製作が容易になり、機械自体も堅牢になっていきました。橋などを建設する場合も、これまでの木材に代わって鉄が用いられるようになります。
そして、19世紀にはいると、汽車が出現するのです。
 ブローデルは木綿革命を過小評価してはならないと主張しています。
木綿には長い歴史があります。17世紀にインドとの通商が本格化すると、ヨーロッパはインドの木綿製品に圧倒されることになりました。
 自国の織物、とりわけ毛織物を守るために、ヨーロッパはインドの布地の輸入を禁止します。それでもインド木綿の人気には根強いものがありました。
そこでイギリスはインド製品の模倣に走ります。問題は同じくらい上手に、しかも安い値段で木綿の糸や布地をつくることでした。
 インドの職人に太刀打ちするには、機械で対抗する以外に方法はありません。18世紀後半のアークライトとクランプトンの機械がそれを可能にしました。こうして、イギリスはインド布地の市場を制覇して、新たに巨大な市場を開拓することになります。
 木綿の市場が国内、国外に広がるにつれて、生産は一気に増え、同時に価格も下がっていきました。利幅はむしろ減少していきます。それでも世界市場を得たことで、工場は大きな資本蓄積をすることができたのでした。
 19世紀にはいると、木綿産業は大量の蒸気を利用するようになります。マンチェスターには工場が何百も建ち、巨大な煙突からは黒煙がたちのぼっていました。リヴァプールには、米国から原綿が運ばれてきます。
 木綿にくらべると、羊毛産業の機械化はずっと遅れました。シェフィールドやバーミンガムの刃物業や金物業も同じです。
 産業革命の影に隠れがちですが、18世紀後半のイギリスをもうひとつ特徴づけるのは通商革命だった、とブローデルは書いています。
 輸出向けの産業が急速に拡大しました。イギリスが繁栄したのは、自国の島の外に商業帝国を築いたからです。イギリスの勢力はヨーロッパではかえって後退しましたが、インドやカナダ、アフリカ海岸では競争相手を押しのけ、圧倒的な勝利を収めました。独立後の米国とも関係は途絶えることがありませんでした。
 国民市場、すなわち国内商業の拡大も無視できません。国内商業の割合は国外通商の2、3倍あったとみてよいでしょう。産業革命はこの活発な流通経済に直接支えられたものでした。
ロンドンを中心に都市が発達し、所得や利潤が増え、貨幣経済が活発になり、輸送手段が改良されたことが、国内商業の拡大を導きました。
 国内流通を促進した要因は、何といっても沿岸航海路と河川航行路の確立にあります。河川はつながれて運河となり、炭田と都市を結ぶルートとなりました。新たな陸路もつくられました。
 炭鉱の竪坑口から船着き場を結ぶ鉄路もでき、馬が荷車をひいて、そのうえを走るようになります。そして、ついにスティーヴンソンが1825年に蒸気機関車を完成させます。
 産業革命は近代的成長、すなわち連続的成長をもたらす端緒となりました。19世紀において、物価は下降期と上昇期を経験しましたが、そのどちらの時期においても、経済は成長しつづけました。それ以前の歴史が、成長と停滞、後退や下落をくり返したのと対照的です。
 産業革命はエネルギー革命でもありました。それが13世紀の水車のように、すぐに天井にぶつからず、ずっと持続したのは、エネルギー源が消滅することなく、新たに開発されつづけたからです。
 さらに、ブローデルが注目するのが分業です。成長は新たな分業をつくりだし、社会と経済のかたちをつくりかえる、と論じています。
 ヨーロッパで分業は当初、下請け外注システムのかたちをとりました。商人は農村の職人に製品を発注します。職人は羊毛や亜麻、木綿などの原料を商人から預かって、それを製品や半完成品に仕上げて、商人に手渡し、支払いを受けます。企業はこのシステムによって固定費を抑え、需要に応じて生産を調整することができました。
 工場制手工業(マニュファクチュア)は、工場に労働力を集中させ、それによって規模の経済をはかろうというものでした。ブローデルは初期の段階では、工場の割合は少なく、まだ下請け外注システムが一般的だったと述べています。
 産業革命は蒸気力にもとづく近代的な工場をもたらしましたが、その代表格である木綿産業でも、そうした工場が実際に動きはじめるのは1820年代になってからです。
 しかし、何はともあれ、工場が動きはじめると、農村から町に人が集まってきます。最初は家族をまるごと雇うこともあったようです。つまり、家内作業所がそっくりそのまま工場へはいっていったわけです。
 しかし、1820年代以降、自動式ミュール精紡機がつかわれるようになると、工場の内部では家族のまとまりが断ち切られ、それに代わって児童労働という新たな問題がでてきます。つまり大人は雇わなくても、子どもでじゅうぶん間に合ったわけです。それによって失業者が路上に放りだされ、賃金は崩落していくという問題が発生します。
 貧しい農民は農村から遠く離れ、都会でつらい労働に耐え、長時間労働と苦しい生活を強いられるようになりました。資本家たちは、そんな労働者に冷ややかでした。そのため、19世紀前半から半ばにかけては、急進的な労働運動が発生することになります。
 分業は同時に専門化でもあります。かつて卸売り商人は、商人であると同時に銀行家であり、保険業者であり、船主であり、実業家でもありました。かれらは多種多様な事業に携わるとともに、ときに下院に議席を有することもありました。
 しかし、19世紀にはいるころから、新たなタイプの実業家や企業家が登場します。かれらは新技術を支配し、職長や労働者を掌握し、市場の知識を有して、その場その場に適した進路を判断しながら自社の生産を方向づける能力をもっていました。
 こうした企業家が登場したのは、産業がこれまでにない規模に達していたからです。規模の巨大化は、資本主義の上層部においても、専門化と分業をうながすことになったのです。
 近代化が進展するにつれ、産業に占める第1次産業部門の割合が収縮し、第2次、第3次部門の割合が増えてきます。いまでは労働人口の半ば以上が、第3次のサービス部門の仕事に従事するようになります。その仕事のどれもが専門化する方向を示しています。ブローデルは、何はともあれ産業革命が分業化と専門化を促すビッグバンになったととらえています。
 さらにブローデルは産業革命がイギリスの歴史地理を変えてしまったことを指摘します。かつてのイングランドの豊かな地域では伝統産業が凋落し、これに反して北側の地域は数世代のうちに、おどろくほど近代的な地域に変貌しました。石炭の力が、北のバーミンガム、マンチェスター、リーズ、シェフィールドを一気に産業都市に変えていったのです。
 金融も大きな発展を遂げます。1820年代のイギリスでは、イングランド銀行を中心に100行の都市銀行と650行の地方銀行があったといいます。これらの銀行は預金と貸し出しをおこなっていました。ロンドンには手形交換所や割引銀行がもうけられました。イングランド銀行発行の紙幣が国全体に広がります。株式取引所も活況を呈し、海外への投資もはじまります。
 イギリスでは1770年ごろから1812年ごろまで物価が上昇しましたが、そのかん賃金は上昇しませんでした。そのため、1820年ごろまで、実質賃金は減少していきます。賃金事情が改善されるのは1820年ごろで、そのころ物価は下がっていました。奇跡がおこるのは1850年以降です。このときは物価が上昇し、賃金もそれに応じて上がっていきます。これによって連続的な経済成長がやっと軌道に乗ります。
 近代化が達成されるために、何世代もの人びとが犠牲となりました。技術面の勝利と商業の優位、実業家と金融家の盛運のために、民衆がどれだけ重い代価を払ったのかを忘れてはならない、とブローデルは記しています。
 とはいえ、「19世紀中葉にいたって、〈旧制度〉の成長に特有の[成長と後退をくり返す]リズムが消滅した」ことはたしかであって、それからは「人口、物価、GNP、賃金が同時に上昇するトレンド」がはじまりました。しかし、こうした連続的成長を可能にした長期の世紀トレンドは、1970年代に終わり、これからは長期にわたる危機がくると、ブローデルは予想しています。
 本書『物質文明・経済・資本主義』が出版されたのは1979年のことです。それから40年以上がたって、世界はさらに大きく変わりました。
 ブローデルが探求したのは、主に15世紀はじめから18世紀終わりまでの400年にわたる資本主義の歴史です。それは変貌に変貌を重ね、19世紀以降も、多くの方向転換を重ねてきました。そして、資本主義は現在にいたるまで変化しながらも、もとの姿を受け継いでいます。
 いまも資本と国家とのあいだには綿密な連携関係が存在します。しかし、資本主義と文化や社会とはかならずしも折り合いがよいわけではありません。資本主義は人間の生き方を縛っていますが、それは理想の生き方とはほど遠いものです。環境や伝統、文化を破壊しつづけているともいえます。多くの経済格差や不平等、苦痛をもたらしているのも事実です。
 しかし、ブローデルは、外部的な力によってならともかく、資本主義が〈内因性〉とでもいった劣化をきたして自分から崩壊するようなことはありえない、と断言します。システムとしての資本主義は、「危機を乗り越えて生き延びる確率がおおいに高い」とも述べています。
 ブローデルは資本主義の欠陥を是正する方向として、レーニン流の全体主義的社会主義を否定します。資本を国家に入れ替えても、それは「資本の欠陥に国家の欠陥を加えるだけ」だと断言しています。そして、問題の解決は、政治的次元でも経済的次元でもなく、社会的次元にあると示唆して、本書の結びとしています。
 国家の枠組みは残り、資本主義も存続するのでしょう。しかし、世界平和条約によってつながれた国家が公共国家となり、資本主義が公共性のルールにしたがうようになることが前提です。さらにいえば、ブローデルのいう社会的次元による解決とは、社会的共通資本の領域を拡大すること、そして、社会的問題を社会全体が受けとめ、社会的不平等を解消する努力をつづけることをさしているのではないでしょうか。いまはそんなふうに思います。

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