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高坂正堯の場合──大世紀末パレード(13) [大世紀末パレード]

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 1980年代のはじめから半ばすぎまで、京都大学法学部教授の高坂正堯(1934〜96)は中曽根康弘内閣の外交ブレーンとして活躍していた。
 だが、ブレーンとしての活動だけに注目すると、かれの政治学者や文明史家としての業績を過小評価しかねない、と高坂の評伝を著した服部龍二が指摘している。
 高坂正堯は、戦前京都大学でカント哲学を教えていた父、正顕の次男として生まれた。京都学派の一人として知られていた父は戦後、公職追放にあうが、まもなく復帰し、東京学芸大の学長などを務めた。
 正堯は戦後、京都大学で猪木正道や田岡良一のもとで学び、国際政治学の道へと進んだ。その秀才ぶりは早くから知られ、まだ20代の1963年に「現実主義者の平和論」を「中央公論」に発表している。理想主義的な非武装中立論にたいして、現実主義の立場から、勢力均衡論にもとづいて日本の安全保障を展望する論文だった。
 その後、数多くの論文を執筆しつづけ、そのほとんどが単行本としてまとめられている。主な著書としては『海洋国家日本の構想』、『国際政治』、『宰相 吉田茂』、『世界地図の中で考える』、『古典外交の成熟と崩壊』、『文明が衰亡するとき』、『外交感覚』、『日本存亡のとき』、『平和と危機の構造』、『不思議の日米関係史』、『世界史の中から考える』、『現代史の中で考える』などがある。
 加えて、佐藤栄作、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘の歴代総理のもとで外交ブレーンをつとめ、晩年は田原総一朗が司会を務めるテレビ朝日の「サンデープロジェクト」や「朝まで生テレビ」などにも出演していた。
 服部龍二は、そんな高坂のことを、国際政治学者として「オリジナルな世界を持ち、比類なきスケールを備えるオンリー・ワンの存在であった」と高く評価している。
 このブログのテーマ「大世紀末」を語るうえでは、高坂正堯は避けて通れない人物だろう。ところが、何もかもまるで「ゼロ」の政治嫌いのぼく自身は、これまで高坂の本をほとんど読んでいないときている。だから、少しずつ白紙を埋めていくほかないだろう。
 はじめに記したように、高坂は1983年8月から中曽根首相の私的諮問機関「平和問題研究会」の座長を務めていた。「総合的な安全保障政策」を提案するのが、この研究会の目的だった。
 しかし、もっと生々しくいうと、「防衛計画の大綱」と防衛費GNP1%枠の見直しが課題だったといってよい。
 これにたいし、高坂は翌年3月の中間報告で、「防衛計画の大綱」の見直しは不要、防衛費1%枠にさほど根拠はないが、何らかの新しい歯止めは必要であり、それができなければ当面1%枠を保持するという意見書を提出している。ちなみに、「防衛計画の大綱」は、専守防衛、非核三原則、周辺諸国に脅威を与えないことなどを基本としていた。
 だが、中曽根本人はこの意見書に満足しない。大見得を切って、アメリカのレーガン大統領に約束した手前もある。
 平和問題研究会の答申素案はその後3回にわたり出されたが、中曽根はそれに干渉し、「防衛計画の大綱」は見直すべきこと、防衛力の整備は「定性的」に(つまり状況に応じて)考えることを指示した。とうぜん1%枠の撤廃が示唆されている。
 こうして、中曽根の意見が取りこまれ、1984年12月に最終報告書が提出された。高坂にとっては不本意なものだったという。
 けっきょく中曽根にしたがうことになったものの、高坂はけっして「御用学者」ではなく、政府に批判的な見解ももっていた、と服部はあくまでも高坂を擁護している。
 高坂の「現実的」な考え方については、今後もふれることになるだろう。
 ここでは1985年8月に中央公論社から出版された高坂の外交時論集『外交感覚』のなかから、「五五年体制の功罪」(85年1月「日本経済新聞」)と題する、いかにも高坂らしい一文を紹介しておくことにしよう。
 五五年体制とは、いうまでもなく1955年体制のことだ。この年、日本では日本社会党(社会党)と自由民主党(自民党)が誕生した。そして、それ以降、国会の議席数でいえば、自民党と社会党がほぼ2対1で対抗する構図がつづく。1985年はまだそうした対抗図式が残っている時代だった。
 高坂は五五年体制を次のように説明する。

〈まず、それは基本的には自由民主党が与党に、社会党が野党に特化した体制であった。それまで離合集散をくり返していたとはいえ、いくつかの保守党が日本全国に持っていた地盤は圧倒的なものであったから、それらが合同すれば、その政権は相当永続的であることが運命づけられていた。逆に社会党は歴史が浅く、基盤が弱かったうえに、外交・安全保障政策において非現実的な立場をとることによって、政権党たることを自ら放棄してしまっていた。しかも、彼らは1960年代に入っても「非武装中立」に固執した。それは西ドイツの社会民主党が50年代末に中立政策を捨て、60年代に入って政権党へと前進したのと、まったく対照的である。〉

 非武装中立にこだわりつづけた社会党は、経済政策についても資本主義批判の立場しかとれず、そのため「日本の経済政策は優秀な日本の官僚たちが計画し、実施するようになった」。
 高坂によれば、「島国」の日本は「経済的発展以外に生きる道はない」というのが、一般的な合意だった。アメリカは日本の経済発展を妨げなかった。そして、社会党は国内諸集団の反対圧力を代表しながらも、野党でありつづけることによって、一貫して「自由な政府」、すなわち自民党政権が維持されてきたという。
 高坂は、いささかの皮肉をこめて、社会党の意義をこう評価する。

〈社会党の「安保反対」の立場は、日本がアメリカと軍事的に協力することにも、また日本が軍事費にカネをかけることにもブレーキをかけた。社会党が批判者の立場に徹していただけに、その反対は効果があった。それは社会党の日本への貢献だといえるだろう。少なくとも1960年代の半ばまで、日米軍事協力と日本の軍事力増強が抑制されたことは疑いもなく有意義なことだったからである。〉

 日本が軍事的な役割をはたさず、経済に特化することができたのは、五五年体制のおかげだった、と高坂はいうのだ。
 だが、日本が国際社会の「変わり者」として認められる時代がいつまでつづくだろうか。現にアメリカとのあいだでは経済摩擦問題が生じている。
 高坂はあまりにも成功を収めた日本の将来に不安を感じていた。

〈より平凡だが重要な問題は、永遠の与党と永遠の野党という特化が、長期的にはそのいずれをも不健全にさせてしまうという事実である。それは物質的および精神的腐敗を生む。自民党の金権体質は残念ながら周知の事実であるが、社会党の精神的腐敗も見逃せない。国民には到底理解しえないような理論闘争が党の動きを決めるという現状は、国民への責任を忘れた点で、政党としては腐敗である。また、こうした状況は、国民と政党の間にみぞを生ぜしめるものであり、政治への興味を減らすものであるから、いずれは「公共の精神」の衰弱も起こりうる。〉

 冷戦の終結とともに五五年体制は終結した。だが、その後の状況は1985年に高坂が指摘した事態から一歩も前進していないようにみえる。自民党の「金権体質」は相変わらずで、野党の「精神的腐敗」も克服されていない。政治への興味は薄れ、「公共の精神」が衰弱している。

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