SSブログ

『貧乏人の経済学』を読む(2) [商品世界論ノート]

51248mrqhZL.jpg
 食につづき健康が取りあげられます。
 世界では毎年、5歳未満で亡くなる子どもたちが900万人いますが、そのうち2割がロタウイルスによる下痢が原因です。この症状は水を殺菌する塩素剤漂白剤と、塩と砂糖を含む経口補水液(ORS)で改善しますが、こうした手軽な方法が、上下水道のまだ普及していない地域では、ほとんど使われていない、と著者は指摘しています。
 貧困と健康が密接に結びついていることはたしかです。不健康なら働けず、働けなければ借金がかさみます。健康を維持するには、蚊帳によるマラリアの予防、上下水道の整備などが大きな効果を発揮するのはまちがいありません。
 しかし、こうした公衆衛生の普及には費用がかかります。でもたいした費用ではないのです。蚊帳もそうですが、水道がない場合は塩素系漂白剤を利用すればよいのです。しかし、多くの人はそれを利用しようとしません。
健康に関心がないわけではないのです。問題はかれらがむしろ伝統と習慣にもとづいて、困難を乗り越えようとすることにある、と著者は指摘します。インドでは病気になったとき、貧しい人びとが頼るのは、いまだに祈祷師と無資格の民間医なのです。民間医は注射に加え、やたら抗生物質を濫発しますが、その治療は「何の役にも立たないどころか害になる」と著者は憤慨しています。
 さらに問題なのは予防措置を実施する政府の保健センターがうまく機能していないことです。保健センターは閉まっていることが多く、開いていてもおざなりな対応しかせず、村民にあまりあてにされていないのです。そのため、村民が信頼するのは昔ながらの方法で、相変わらず心療治療師や祈祷師に頼りがちになります。
 しかし、移動式の予防接種キャンプを組織して村を訪れ、予防接種をすれば何か景品をもらえるというようにすれば、村人は集まり、予防接種の摂取率は高まるといいます。こうしたちいさなインセンティブも人びとを後押しすることになるのです。その意味では、ちょっとした工夫次第で貧しい村の健康を促進することが可能になる、と著者は指摘します。もちろん、そのさいには予防接種の効果にたいする説明も必要になってくるでしょう。
 貧しい国の保健政策で第一の目標とすべきことは「貧乏な人々の予防的ケアをできるだけ容易にしつつ、同時に人々が得る治療の質を規制すること」だと、著者は論じています。

