SSブログ

自由民権運動──美濃部達吉遠望(9) [美濃部達吉遠望]

Itagaki.jpg
 西南戦争は日本での最後の内戦となった。その目的が、半ば独立国化していた薩摩をつぶす戦争だったとすれば、それはアメリカの南北戦争とも似ていた。
 いずれにせよ、西南戦争が終結することによって、ひとつの時代が終わり、あらたな時代がはじまった。この年、美濃部達吉は高砂小学校に入学したばかりだ。それから小野中学、神戸の乾行(けんこう)義塾を経て、東京に出るまでの10年間は、明治政府がさまざまな抵抗を振りきりながら、近代国家建設を急ぐ時代と並行している。
 そのあたりの流れをまとめておくことにしよう。
 西南戦争が終わった翌年、大久保利通が暗殺された。木戸孝允(たかよし)は戦争中に病死しており、権力に一種の空白が生まれていた。その穴を埋めたのが伊藤博文、井上馨、山県有朋、黒田清隆、それに大隈重信である。
 そのころから自由民権運動が盛んになった。征韓論争に敗れて政府を去った板垣退助は、その直後の1874年(明治7年)1月に、民選議院設立建白書を政府に提出していた。有司専制を改め、すぐに議会を設立するよう求めたのである。だが、その後、外征と内乱がつづいて、議会の設立問題は議論されないまま立ち消えとなっていた。
 そしていよいよ、自由民権の叫びをともないながら、議会設立要求が全国各地で盛りあがってくる。
その中心を担ったのは、政治の輪から排除された一家言ある処士たち、新たな時代に目ざめた豪農たち、政治に関心の強い知識人たちだった。
 かれらは全国で結社を立ち上げる。おのずと高知の板垣退助率いる立志社がいわばそのセンターの役割を果たすようになり、やがて全国組織の愛国社が生まれた。
 1880年(明治13年)、自由民権を唱える全国組織の愛国社は全国大会を開き、国会期成同盟を結成した。土佐の板垣退助を中心に、片岡健吉や福島の河野広中が立ち、国会の早期開設を求める声が広がっていく。
 慶応義塾の福沢諭吉はけっして自由民権派にくみすることはなかったが、多くの塾生を言論界や実業界に送りこむなかで、かれもまた国会開設を支持するようになった。
 こうした動きに政府も対応せざるをえなくなる。
 このころ、西郷、大久保なき政府で、大きな力をもつようになったのが財政を司る大隈重信だった。
 1880年(明治13年)、大隈重信は参議に昇格し、強気の殖産興業政策を推し進めた。西南戦争時に発行された膨大な不換紙幣がインフレを引き起こし、物価は2倍に跳ねあがっていた。にもかかわらず、大隈は強気の姿勢を崩さず、外債を導入して、さらに積極財政を維持しようとした。
 これに懸念をいだいた井上馨は伊藤博文や岩倉具視を動かし、外債募集を不可とする明治天皇の詔勅を得て、大隈の猪突猛進を阻止した。それにより西南戦争後のインフレ処理を優先することが政府の基本方針となった。
 政府内では薩長派閥のあいだから大隈にたいする不信が次第に高まっていく。そんなときにおこった重要課題が、全国に広がる国会開設要求に政府はどう対応するのかという問題だった。
 政府内の意見はほとんどが慎重論だった。まず経済の安定をはかり、民法や商法などの法制を整備することがだいじであって、やがて華族や士族のなかから議員を選んで、諮問会議のようなものをつくるようにすればよい。国会開設は時期尚早ということに政府の意見はまとまりつつあった。
 ところが大隈だけはちがった。大隈は来年1882年(明治15年)末に、総選挙をおこない、再来年に国会をひらくべしという意見書を左大臣の有栖川宮に提出する。しかも、そこには行政府は議院内閣制をとり、参議や省卿は議員から選ぶという内容が書かれていたから、伊藤や井上は仰天した。
 大隈の案はイギリス流の議員内閣制だった。福沢諭吉が会長を務める交詢社は、4月に大隈を後押しするように私擬憲法案を発表した。さらに8月には立志社の植木枝盛(えもり)が独自の日本国憲法草案を起草した。
 この年はいわば憲法ブームで、自由民権派のあいだから数多くの憲法草案がだされている。歴史家の色川大吉が多摩の土蔵から発見した「五日市憲法草案」もそのひとつだった。
 こうした動きに危機感をいだいた伊藤博文は、みずからも憲法作成の必要を感じるようになった。だが、憲法調査のために渡欧する前に、薩摩派に接近し、さらに岩倉具視を抱きこんで、緊急の御前会議を開き、大隈参議罷免を決定する。
 大隈はやむなく10月12日に辞表を提出した。その日、9年後の1890年(明治23年)に国会を開設するという天皇の詔勅が出された。
 これが明治14年の政変である。
 大隈が辞任したあと、明治政府の財政政策は大きく転換し、薩摩の松方正義による緊縮財政がはじまる。増税がはかられるいっぽう、濫発されていた紙幣が一挙に消却された。これにより、いわゆる松方デフレがはじまり、物価の下落とともに、不景気の波が広がっていく。
 国会開設の詔勅が出された直後、板垣退助を総理とする自由党が結成された。いっぽう、政府を追放された大隈重信は翌年4月に立憲改進党(略称、改進党)を結成した。
 ともに1890年の国会開設をにらんだ動きだが、松方財政に反対する点は共通しているものの、ふたつの政党は極端に仲が悪かった。
 改進党が『郵便報知新聞』や『東京横浜毎日新聞』などのメディアを通じて国民に訴える姿勢を重視したのにたいし、自由党は自由民権のスローガンのもと民衆運動をくり広げていった。
 これにたいし、政府は集会条例に加え、新聞紙条例や出版条例を改正するとともに、全国に警察網を張りめぐらせ、政党の監視を強めていった。
 おそらく自由民権が急速に広がった理由は、自由ということばが、束縛からの解放と受け止められ、それがしばしば勝手気ままをイメージさせたからである。
 ほんらい、自由とは個我の覚醒とそれにもとづく行動を意味する。だが、北村透谷のように自由を自己の内面のドラマとして受け止める者は少なかった。
 自由ということばは魅力的だった。それはとりわけ若者たちをひきつけた。自由民権は植木枝盛の「天賦人権論」、すなわち人にはそもそも自己の幸福を追求する権利が与えられているという考えと結びついて、若者たちのもやもやとした鬱憤(うっぷん)を解き放つ水路となっていった。
 言論・集会・結社の自由、財産権・生活権・参政権といった国民の権利(市民権)の保障、それが自由民権派のめざす最大公約数だったといえるだろう。
 自由民権は文明の合言葉になった。だが、それは対外進出(国権)の権利を正当化する論理とも結びついていた。
 自由党結成からまもない1882年(明治15年)4月、板垣退助は岐阜で演説を終えたあと、暴漢に襲われるた。胸の傷は浅かったが、そのとき犯人に向かって、「板垣死すとも自由は死せず」との名せりふを叫んだとされる。このテロ未遂事件により、自由民権運動はさらに盛り上がった。
 その後、傷の癒えた板垣は、かねてからの念願だった洋行の旅に出る。板垣自身は知らなかったが、そのカネは三井銀行から提供されたものだった。のちに改進党系の新聞は、板垣の洋行費は政府からでていると書き立て、自由党を攻撃する材料とした。
 板垣の洋行中、自由党は急進化していった。松方デフレのもと、窮乏する農村を背景に、福島事件や高田事件がおこり、多くの自由党員が逮捕された。
 急進化の勢いは止まらない。
 1884年(明治17年)5月には、群馬事件が発生した。自由党員にひきいられた農民3000人が妙義山のふもとに結集し、「むかし思えばアメリカの独立したるも蓆旗(むしろばた)、ここらで血の雨降らさねば自由の土台固まらぬ」と気勢を上げた。だが、蜂起計画そのものはお粗末で、たちまち警官隊に蹴散らされた。
 9月には加波山(かばさん)事件がおこる。栃木県令の三島通庸(みちつね)を暗殺する計画だったが、途中で露見し、16人が筑波の北、加波山に籠もった末、警察署などを襲ったものの鎮圧された事件である。
 そして、10月末には困民党を結成した秩父の農民が蜂起する。内務卿の山県有朋は憲兵隊に加え東京鎮台の兵を秩父に送りこみ、これを弾圧した。
 秩父困民党が蜂起する直前、板垣退助は大阪で自由党を解党した。さらに12月、大隈重信は立憲改進党から脱党する。
 こうして自由党と立憲改進党が空中分解したことにより、自由民権運動は冬の時代にはいった。
 美濃部達吉の少年期は、自由民権運動が盛り上がり、衰退していく時代にあたっている。だが、少年はまだ少年の夢を生きている。周囲では「末は博士か大臣か」という期待が、かれを包みはじめているが、それは本人のあずかり知らぬところだった。国家の学に取り組み、なまの権力を経験するのは、まだ先のことになる。
 帝国大学入学をめざして、達吉が東京に出たのは1887年(明治20年)。まだ14歳の少年は、はじめての東京にとまどうばかりだった。

nice!(11)  コメント(0)