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西鶴の話(1)──商品世界ファイル(19) [商品世界ファイル]

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 井原西鶴(1642〜93)の『日本永代蔵』が出版されたのは元禄元年(1688年)のことです。それを暉峻康隆(てるおか・やすたか)の現代語訳で読んでみます。
「大福新長者教」というサブタイトルがついています。サブタイトルからすれば、長者すなわち金持ちになるための読本です。もっとも、この本を読んだからといって、金持ちになれるとは限りません。あくまでも惹句ですね。
 全6巻30のエピソードからなっています。元禄時代の経済社会ルポといえるでしょう。一部仮名にしてあるところ(たとえば三井八郎右衛門を三井九郎右衛門にするなど)もありますが、店の名前もしっかりと記されていて、全部実話です。体系化されているわけではありません。1巻出すたびに評判を呼んで、書き足しているうちにそれが6巻になったという次第です。日本各地の富豪の由来と、時にその没落をえがくという手法は、当時の人にとっても興味津々の話題でした。
 全部おカネにまつわる話です。おカネが人を動かす時代がはじまっていました。西鶴はそれを時にユーモラスに、時に憐れ深くえがいています。
 おカネはあの世では役に立たないが、おカネがあればこの世でかなわぬことはまずない。残しておけば、子孫のためにもなる。だから、よく働いて、おカネをためよう。
 西鶴は最初にそんなふうに書いています。このあたりの感覚はいまも変わらないですね。
 江戸時代はまだ農業が中心(全人口のうち農民の割合が8割以上)とはいえ、それでも商業と流通の発達した時代です。大きな町も生まれ、商売が盛んになっていました。
 当時、最大の商品は何といっても米です。幕府をはじめ各藩の財政は年貢によって支えられており、物納された米は大半が売却され、貨幣に代えられていました。その貨幣は大半が江戸藩邸で使われます。各藩の米を扱う鴻池や淀屋などの大商人が実質上、金融業者となり、大名にカネを貸すようになるのは必然でした。
 運ばれた米は町で消費されます。なかでも、江戸、大坂、京都が3大消費地でした。もっとも、人の生活は米だけあれば足りるというものではありません。人がくらしていくには、衣食住それぞれの支えがなくてはならないはずです。
 町では、それに応じて、さまざまな商品が生みだされ、貨幣を仲立ちとして、それらの商品が売り買いされることによって、生活が成り立つ仕組みができあがっていきます。こうした商品をつくりだす職人や、それを売る商人が増えて、流通する商品が多くなるにつれて、町は繁盛することになります。
 そして、かつてはほぼ自給自足していた村が、こんどは町のために商品をつくるようになり、町の商品を買うようにもなって、貨幣経済が全国に行き渡り、商品世界が拡大していくわけです。
 江戸時代には、そんな商品世界が広がりをみせようとしていました。
 しかし、商品を売ったり買ったりするには、もちろんおカネが必要です。
 江戸幕府が金・銀・銅の三貨からなる貨幣制度を整えたのは17世紀前半といわれます。
ただし、江戸時代を通じて、完全な通貨統合は実現できませんでした。金建て(単位は両)の江戸にたいし、大坂(上方)は銀建て(単位は貫)であり、両者のあいだには為替レートのようなものが発生しました。つまり、ひとつの国に金建てと銀建ての地域が併存していたわけです。
 そのなごりは「ちんぎん」に賃金と賃銀の表記があることをみてもわかるでしょう。貨幣をカネというのも、金銀銅の三貨(3種の金属貨幣)を念頭においているからですね。
銭貨(庶民貨幣)としての寛永通宝が発行されはじめたのは寛永13年(1636年)のことです。これによって、中世を通じて世間で用いられていた皇朝銭[日本製]や永楽銭[中国製]、その他さまざまの銭貨は次第に排除されていきます。
 あまり、ややこしい話はしたくないのですが、江戸幕府が成立することで、曲がりなりにも統一された貨幣制度がつくられ、それによって商業が盛んになって、商品世界がだんだんと広がっていくという構図をまずは思いえがいておけばよいでしょう。
 でも、それは近世ではあっても近代ではありませんでした。資本主義も金融システムも未発達ですし、産業革命も生じていません。近代国家も誕生していませんでした。租税の基本は貨幣ではなく米でしたし、職人はいても近代のような労働者は誕生していません。資本と経営もまだ未分化の状態でした。
