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ポール・ジョンソン『現代史』をめぐって(3)──大世紀末パレード(10) [大世紀末パレード]

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 1980年代の人物として印象的なのは、やはりサッチャー、レーガン、ゴルバチョフだ。ポール・ジョンソンは『現代史』で、この3人をドラマチックにえがいている。
 まず最初に登場するのが、1979年にイギリス初の女性首相となったマーガレット・サッチャーだ。めざしたのは資本主義の再生だったといってよい。
 サッチャーが最初に手がけたのは、それまで強い法的権限をもっていた労働組合の活動を制限することだった。そのため、議会での立法がなされ、行き過ぎたストライキやピケは取り締まられるようになった。
 これに反発したのが、全国炭鉱労組(NUM)である。イギリスの炭鉱産業は1946年から国有化されていたが、炭鉱の多くが大きな損失をかかえていた。経営側は1984年3月に20炭鉱の閉鎖を宣言する。
これにたいし、組合委員長のアーサー・スカーギルは戦闘的な特別代議員だけを集めて、ストライキを宣言。その結果、炭鉱の閉鎖は174炭鉱のうち131炭鉱におよぶことになった。
 炭鉱ストにたいし、サッチャー政権は絶対に妥協しない態度で臨んだ。警察は新たに制定された法律にもとづき、徹底的な取り締まりを実施した。
 組合側は粘り強く闘ったが、大ストライキを1年以上つづけるのはさすがにむずかしかった。1985年3月、組合側は事実上、無条件降伏し、ストは終結する。多くの従業員が解雇や失職に追いこまれ、当時ヨーロッパ最大の労働組合だったNUMはわずか8万人の組合に縮小してしまう。
 ストライキを実施したのは炭鉱労組だけではなかった。イギリスの労働組合は企業組合ではなく、ユニオンショップ制をとっているのが特徴だ。植字工労組(NGA)は70年代から80年代にかけ、しばしばストを実施し、全国紙を休刊に追いこんでいた。1983年には植字工のストによって6月1日から8月8日までフィナンシャルタイムズ社が閉鎖され、11月25日から27日にかけ、すべての全国紙が休刊になっている。
 経営者と組合のあいだで激しい闘争がくり広げられた。だが、けっきょく植字工労組と印刷労組のほうが全面的に敗北し、多くの労働者が解雇されることになる。経営側はそのかん、ひそかに手作業の植字や割付に頼らなくてもすむハイテクの印刷工場を建てていた。
 サッチャーによる資本主義再生のための政策は成功を収めた、とジョンソンはいう。イギリスの生産性はヨーロッパ最高の水準まで回復し、1981年から88年にかけ、経済成長率は4%台を保つことになった。
 なかでもサッチャー政権の最大の業績が、国営事業を「民営化」したことだ、とジョンソンは指摘する。
 国際電信電話会社、英国鉄鋼公社、英国航空、英国電気通信公社、英国ガス公社、水道・電気供給産業などが、サッチャー政権時代に民営化された。民営化は株式取引所を通じておこなわれ、株式の「放出」は株式取引を活発化させる効果をもたらした、とジョンソンは「民営化」を絶賛している。
 サッチャーは1979年から3回の総選挙を勝ち抜き、90年に退陣するまで、11年半にわたって首相を務めた。人気があったのは事実だが、敵も多かった、とジョンソンはいう。権威をもって君臨したことが党内外で反発を呼んだ。
 いっぽう、米国では1980年11月にロナルド・レーガンが新大統領に選出された。ジョンソンは「レーガンが、サッチャーの勝利と先例に導かれたことはまちがいない」と記している。レーガンは「真の敵は大きな政府だ」と広言していた。だが、小さな政府をつくるのはむずかしかった。
 公約のなかで実現できたのは減税である。減税によって、経済が刺激され、税収も増えたが、同時に財政支出も増えた。その結果、財政赤字が増大し、貿易不均衡にともなって貿易赤字が拡大する。このふたつの赤字を埋めるために国債と民間企業資産が売りに出される。それを積極的に買い取ったのが日本だった。だが、皮肉なことに、それにより米国内では日本への懸念が高まっていくことになる。
 双子の赤字に悩まされたといえ、レーガンの政策、とりわけレーガノミクスと呼ばれた経済政策は成功を収めた。1982年から87年にかけての6年間で、米国の実質GNPは27%、工業生産高は33%、平均所得は12%伸び、2000万人分の雇用がつくりだされた。こうして、米国はベトナム戦争の失敗以来失われていた自尊心を回復した、とジョンソンは記している。
 1982年4月2日には、アルゼンチン軍がフォークランド諸島のイギリス直轄植民地を占領する事件がおきていた。イギリス軍はただちに反攻を開始し、諸島を奪還し、6月14日にアルゼンチン軍を全面降伏に追いこむ。イギリスの勝利はアルゼンチンの軍政を終わらせることとなった。
 1983年10月19日には、西インド諸島の小国グレナダで、モーリス・ビショップ首相が左翼勢力によって暗殺された。キューバの大軍がグレナダに配置されたとの報告を受けて、レーガン大統領はただちに軍事介入を決意した。米軍は10月25日にグレナダに上陸し、左翼勢力を排除したあと、11月2日にただちに撤収する。
 ジョンソンによると、レーガン大統領がめざしていたのは、ソ連に奪われていた勢力を回復することだったという。とくに物騒だったのは、ソ連が東ヨーロッパで中距離核弾頭ミサイルSS20を大規模に配置したことだ。これに対抗して、レーガンとサッチャーはイギリスをはじめとするNATO諸国に巡航ミサイル網を配備するよう提案する。これにたいし西ヨーロッパでは1983年に激しい抵抗運動が巻き起こったが、計画はそのまま推し進められた。
 レーガンは就任当初から包括的な軍備拡張計画に着手していた。軍事予算が拡大され、軍備が増強され、スターウォーズ計画と称して、対弾道ミサイル兵器も開発された。さらに米軍全体の戦略計画と戦術訓練のあり方が練りなおされた。
 いっぽうソ連では1980年代はじめから経済的大混乱がはじまっていた。侵攻したアフガニスタンではおそろしく費用がかかったうえ、反政府ゲリラの抵抗に悩まされていた。ソ連がアフガニスタンから完全に撤退するのは1989年のことである。
 1982年11月にブレジネフが亡くなったあと政権の座についたアンドロポフ、チェルネンコはいずれも1年ほどで病死し、1985年3月に52歳のミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に選出された。
 ソ連共産党の基準からすれば、ゴルバチョフは自由主義者だった、とジョンソンは記している。だが、ソ連を複数政党体制にするという考え方は受けつけなかった。
 ゴルバチョフは党の改革に着手し、経済に市場原理を導入し、グラスノスチ(公開性)政策によって新聞や放送にある程度の自由を認め、KGBの活動に制限を加えた。その結果、かえって政治のタガが外れてしまう。「ソ連の難問の根源は、スターリン主義という上部構造ではなくて、レーニン体制そのものなのである」と、ジョンソンは書いている。
 こうして、政府の命令はしばしば黙殺され、ゴルバチョフに知らされないまま、もろもろの活動がおこなわれるようになる。店頭で買える物資は少なくなり、個人間、企業間の直接バーター取引や闇市場での取引が増えた。ストライキが蔓延し、ウォトカ密造と酒にからむ犯罪が激増する。1986年4月26日にはウクライナのチェルノブイリ原発が爆発する。
 ペレストロイカと称されるゴルバチョフの計画は、むしろ事態を悪化させた。そうしたなか、米国の軍備拡張を前にして、ゴルバチョフはレーガンとの軍縮交渉に応じるようになった。1985年11月には、ジュネーブで1回目の首脳会談が開かれる。このトップ会談はその後、何度も開かれることになる。
 そのころ東ヨーロッパも経済危機におちいっていた。指令経済の失敗がますます痛感されるようになる。加えて1987年10月以降、西側の景気拡大期が終わりを告げたことにより、東側の景気も後退していく。
 東側に貸付をしていた銀行は、その信用価値に疑念をいだき、返済を求めはじめた。東欧各国の政府は物価を値上げすることによってこれに対応しようとするが、かえって民衆の怒りを招いた。
 中国では1989年4月15日に、元共産党幹部で2年前に解任された胡耀邦が亡くなる。すると、胡耀邦の葬儀を機に学生たちが立ち上がって大々的なデモをくり広げ、4月27日に天安門広場を占拠した。
 当初、政府当局は「改革」をめぐって学生たちと話し合いをつづけていた。だが、6月4日にそれを打ち切って戦車と歩兵を投入、天安門広場を掃討した。これにより2600人が死に、1万人が負傷したといわれる。弾圧はさらに全国におよび、数千人が逮捕された。
 しかし、ヨーロッパでは話がちがった。ハンガリーは5月2日にオーストリア国境の鉄条網を撤去し、東西の国境を開放した。さらに9月10日には東ドイツとの国境を開放した。これにより、東ドイツの人びとは自由に西側に脱出できるようになる。
 ポーランドでは6月の選挙で共産党が壊滅的な打撃を喫し、9月には非共産党政権が誕生する。東ドイツでは大衆デモが広がり、10月にホーネッカー政権が倒れる。そして11月9日、ついにベルリンの壁が崩壊する。
 ベルリンの壁崩壊後、チェコスロバキアでもブルガリアでも一斉にデモがはじまり、まもなく共産党政権が瓦解する。こうした大変革はほとんど非暴力のうちにもたらされた。
