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タケちゃんマン──大世紀末パレード(2) [大世紀末パレード]

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 テレビの話をつづけると、吉崎達彦の『1985年』には、70年代にお笑いの頂点を極めたザ・ドリフターズの「8時だよ!全員集合」が、この年9月28日に最終回を迎えたという話がでてくる。
 TBSのザ・ドリフターズを食ったのは、同じ土曜8時台の枠で放送されていたフジテレビの「オレたちひょうきん族」(1981年から89年まで放送)だったという。そういえば、わが家もこの品のない番組を大笑いしながら見ていたような気がする。10歳と7歳になる子どもたちも一緒にみていたとはとても思えないのだが、はっきりした記憶がない。「8時だよ!全員集合」は終盤期のころ、すっかりマンネリになっていた。
「ひょうきん族」のメインキャストは、一貫してタケちゃんマン(時折、鬼瓦権造も登場)を演じるビートたけし、ブラックデビルやパーデンネン、アミダばばあ、ナンデスカマンと次々キャランクターを変える明石家さんま、ほかに島田紳助、片岡鶴太郎、山田邦子、島崎俊郎(アダモちゃん)など。ホタテマンとして大暴れする安岡力也も強烈だった。プロデューサーは横沢彪(たけし)で、本人も「懺悔室」の神父役で画面に登場していた。
 番組の中心は、変身したたけしとさんまによる即興的な掛けあいである。変身しているからこそ、恥ずかしげもなく、しらふではいえない、おふざけギャグが炸裂する。それが、ふだん会社で抑圧されているサラリーマンの夫たちや、毎日忙しく家事や子育てに追われる妻たちの笑いを誘い、ストレス解消をもたらしたのかもしれない。
 タケちゃんマンのテーマソングはめちゃくちゃで、いまの時代ならとても流せないものだった。

遠い、星からやってきた
ひょうきんマントをなびかせて
今日は吉原堀之内 中洲すすきのニューヨーク
強きを助け 弱きを憎む
TAKEタケちゃんマン TAKEタケちゃんマン
ゆくぞわれ〜ら〜の タケちゃんマン

 吉原(東京)、堀之内(川崎)、中洲(福岡)すすきの(札幌)は、日本有数の歓楽街で、ソープランド[80年代半ばまでは「トルコ風呂」と呼ばれていたが、トルコ人留学生の抗議により名称変更]が数多いことで知られていた。
 タケちゃんマンは女好きだが、女にもてないおっさんで、「強きを助け、弱きを憎む」ふつうの日本人の特性を兼ね備えている。それがスーパーマンのように、「マントをなびかせて」、さんまが現れるところなら、どこにでもやってきて、好き放題、じつにくだらない(そしてかなりえげつない)コントの応酬をくり広げる。そして、いまのテレビコードでは、とても放映できないエネルギッシュな笑いを炸裂させていた。
 そのころ吉本隆明は漫才を抜けだしたビートたけしの芸風の変貌について、こう書いている。

〈謎が現在でもあるとすれば、性根のわるいいじめっ子風イメージを異化的にかき立て、共演の芸人や素人たちと一緒に、痛ましい笑いのゲームをブラウン管にくりひろげている意味である。もうひとつあるとすれば、タケちゃんマンの創造に象徴されるような、野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像がもっているすぐれた現在的な意味である。〉

 吉本はなぜこんな「痛ましい笑いのゲーム」が受けているかは「謎」だと言っている。さらに「野放図で無内容で、ばかばかしく愉しい画像」が、どのような意味をもっているのかを問わなければならないと結んでいる。タケちゃんマンの登場を評価し、その意味を考えようとしていたといってよい。

「オレたちひょうきん族」がはやりはじめたころ、関西では世間をわきたたせる大きなできごとがあった。阪神タイガースがセ・リーグで優勝し、日本シリーズでも西武ライオンズを破って、日本一の栄冠を勝ちとったのだ。
 吉崎の『1985年』にもとづいて、その状況を再現する。
 優勝を逃した1973年以降、阪神は暗黒時代におちいっていた。監督はしょっちゅう入れ替わり、主力の投手、江夏豊と打者、田淵幸一が放出され、トレードで入団した江本孟紀が「ベンチがあほやから」と言い放って、引退してしまう。その後もずっと低迷がつづき、1985年にすったもんだの末、元名遊撃手の吉田義男がふたたび監督に就任したときは、ファンのあいだからため息がもれていた。ところが、奇跡がおこるのだ。
 それはシリーズが始まってすぐの4月17日の甲子園での対巨人2回戦のことだ。阪神は7回裏ツーアウトまでは1対3と巨人にリードされていた。そこに、3番ランディ・バースが3ランを放って試合をひっくり返す。
 マウンドで呆然とする巨人のピッチャー槇原敬之に追い打ちをかけるように、4番掛布雅之がバックスクリーンにホームランをたたき込む。それだけで終わらない。つづいてバッターボックスに立った5番岡田彰布(あきのぶ)がよっしゃとばかりにホームランを放つ。
 こうして勢いづいた阪神は、長年の低迷から脱して、優勝への道を歩みはじめる。
 阪神優勝の立役者は何といってもバースだった。この年、バースは三冠王に輝いた。だが、吉崎はこうつけ加える。

〈ひとつだけ悲しいのは、85年の本塁打数は54本で、王選手が残した年間記録である55本にあと一歩届かなかったことだ。いや、届かせなかったのである。セ・リーグの投手陣は、シリーズ終盤の消化試合でバースを四球攻めにした。当時はまだ、偉大な王選手の記録を外国人選手が破ってはいけない、というケチなことを考える人が多かったのだ。そんな仕打ちに対し、バースは哲学者のような静かな表情で耐えた。〉

 バースのえらさがよけいに伝わってくる。このバースがひとつの大きな牽引力となって、阪神は日本一の座を勝ちとった。
 こうしてみると、ひょうきん族といい、阪神優勝といい、1985年という年は、にぎやかで、はしゃいだ雰囲気のなかにあったようにみえる。だが、はたしてそうだったのか。

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