 それでも商業は活発になっており、貨幣はなくてはならないものになっています。おカネがあれば何でも買える。しかも、そのおカネは貯めることもできる。その意味では、たしかに新しい時代がはじまっていたのです。
 おカネが日本じゅうどこでも通用するようになったのも江戸時代の特徴です。しかし、それが集中する場所はおのずと決まっていました。
 まず三都といわれた江戸、大坂、京都です。その周辺の淀や伏見や堺。それから中国・オランダとの窓口である長崎、さらには博多、敦賀、酒田、大津などの港町。これらの町が『日本永代蔵』の主な舞台です。
 人の欲望はかぎりありません。だが、目の前にそれしかなければ、どこかで満足してしまうものです。実際、欲望の対象が現前していなければ、欲望がかきたてられるわけもありません。まだ高度な産業が発達せず、手工業が中心の時代には、生みだされる商品の種類や量もごくかぎられていました。それでも、商品の誘惑は大きかったでしょう。
 それと並行して、貨幣の誘惑ももちろん大きかったのです。どれだけおカネをもっているかで、金持ちかそうでないかが分かれました。しかし、おカネはもっているだけでは、減りこそすれ、けっして増えていくことはありません。ものや人と結びついてこそ、おカネは生きてくるのです。
 商品世界においては、おカネを増やしたいという欲求があるからこそ、それを生みだす元となる商品も次々と開発をうながされます。こうして何もかもが商品化されていくようになります。西鶴が直面したのはそういう時代でした。
 といっても、江戸時代にカネになる商品はたかがしれています。先ほどもいったように、最大の商品は米です。幕府や諸藩は租税として集めた米を売っておカネに換え、武士は俸禄(実質の給金)をもらってくらしています。おカネが必要なのは庶民も同じです。おカネは貯まればしめたものですが、まずは必要なものを買うことに使われます。欲と色が、カネを稼ぐための最大の動機だということを西鶴は知っています。
 そのころの商品を思い浮かべてみましょう。江戸時代は250年以上つづきますから、そのかんに商品の種類も量も大きく変化しました。元禄のころをえがいた「永代蔵」には、次のような品物がでてきます。
 まず、食の関係では、コメを筆頭に野菜や豆、魚(とりわけ高級なのは鯛や伊勢エビ)、鯨(食用だけではないが)。ほかに茶や菓子(舶来の金平糖も)、胡椒。それに忘れてはならないのが塩、醤油、そして酒(焼酎、清酒など)ですね。その他もろもろ。煙草もいれていいでしょうか。
衣の関係では絹や木綿、糸、晒布、染めもの(材料としての紅花その他)、着物や帯、櫛など。
 住の関係では木材をはじめとする建築資材、その他、紙や家具、焼き物、台所用品、油や蝋、薪、うるし、それに鼠取りや灰掻き、五徳などの金物も挙げられるでしょう。
さらに貨幣の原料ともなる金、銀、銅も重要です。長崎では糸や唐織、鮫皮、薬、諸道具などの高級品が輸入されていました。
「永代蔵」にはえがかれていませんが、江戸時代はたたら製鉄が完成した時代で、鉄が刀や鉄砲、大砲などの武器をはじめ、農具やさまざまな日常品に用いられていました。
 以上のように西鶴はずいぶん多くの商品をとりあげています。そして、これらの商品は、単なるものではなく、すべて人(家)や場所、運搬、軍事などと結びついていました。生産面で、町や村、鉱山などの役割が重要だったのはいうまでもありません。そのいっぽう、町では遊郭や芝居小屋、茶屋、宿場、店、寺社などがにぎやかな消費の場を提供していました。馬や船、駕籠は運搬手段として欠かせません。そして、それらはすべてカネ次第の世界に包摂されていったのです。
 西鶴のいた時代には、すでに商品世界が生まれていました。けっして農業一色の時代ではありません。商品のラインアップをみただけでも、当時の生活ぶりが浮かびあがってくるようです。そうした世界を西鶴は興味津々の目でみつめています。その視線は世俗的で快楽主義的だったといえるかもしれません。しかし、そこにはどこか仏教的な無常感のようなものもまとわりついています。
 以上は前置きです。なお西鶴の話にはよく寺社の話がでてきます。商売はただ儲ければいいというのではなく、寺社や信心と密接に結びついていたといえるでしょう。
 それでは『日本永代蔵』の世界に。

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