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西鶴の話(2)──商品世界ファイル(20) [商品世界ファイル]

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『日本永代蔵』には、タイトルとは裏腹に、いかに蔵(資産)が永代につづくのがむずかしいかが、数多くえがかれています。まさに、ビジネスは栄枯盛衰といえるでしょう。
 よくでてくるのが、親の築いた身代を息子がつぶしてしまうという、ありがちのパターンです。いちがいに責められないような気もします。息子には家を守って、商売を広げるよりも、パアっとカネを使って、遊びまくるほうが楽しかったのでしょう。カネの力はおそろしいものです。そして、それはどこか空しさを秘めています。
 たとえば、こんな話が出てきます。
 場所は京都です。商売一筋、2000貫(いまなら36億円)をためこんで亡くなった父親の跡を21歳の息子が継ぎました。この息子も最初は倹約家で、商売熱心でした。
 ところが、父親の墓参りから戻る途中、禁裏[御所]の薬草園のそばで、封じ文を拾ったところから、歯車がくるいはじめます。この封じ文はどうやら花川という島原の遊女に、客のひとりがあてたもので、そのなかには一歩金(約3万円)と、詫び状らしきものがはいっていました。
 このままネコババするのもまずいと思いました。そこで、男はそれまでいったことのない島原に行き、花川という女郎を訪ねます。花川には会えませんでした。このところ気分が悪く引きこもっているといいます。
 そのまま引き返せば、なにごともおこらなかったはずです。しかし、ここでついむらむらした気分が顔をのぞかせます。せっかく評判の島原に来たのだから、一生の記念に遊んでいこうと思ったのです。そこで、男は出口の茶屋にあがり、安上がりの囲い女郎を呼んでもらい、飲みつけぬ酒に酔いました。
 これが転落のはじまり。若旦那はだんだん悪い遊びを覚え、値の張る太夫買いまでするようになります。太鼓持ちに囲まれ、「扇屋の恋風さま」とおだてられ、連日、散財するうちに、あっというまに財産をなくしてしまいました。(巻1の2)
 金持ちがいたのは京大坂だけではありません。
 大和の朝日村(現在の天理市佐保庄町)に、川端の九助という小百姓が住んでいました。九助は50歳すぎまで、田を耕し、毎年決まって1石2斗の年貢米を収める地道なくらしをつづけてきました。
 節分には、窓に鰯(いわし)の頭や柊(ひいらぎ)を差し、豆まきをして、鬼を払い福を招くのが恒例でした。ある年、豆まきで庭に散らばった豆をひろい、それを野にうずめてみました。すると、不思議なことに芽が出て、葉が茂り、両手にあまるほどの豆がとれたのです。
 毎年、その豆をまいていると、10年後には88石もの収穫が得られるようになり、それを売ると、大きな収入が得られました。
 九助はこの収入で、田畑を買い集め、ほどなく大百姓になりました。作物に肥料をほどこし、田の草をとり、水を掻いて手入れをするので、稲もたわわに実り、木綿もたっぷりと取れるようになりました。
 九助はさらに工夫を怠りませんでした。田を耕す細攫(こまざらえ)をこしらえ、唐箕(からみ)や千石通しを発明し、さらには穂を扱く後家倒しといわれる道具も発明しました。唐弓を導入し、繰綿(くりわた)を買いこみ、大勢でそれを打って、江戸に打綿の荷を積みだすようにもなりました。
 こうして九助は大金持ちとなりました。88歳で亡くなったときには家屋敷のほか1700貫目(約30億円)もの財産を残していたといいます。
 その財産はそっくり息子の九之助が受け継ぎました。金持ちの息子というのは、どうして同じようなパターンをたどるのでしょう。九之助にとって興味があるのは、カネを稼ぐことではなく、もっぱらカネを使うことでした。多武峰(とうのみね)の麓の村に京大坂の飛子(とびこ[男娼])の隠れ家があると聞いて、さっそく通いつめて、男色にはげみます。それから奈良の廓、京の島原にも足を伸ばし、女色にもふけりました。
