SSブログ

ハーヴェイ『経済的理性の狂気』を読む(4) [商品世界論ノート]

81WQg3h-KXL._SL1500_.jpg
 じっさいには商品価値の実現には困難がともなう。平たくいえば、商品は生産者の思惑どおり売れないことが多いということだ。このことをマルクスは『資本論』で、「まことの恋がなめらかに進んだためしはない」と表現している。
 価値のなかに、価値自体を否定する可能性が含まれている。その否定性をハーヴェイは「反価値」と名づけている。資本を投入して商品をつくったのに、それが流通過程でまったく売れないという可能性はないわけではない。資本にとって、そうした「反価値」の恐怖は克服されねばならない。
「反価値」はどこにでもひそんでいる。材料不足や工場の事故、労働者によるストライキ、サボタージュ、流通のトラブル、支払いの遅れ、さらに不景気や恐慌。それらはすべて価値の実現を阻む「反価値」だ。
 商品の困難は、かならず資本を減価させる。資本の運動を遅滞なく進行させることが資本の使命だとすれば、その使命を実現させるために資本はあらゆる努力を払う。何よりも商品の価値をねらいどおりに実現させること、つまり投資以上の貨幣を回収することに全精力をそそぎこむ。
 市場で「反価値」がはたらいて、価値が実現できないときには、その理由はいったいどこにあるのだろう。売りだされた商品にたいして、だれも欲求や必要、欲望を感じないなら、その商品には(社会的な)価値がないというべきだ。また、商品が買われるためには、買い手がそれを買えるだけのじゅうぶんな貨幣をもっていなければならない。このふたつの条件がはたらいて、はじめて商品の価値は価値として評価され、実現されることになる。
 市場に存在するのは売り手と買い手である。資本家と労働者という社会関係は二の次になり、買い手こそが主役になる。消費者が集団化する場合には、消費者による不買運動さえおこりうる。資本家はこうした脅威が生じないよう万全の注意を払わなければならない。市場こそが商品の戦場なのだ。
「反価値」のもうひとつの大きな要素が負債経済だ、とハーヴェイはいう。
現在、資本主義を維持するには、債務が欠かせなくなっている。たとえば、機械には多くの資本が投入されるが、ある程度の使用期間がすぎると、機械の更新も必要になってくる。そのころには新しい機械もできていて、古い機械を使いつづけていては、激しい競争の時代に遅れてしまう。
 とはいえ、新しい機械を購入するために貨幣を貯蓄するのは、貨幣の死蔵ともいえる。そこで、信用制度(銀行)が救いの手を差し伸べてくれる。新しい機械を買うときに銀行からお金を借りればいいのだ。そして、機械の耐用期間が終わるまで分割払いで債務を返済すればいい。
 銀行から貸し出されるこうした融資は、総計すると巨額にのぼる。こうした債務は、マルクスの用語でいうと、利子生み資本にほかならない。それは貨幣に巨大な流動性をもたらす。
 信用制度は資本の流通の内部で形成される。債務とは、未来に実現される価値にたいする請求権といってよいが、ある意味、それは「反価値」でもある。債務は資本を動かす梃子(レバー)でもあるが、同時に資本を束縛する重荷ともなる。
 信用制度は資本の集中(大企業化)をもたらすいっぽうで、国家による保護を不可避とする。国家と企業は、いわば負債金融によって発展し、維持されている。そのたががはずれるときに生じるのが債務危機だ。
 資本が滞りなく運動するためには、活発な信用制度と開かれた貨幣市場がなくてはならない。いや、むしろ金融制度(負債)が価値の生産を後押ししているといえるだろう。
 現在、利子生み資本は巨大化している。古代ギリシアでは、借金の返済ができないと、多くの債務懲役や債務奴隷が発生した。そうした危険性はいまも変わらない、とハーヴェイはいう。富裕層は金融操作をつうじてますます豊かになり、そのいっぽうで債務の返済を迫られる貧困層はますます貧しくなるという現象が生じている。
「反価値」が巨大な姿をあらわすのは恐慌の時期である。そこでは大規模な「減価」が生じる。価値は実現されないまま、ケインズのいう「流動性の罠」によって反価値だけが膨らみ、そして崩れ去る。
 信用制度が終わりなき資本蓄積を推し進める力のひとつであることをマルクスも認めていた。だが、それは両刃の剣でもあった。
『資本論』には次のような箇所がある。

〈信用制度は生産力の物質的発展を加速し世界市場の創出をうながす。……それと同時に、信用は、この矛盾の暴力的爆発である恐慌を促進し、それとともに古い生産様式の解体の諸要素を促進する。〉

 金融業者は「詐欺師と予言者」の性格を兼ね備えているというのがマルクスの見立てだった。
現在のマネーゲームにたいするハーヴェイの見方はきびしい。そこからは何か新しい生産様式が出現する兆しもみられないし、ただありあまったカネで株や為替の操作がされているだけのようにみえるというのだ。
 バブルはいつか破裂し、悲しい終末を迎える。
 だが、たとえそれが恐慌をもたらしたとしても、恐慌は資本主義の終焉を意味するわけではなく、むしろ資本主義を再編成するお膳立てをつくるにすぎない、とハーヴェイは述べている。
 マルクス自身、「恐慌は、常に、ただ既存の諸矛盾の一時的な暴力的解決でしかなく、攪乱された均衡を一瞬回復する暴力的爆発でしかない」と考えていた。
 じっさい、恐慌は金融業者にかならずしも破滅的な影響をもたらすわけではなかった。恐慌によって価格は下落し、価値は減価されるかもしれない。だが、使用価値(たとえば土地不動産)はそのまま残る。金融業者はそうした使用価値を回収し、それを売却して利益を得ることができる。
「恐慌とは実のところ、価値生産と価値実現に関わるすべての人々に絶望を感じさせるとともに、反価値勢力[金融業者]にとっては勝利の瞬間でもある」と、ハーヴェイは記している。
 ここでハーヴェイは、流通過程において価値は生まれないとマルクスが考えていたことにあらためて注意をうながしている。流通過程(運輸費を除く)と国家行政にかかわる費用は、生産過程で生じた価値からの控除ととらえられていた。商品がかたちづくられるのは、あくまでも生産過程においてだからである。とはいえ、流通過程におけるコスト削減が、資本により大きな剰余価値を残すことはまちがいない。
マルクスにいわせれば、流通での仕事や官僚による統制、警察活動などは、たとえ必要な労働であっても不生産労働ということになる。したがって、不生産労働の部分が増えて、生産労働の部分が減るにつれて、経済は停滞すると考えられる。
 この章の最後に、ハーヴェイは反価値の政治力学について述べている。資本主義には資本の足をひっぱるさまざまな反価値が想定できる。とはいえ、究極の反価値が反資本主義運動であることはまちがいない。
 たとえば、商品世界の周縁に反資本主義的な生活共同体をつくることもそのひとつだろう。先住民の社会秩序はそうした生活共同体のヒントを与えてくれる。だが、そうした共同体は、商品世界によって都合よく利用されてしまう危険性(たとえば安価な雑用係というような)もはらんでいると指摘することもハーヴェイは忘れていない。
 資本は運動し、拡大しつづけるなかで、さまざまな対抗政治をつくりだしている。労働者は資本家によって雇用され、生産に従事し、商品をつくりだす。ところが、次第に商品をつくりだしているのは自分たちだという自覚をもつようになるだろう。ここから疎外なき自由な活動への潜在的可能性が生まれる、とハーヴェイはいう。
 資本は常に労働力商品の「減価」を画策している。そのいっぽうで労働者の未来の生活展望は、いわば債務懲役によってますます縛られようとしている。
 とはいえ、資本の秩序は不安定であり、その限界がますます明らかになりつつある、とハーヴェイは考えている。

nice!(12)  コメント(0) 

nice! 12

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント