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『儀礼としての消費』 を読む(1) [商品世界論ノート]

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 人類学でいう「儀礼」というのは何だろう。ふつうは「宗教的儀礼」を連想するが、もっと広く「日ごろの習慣」と言い換えたほうがよいのではないか。あるいは少し厳密に「文化的習慣」といってもよい。
 いずれにしても「儀礼としての消費」と題されると、それだけで頭がついていけなくなる。
 ずっと本棚に眠っていたメアリー・ダグラスとバロン・イシャウッドの共著『儀礼としての消費』(浅田彰・佐和隆光訳、講談社学術文庫、2012)を、たぶん理解できないだろうなと思いつつ読んでみることにする。
 メアリー・ダグラス(1921〜2007)はイギリス人の人類学者。日本で訳された本としてはほかに『汚穢(おわい)と禁忌』がある。バロン・イシャウッドはイギリスの経済学者で、消費者行動理論の研究を専門としている。
 原著のタイトルはThe World of Goodsで、日本語版とはイメージが異なる。訳者の佐和隆光は『財の世界』と紹介している。だが、これでは日本語のタイトルとなりにくいので『儀礼としての消費』と変えたわけだ。それによって人類学による消費へのアプローチであることが示唆されている。
 ところでgoodsをどう訳すかは、意外とむずかしい。商品、財、品物、用品、それともグッズ? 商品と訳せば、タイトルはまさに『商品世界』となる。そんなことにこだわるのは、ぼくが「商品世界論ノート」などという、あてどないテーマを考えようとしているからだ。
 商品と財はことなる。商品は売買される財をさすが、財そのものではない。しかし、商品と財は同じだといってもよい。財が市場を意識するときに、それは商品となる。
 goodsはcommodityよりも広義の商品(財)としてとらえることができる。コモディティが市場にある商品そのものを指すとすれば、グッズは商品の流れを含むと解釈することもできる。その流れは次のようになるだろう。

(1)市場を意識した財=つくられようとしている商品
(2)市場に出された財=取引される商品そのもの
(3)所有された財=消費され利用されている商品

 商品世界はこうした時間的経過を含む財の関係性のなかで成り立っているといってよいだろう。さらにつけ加えれば、商品世界を成り立たせているのは、商品世界を動かし支える血液でもある貨幣にほかならない。その点で、ダグラス、イシャウッドの『儀礼としての消費』は、原題をそのままに、人類学的アプローチにもとづく『商品世界論』と受けとめてもいいだろう。
 以上はたあいない前置き。以下、のんびり中身を読むことにする。難解なので、はたして最後まで読み切ることができるか、はなはだ心もとない。

 まず「序」について。
 こんなふうな記述がある。
「コンシューマリズムは貪欲で愚鈍、そのうえ、必要とは何かということに無神経だとして、酷評される」
 これは消費主義、あるいは消費社会にたいする強い批判だ。しかし、著者たちはこうしたモラリストによる消費社会批判は、商品世界を理解することにつながらないという。
 人はなぜ商品を買うのか。そのこと自体から考えてみなくてはならない。経済学では一般に、人が商品を買うのは、物質的幸福や精神的幸福を得るため、あるいは人にみせびらかすため、といわれる。最初のふたつは個人的必要であり、あとの「みせびらかし」(誇示、衒示)は社会的欲求にもとづくものとされる。
 だが、はたしてそうなのか。商品(できあがった財)と労働(財をつくること)、消費(財を利用すること)は人の一連の行動であって、消費だけを切り取って、それを分析し、あとでパズルのように組み立てるのは、経済学者の悪癖ともいえる抽象癖、すなわち合理的個人という仮定に由来するのではないか、と著者たちはいう。
 なかなかむずかしいことを言っている。
 むずかしい話は苦手だ。それ以前に、残念ながら、ぼくにはそれを理解するだけの教養(知識の蓄積)がない。
 ただ、著者たちが消費の目的を、「物質的幸福や精神的幸福を得るため、あるいは人にみせびらかすため」と規定する経済学者の割り切り方に疑念をいだいていることは理解できる。
 ここでもちだされるのが、小説家ヘンリー・ジェームズ(1843〜1916)による3つの部屋の記述である。
 いずれも金持ちの女性が内装し、飾りつけた部屋だが、小説では、はじめてきた訪問者が、この部屋をひとめ見渡しただけで、住んでいる人の生活や性格、社会的地位、さらには隠された意味を読みとるシーンがえがかれている。
 最初にアメリカ人の主人公ストレーサーが、パリのミス・ゴストリーのアパルトマンを訪ねる(『使者たち』)。
 そこは彼女の「最後の巣」のようにみえ、薄暗がりの部屋部屋には、古い象牙や錦織などがそれこそぎっしりと置かれ、まるで「海賊の洞窟」のようで、あちこちの暗がりに金色や紫色が輝いていた。
 次に同じ主人公は、ベルシャス街に住むド・ヴィオネ夫人の部屋を訪ねる。そこは古きパリを思わせる気品にあふれていた。父親から継承したにちがいない雑多な小物や飾り、特別注文の記念品、小さな古いミニアチュアやメダリオン、絵や本などが整理されてきれいに並べられていた。
 いかにも古き良き時代のブルジョワの部屋が保たれている。だが、主人公は「最上の対面を保とうとする空気」のなかから、無理やり隠そうとしている何かがあることに気づいてしまう。それは秘められた「不義の愛」だ。
 3番目にとりあげられるのは、アメリカ南部の青年がボストンの親類の部屋を訪ねる場面だ(『ボストンの人々』)。
 青年は通された客間に南部とはまるでちがう文化都市ボストンの趣味のよさを感じる。テーブルやソファ、小さな書架に置かれている書物、壁にかけら得た写真や水彩画、ずっしりとした感じのカーテンに「文化そのもの」を感じる。
 いきなり、ヘンリー・ジェームズによる3つの部屋の記述を並べられて、われわれは面食らう。著者たちはいったい何を言いたいのだろう。
 ふだんはあまり意識しないかもしれないが、人はかつては商品だった財(あるいはサービスとしての商品)に囲まれて暮らしている。いま自分がいる部屋を見渡しているだけでも、そのことがわかるはずだ。
はたして、ヘンリー・ジェームズのえがく3つ部屋には、ヴェブレンなどの経済学者のいう衒示的(げんじてき)消費、すなわちみせびらかしの消費があるだろうか。ここにあるのは、むしろ終末、体面、プライバシーの空間なのではないか。そこに置かれたそれぞれの財(商品)に全体の意味が隠されている。
 財(商品)は「生きた情報システムの一部」だ、と著者たちはいう。ひとつひとつの財を走査(スキャン)し、読み解き、ランクづけることから、「生きた情報システム」、すなわち現代の商品世界を浮かび上がらせることができるのではないか。
 さらに「市場も商品もほとんどないような遠いエキゾチックな場所」と商品世界を比べてみることも重要だろうとも述べている。「人類学からもたらされる洞察は、私たち自身に強力な望遠鏡を向けるように思われる」
 そこから、何が導かれるか。
「序」のしめくくりは、こうなっている。
「財は中立的だが、財の使用は社会的である。財は垣根としても橋としても使われうるのである。」
 商品(財)は文化そのものなのだ。それは所有されることによって、人との境(垣根)をつくる。そのいっぽうで、それは人とのつながり(コミュニケーション、橋)をつくるものでもあるのだ。
 やれやれ、まだ「序」が終わったばかり。最後まで読めるか不安になってくる。

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