 次は教育問題です。
 教育は受けたほうがいいにきまっています。多くの国で小学校は無料になっています。しかし、途上国では、子どもの欠席率がかなりの割合にのぼり、中学校どころか小学校にも行かない(あるいは行かせてもらえない)子どもたちが多いといいます。
 世界のほとんどどこでも小学校と中学校は設置されるようになってきました。学校に行く子どもも増えてきました。それでも簡単な文章を読んだり、簡単な算数ができたりする子どもの割合は低いのが実情です。
 親からみれば教育は子どもへの投資であり、贈り物でもあります。しかし、それを嫌がる親もいます。教育におカネをかけるより、自分たちのために子どもをすぐはたらかせたほうがよいと考える親もいるからです。
 しかし、教育による学習が高賃金の雇用と結びついていることはたしかです。中等教育を終えた人のほうが正規の仕事につきやすいし、自分の事業にしてもうまく営むことができるのです。教育を受けないまま仕事をしても、その成果には限界があるでしょう。
 問題は途上国の学校制度そのものにある、と著者はいいます。2005年の段階で、インドでは公立小学校に通う5年生のうち47%が2年生レベルの文章を読めず、私立学校でも32%が同じ状況だというのです。しかも、6年生になるまで学校に通いつづける生徒は少ないのです。
 途上国では、親は富を獲得する手段として教育をとらえがちです。「彼らにとって教育は宝くじのようなもの」だ、と著者はいいます。そのため、親は子どもたちを「頭のいい」子と「頭の悪い」子に選別し、「頭のいい」と思われる子だけに教育資金を集中的に投入するのです。その結果、かえって貧困の落とし穴から抜け出せなくなってしまうことがあるといいます。
 教育制度自体がいまだにエリート主義を取っていることも問題です。多くの子どもたちはそれについて行けず、クラスも最高クラスと最低クラスに選別されていくことになります。最低クラスに配属された教師は投げやりになり、ろくに授業もしなくなります。
 教師は落ちこぼれの子を無視し、親もその子の教育に興味を失ってしまいます。加えて多くの偏見とステレオタイプの思い込みが、子どもたちの教育機会を奪ってしまいます。
 多くの発展途上国では、カリキュラムや教え方が、ふつうの子どもよりエリート向けにつくられています。そのため、教育にはごく一部を除いて、期待はずれの成果しか得られないのです。著者はあまりできない子どもたちをどう教えるか、そのため補習教育プログラムをどう組みこんでいくかがだいじだ、と主張します。エリートをつくるのもだいじですが、教育の本来の目的は、子ども全員がじゅうぶんに読み書き、計算ができるようにすることなのです。重要なのは、子どもたちを思いやりをもって扱い、ほんとうの潜在能力を発揮できるよう助けることだ、と著者は強調します。
「すべての子供が学校で基礎をきちんと学ぶのは十分可能だし、それだけに焦点を絞って取り組めば、実はかなり簡単に実現できる」。教師にしても、能力のある補習講師になるには、訓練はさほどいらない。そして、子どもたちが学教で自信をもつようになれば、かれらにも貧困の落とし穴から脱出できるチャンスが生まれるはずだ、といいます。

 家族計画についても論じられています。
 中国の一人っ子政策は有名ですが、インドでも一時、全国で強制的な不妊手術が実施されていました。しかし、この政策は国民の反発をくらい、インディラ・ガンジー政権の敗北とともに廃止されます。
 日本ではいまや人口減少が懸念されていますが、世界全体の人口はまだまだ増えつづけています。人口増加は気候温暖化を引き起こし、食糧問題や水不足を引き起こします。人口抑制の必要が論じられているにもかかわらず、途上国では人口はいっこうに減る気配がありません。
 途上国では、なぜ貧しい人びとが大家族をもとうとするのでしょうか。避妊法はもちろん知られています。とはいえ、とくに女性は、夫や義母、あるいは社会から、自分の望む以上に子どもをつくれというプレッシャーを受けているといいます。
 著者にいわせれば、途上国では、多くの親が子どもをいわば金融資産と考えていることが問題です。子どもが多くいれば、自分たちが年を取ったときに、そのうちの誰かが面倒を見てくれるはずだという考えが、いまだに根強いといいます。
 娘があまり喜ばれないのは、女性は結婚するものだし、そのときには持参金を持たせなければならないし、結婚すれば夫の家庭にはいってしまうと考えられているからです。そのため男の子がほしい夫婦は、男の子が生まれるまで子どもをつくりつづけます。伝統的家族のなかでは、女の子は労働力として評価されないかぎり、だいじにされず差別されるといいます。
豊かな国では、こうした考え方をする必要がありません。社会保障や健康保険、投資信託、退職金などが、老後の不安を解消してくれるからです。人生にはリスクがつきものですが、貧しい国では豊かな国ほどリスクを軽減する制度が整っていません。大家族をつくることは、そうしたリスクを軽減するためのひとつの防御策ととらえられているようです。しかし、子だくさんは同時に貧乏とつながるところにむずかしさがあります。
 著者はこう書いています。

〈もっとも有効な人口政策とは、子だくさん(特にたくさんの男児)を不要にすることかもしれません。効果的な社会的セーフティー・ネット(たとえば健康保険や高齢年金)や、あるいは老後に備えた収益性の高い貯蓄を実現する金融商品の開発で、出生率の十分な減少と、おそらく女児に対する差別の緩和も実現できます。〉

 しかし、はたしてそれは可能なのでしょうか。
 こうした制度面の整備が次の課題となってきます。

nice!(8)  コメント(0) 

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント