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いまさら社会主義?──シュンペーターをめぐって(6) [経済学]

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『資本主義・社会主義・民主主義』の第3部「社会主義は作用しうるか」を読みはじめる。
 商業社会は社会主義社会に移行するというのが、シュンペーターのヴィジョンである。
 商業社会は生産手段の私的所有と生産過程の私的契約によって成り立っている。その発展形態が、信用創造(カネがカネを生む)という現象の加わった資本主義である。
 これにたいし、社会主義社会とは、社会の経済的な事柄が私的領域ではなく公共的領域に属している社会を指す、とシュンペーターは規定する。
 それは全体経済の把握という点で、中央当局の存在を前提とするが、かならずしも中央当局が絶対的な権力をもつことを意味しない。
 シュンペーターによれば、ソヴィエト型の集産主義ないし共産主義は、社会主義のひとつの型にすぎないとされる。
 社会主義はひとつの新しい文化的世界でもあると書いている。だが、シュンペーターは社会主義について語られるさまざまな美辞麗句を避け、「社会主義の文化的不確定性」について語る。
 社会主義は独裁的でも民主的でもありうるし、神政的でも無神論的でもありうるし、禁欲的でも快楽的でもありうるし、国家主義的でも国際主義的でもありうるし、好戦的でも平和的でもありうる。
 シュンペーターに言わせれば、社会主義は実際には文化的プロテウス(予言と変身を得意とする神)なのだ。
 ここでは発想の逆転がみられる。
 社会主義はひとつの経済様式にすぎないのだ。それは人民を救済するわけでも、人民を抑圧するわけでもない。それがどのような文化様式をとるかは、社会主義とはまったく別問題である。
 だとすれば、経済的に社会主義は機能しうるか。もちろん機能しうるとシュンペーターはいう。
 フォン・ミーゼスは市場のない社会主義は体制として成り立たないという考え方を示したが、それにはじゅうぶんな反論が可能だというのが、シュンペーターの立場だ。
 資本主義とちがい社会主義では生産と分配が分離される。
 社会主義経済の原則は平等主義である(もっとも年齢や社会的役割に応じてある程度ランクづけはなされるだろう)。
 人びとには一定の消費財への請求権を表現する証券が配られる(口座振り込みのかたちでもよい)。その総額は総社会的生産物の価値に該当する(保留分=国家共同体予算については社会的合意が必要だ)。その証券(カードでも紙幣でも)によって、人びとは食料や衣料、家財、家屋、自動車などを手に入れることができる。
 問題は限られた経済的条件のもとで、消費者の極大満足をもたらすように生産がいかになされるかということである。
 中央当局は各産業単位に生産財と用役を配分しなければならない。そのさい、各産業単位は消費者から支払われた証券によって、中央当局から生産手段を得て、もっとも効率的な生産をめざすことになる。
 生産財を含む生産手段の価格は、合理的費用計算によって、あらかじめ中央当局によって定められている。中央当局は需要に応じて、それを配分するだけである。
 社会主義は資本主義の生みだした一定の生活水準を受け継ぎ、それをできるかぎり平等にいきわたらせることを目的とする。
 社会主義のもとでは、経済の進歩はストップしてしまうのだろうか。
 新技術の開発や改良はとうぜん考えられる。そのために必要となる追加労働時間にたいしては、とうぜん支払いがなされなければならない。中央当局は国会の議決によって、投資のための予算項目を確保することができる。
 社会主義のもとでも職業選択の自由は認められなくてはならない。職業の種類と量はもちろんかぎられている。だれもが希望の職につけるかどうかはわからない。しかし、どのような仕事を選ぶかは各人にまかせられるべきだ。資本主義社会ほど極端ではないけれど、職業に応じて、支払われる金額はとうぜん異なってくる。
 資本主義社会でごく当たり前に使われている概念は、社会主義のもとではどのような変容をとげるのだろう。
 たとえば地代。資本主義のもとでは、地代とは土地の生産的使用にもとづく報酬を指す。この報酬はとうぜん土地所有者に帰属する。しかし、社会主義のもとでは、土地は私有財産ではない。したがって、その余剰は社会的簿記のインデックスに組み入れられることになる。
 所得についてはどうだろう。資本主義においては、それは生産にたいする報酬だ。これにたいし、社会主義のもとでは、各人に所得が配分される(ベーシックインカムが保証される)。だが、それはもはや賃金とはいえない。消費財にたいする請求権を示す労働証券である。
 利潤や利子、価格、費用といった資本主義的概念も社会主義のもとでは変容をとげることになるだろう。だが、名称はともかくとして、社会主義のもとでも類似的な現象が残ることはいうまでもない。
 シュンペーターは社会主義が資本主義の大企業体制を受け継ぐものだと考えている。完全競争モデルは、経済学者が理想とする仮説にすぎない。
 それぞれの大企業はひとつの経済単位として、民主的に選ばれた中央政府のもとで、生産を持続する。
 とはいえ、市場がないとすれば、経済的合理性も失われてしまうのではないのだろうか。
 これにたいしシュンペーターは、もし市場が存在しなくとも、当局があらゆる消費財にたいして、その重要度の指標を決定できるなら、計画経済はじゅうぶんに機能しうるという。
 ただし、社会主義機構は巨大な官僚組織(ないし市民ボランティア)の存在を必要とするだろう。
経済の合理的ないし最適な決定にとっては、社会主義経済と商業経済とのあいだに大きなちがいがあるわけではない。とりわけ今日、資本主義が大企業体制のもとで運営されていることをみれば、社会主義における経済決定はむしろ単純化されるだろう、とシュンペーターはいう。
 なぜなら、社会主義においては競争がなく、そのため産業や工場の管理者は、ほかの仲間の行動を容易に知りうるからである。中央当局も積極的に産業の情報を関係者に伝えることによって、経済はよりスムーズに運営されるようになるだろう。
 シュンペーターは、第2次世界大戦中に、きたるべき経済体制として、資本主義に代わる社会主義の青写真をえがいた。
 戦後、それはばかげた空想として葬り去られることになる。冷戦がはじまり、米ソ対立が激しくなって、社会主義は自由のない遅れた貧しい体制として排撃されることになる。
 しかし、資本主義国においても、かつての自由放任資本主義はもはや過去のものとなっていた。ケインズ主義のもとで、国家による経済のコントロールがあたりまえとなり、戦後の高度経済成長がもたらされた。
 それが限界に達すると、こんどはハイエクの新自由主義がもてはやされるようになった。
 マーガレット・サッチャーはある記者会見でハイエクの『自由の条件』をかかげてハイエク支持を表明し、シュンペーターの予測したような道を歩んではならないと話したという。
 それ以来、社会主義はますます時代遅れとみなされ、とりわけソ連崩壊以降は、マルクスやシュンペーターが予想したのとは真逆の、社会主義から資本主義への転換が叫ばれるようになった。
 だが、その新自由主義がいまはあやしくなっている。社会主義ははたして滅んでしまったのだろうか。
 シュンペーターの問いをもう一度振り返ってみよう。

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