例外はルーマニアである。チャウシェスク大統領は逮捕され、銃殺刑に処された。ブルガリアとアルバニアは変革が遅れる。ユーゴスラビアは分裂し、戦闘が各地域に広がった。
 1992年の時点で、ジョンソンの見方は楽観的だった。ポーランド、チェコスロバキア(のちふたつの国に分離)、ハンガリーの変革は根本的で、民主主義がしっかり確立されるだろう。東ドイツは存在しなくなり、ドイツ国民は統一することで意見の一致をみた。EC(のちEU)は拡大し、欧州統合に向かって進み、場合によってはロシアまでもがECへの加盟を検討するようになるかもしれない、というように。

〈ゴルバチョフはくり返しロシアはヨーロッパに属すると言明していた。ド・ゴールはまたイギリスが加盟国になる以前の1960年代には、共同体とは経済、政治上の概念ではなくてむしろ文化の問題であり、「ダンテ、ゲーテ、シャトーブリアンのヨーロッパだ」とも主張している。イギリスの加盟後はそれに「そうしてシェイクスピアの」を加えるのが公平だろう。しかし、ヨーロッパが文化連合なら、リスト、ショパン、ドヴォルザーク、カフカを生んだ国ぐにを排除するのがまちがいであるのはもちろん、長い目で見れば、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、チャイコフスキー、ストラヴィンスキーの故国を拒むのも容認できない。〉

 だが、ジョンソンの楽観がついえた最大の要因は、おそらくソ連の解体のされ方に紛争の根が取り残されたことだろう。
 とはいえ、ソ連邦が崩壊したのは事実である。
 地域民族問題が浮上してきたのは、ゴルバチョフによる市場経済への移行が失敗するのと同時だった。
中央アジアのいくつかの共和国は事実上KGBが君臨していた。しかし、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は、以前の完全独立をめざして運動をくり広げる。グルジア(ジョージア)も独立を要求した。ウクライナでも自治権要求の流れがおきる。南カフカズではキリスト教徒のアルメニア人とイスラム教徒のアゼルバイジャン人が戦闘を交えていた。
 ロシア国内では、ゴルバチョフの人気が急速に下がっていくなか、元党幹部のボリス・エリツィンの人気が高まっていく。エリツィンはモスクワ市の第一書記を務めていたときにペレストロイカの進み方が遅いと批判したためにゴルバチョフにより解任された。しかし、1989年3月の人民代議員選挙に立候補して返り咲き、90年5月にロシア共和国の実質大統領に選出されたのだった。
 こうして、ゴルバチョフが連邦中央を、エリツィンがロシア共和国を代表する二重体制ができあがる。そうなると、連邦と共和国との関係を定める新連邦条約をまとめなければならなくなる。
 そうしたなか軍やKGB、軍が政府を無視して動きはじめる。1991年8月17日から18日にかけ、クリミア半島の別荘で短い休暇をとっていたゴルバチョフは拘束され、軟禁状態に置かれた。
8月19日、病気によりゴルバチョフは任務が遂行できなくなり、国家非常事態委員会が結成されたとの放送が流れる。
 だが、クーデターは失敗に終わる。クーデターの発表を聞いたエリツィンがロシア共和国政府庁舎、通称「ホワイトハウス」に陣取り、クーデターの首謀者を逮捕するよう命令をだしたからである。
モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)の軍司令官も国家非常事態委員会の指示に従わなかった。数日のうちに、クーデター騒ぎは収まり、その首謀者は自殺、ないし逮捕に追いこまれた。エリツィンが政権を掌握し、ゴルバチョフは無事解放される。
 8月23日午後、エリツィンとゴルバチョフはロシア共和国最高会議で事件の経緯を説明することになった。その様子はロシアだけでなく、全世界にテレビで生中継された。このとき、ゴルバチョフはもはや自分が無力であることを思い知らされる。エリツィンはロシア共和国全土における共産党の活動を停止すると発表した。
 バルト三国は独立を認められた。つづいてウクライナを筆頭として、ソ連邦を形成している共和国が次々と独立を宣言する。12月21日には独立国家共同体(CIS)を発足させるという条約が11カ国によって結ばれた。その翌週、ソ連邦は正式に消滅する。クレムリンには最大の後継国家であるロシア共和国政府がおさまった。
 ロシアはもはや超大国ではなくなった。
「アメリカ合衆国だけが、事実上の超大国となった」と、ジョンソンは書いている。
だが、はたしてそうだったのか。楽観論が崩れていくまでに、さほど時間はかからなかった。

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