 こうして九之助は酒色の道におぼれるようになるのですが、8、9年のうちにすっかりからだを壊し、34歳で頓死してしまいます。あとには男子が3人残されました。その遺言状を開いてみて、みんながあきれかえりました。親譲りの1700貫目は使い果たし、残ったのは借金だけだったのです。(巻5の3)
 道楽息子に跡をとらせるくらいなら、できのよい養子をとったほうがいいと思うのも不思議ではありません。ところが、その養子がくせものでした。
 美作(みまさか[現在の岡山県])の津山に、万屋(よろづや)という金持ちがいました。
 その万屋のひとり息子は、鼻紙にぜいたくな杉原紙をつかっていたというので、13歳のときに勘当され、播州網干(あぼし[現姫路市])の叔母のところにやられてしまいます。万屋を継いだのは、倹約(しまつ)で知られる甥っ子です。
 養子になったこの甥っ子は変わっていて、嫁に焼き餅やきの女を望みました。そして、そのとおり焼き餅やきの娘をもらい、先代は隠居しました。跡取りがすこし浮かれて遊びはじめると、嫁は焼き餅をやいて騒ぎ立てるので、世間体が悪く、その行状もおさまります。これで家が万事おさまると、先代も喜んでいました。
 ところが、万屋の老夫婦が亡くなると、いっぺんに様子が変わってきます。伊勢参りに出かけた嫁は、帰りに京大坂を見物し、それ以来すっかり派手好みになりました。亭主もからだの調子が悪いので養生したいといっては上方にのぼり、男色女色のふた道にふけって、金銀をまきちらすようになります。こうして、万屋の身代は一気に傾いていきます。
 その後、万屋は両替屋をはじめるが、うまくいきません。信用もなくなり、次第に没落していきます。(巻5の5)
 時勢の移り変わりもあったかもしれません。しかし、どうやら大金持ちの二代目、三代目というのは、カネ儲けに意義を見いださなくなってしまうようなのです。カネは儲けるより使うほうがおもしろいに決まっています。それはどう用心しても、商家にしのびこんでくる誘惑でした。
 カネの世は移ろいやすく、富豪の家もいつまでもつづきません。
 それが江戸時代の浮世でした。
 豊後の府内(いまの大分市)にも万屋という富豪が実在しました。
 その家督を継いだ三弥は、新田を開墾し、菜種を植えたところ、これが大成功して、大金持ちになりました。灯火に使われた菜種油は当時の大ヒット商品です。
 ところが、この三弥、京都の春景色を見物にいったあたりから、だんだんと遊興の味を覚えるようになります。豊後に戻ってくるときには美しい妾を12人連れてきました。屋敷を新築して、ぜいたくのかぎりをつくし、冬の朝は優雅に雪をながめ、夏の夕涼みには多くの美女をはべらせて、扇で風を送らせるという日々。
 店をまかせていた古参の手代が亡くなると、三弥のぜいたくはますますエスカレートします。これではおっつけ暮らしも立たなくなるだろうと周囲がやきもきしていたところ、案の定、ある年、収支に不足が生じ、それからしだいに穴が大きくなっていきました。そして、ついには罪をおかし、殿様からとがめられ、命まで失うことになった、と西鶴は書いています。
 じっさい、豊後では、こういう事件があったようです。「永代蔵」の注には、万屋の3代目、守田山弥助は、藩主日根野吉明(ひねの・よしあきら)によって、正保4年(1647年)10月、密貿易や奢りのかどで、一族5人とともに誅されたとあります。(巻3の2)
いったい何があったのでしょう。その真相はわかりません。
 幕藩体制は、商品世界の広がりになかば懐疑的だったといえるのではないでしょうか。
 参勤交代がおこなわれ、武士が都市に集住する時代においては、武家政権を維持するには、年貢の米を正常に換金化することが欠かせませんでした。
 しかし、それ以上に商品世界が広がることに、武家はむしろ懸念をいだいていたといえるでしょう。三井や鴻池、住友のように幕藩体制に密着する商人とちがい、カネの力によって自由に羽を広げようとするブルジョアは、何かにつけて取り締まろうという傾向が強かったのではないでしょうか。
 西鶴を読んでいると、経済学でいう資本蓄積論とは別に資本解体論とでもいう項目を立てたほうがいいのではないかと思うくらいです。

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