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神戸で英語を学ぶ──美濃部達吉遠望(7) [美濃部達吉遠望]

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 小学校を卒業したあと、さらに学業をつづけるには中学校にはいるほかなかった。当時、近くの中学校といえば、北播磨の加東郡小野町(現小野市)の中学校くらいである。姫路にも中学校ができていたはずなのだが、学区がちがっていた。
 小野中学校は加東、美嚢(みのう)、多可、加古、明石の5郡連合の公立中学校として、1880年(明治13年)に発足した。校舎は旧小野藩の真如院殿に置かれていたという(小野陣屋内にあったのだろうか)。
 高砂と小野は20キロ以上離れているので、通うわけにはいかない。達吉は寄宿舎にはいった。1884年(明治17年)のことである。まわりはみんな年上なので、ずいぶんいじめられたという。
 だが、小野の中学は財政難のため1年ほどで廃校になる。そのため、達吉は神戸の県立病院に勤めていた義兄のもとに預けられ、乾行(けんこう)義塾という英語と漢学と数学を教える私立学校に通うことになる。
 この義兄とは、姉のみちが嫁いでいた井上学太郎のことである。このことを考えると、美濃部家では、姉のみちがいちばん年上で、次に長男の俊吉、次男の達吉、そして妹のゑみが生まれたことが確認できる。
 ちなみに、井上学太郎とみちとのあいだに3男として生まれた禎三(1898〜1987)は、堀越家に養子にはいり、戦後、経団連副会長などを歴任した。
 乾行義塾のことは、達吉自身の回想録「大学に入るまで」が再発見されるまで、よくわかっていなかった。
 息子の亮吉は、高砂の古老、伊藤長平から聞いた話として、神戸時代の父のことを、こう書いていた。

〈中学は高砂に近い小野中学校であった。中学校でどんな様子だったかは、その時の父を知っている人が全くいないので、皆目わからない。相変わらずの神童ぶりを発揮したことだろうと推測される。もしかすると、中学でも、級をとびこして進級したのかも知れない。
というのは、小学校で父より一級上だった伊藤さんという方の話によると、伊藤さんは順序をふんで小学校を卒業し、商業学校を出て、神戸のけんこう義塾(漢字不明)という英語、漢学、数学を教える塾で勉強することになったそうである。そこには父も通い、英語を勉強していた。ただし一級上だった伊藤さんよりはずっと早くからそこにおり、伊藤さんが行かれたときには、英語で演説するほどになっていたという。
 だから、伊藤さんの話によると、既に数年間けんこう義塾で勉強したと思われるし、そのためには、小学・中学を通じて、ずいぶんたくさんの級をとびこして進んだのでないと計算があわないということであった。
 とにかく、小さいときからひどく、頭がよかったらしい。しかし、本にかじりついてくそ勉強をするというたちではなかったようである。〉

 小野中学で父の達吉がずいぶんいじめられていたことを息子は知る由もなかった。しかも、そこを1年でやめたのは、とび級をしたためではなく、要するに学校が廃校になったからだということを父からも聞いていなかったようだ。
 高砂で達吉の1歳年上だった伊藤老人ものちに乾行義塾で学ぶようになった。そのとき、すでに英語で演説をしていた達吉の姿をみて、伊藤老人はさぞ驚いたのにちがいない。90歳近くなって、そのときの鮮烈な印象を亮吉に語っている。
 乾行義塾の思い出を達吉自身は次のように振り返っている。

〈ヒュースといふ英国人が校長で、校長夫妻とケンブリツジ大学を出たばかりのガードナーという若い教師とで、主に英語を教へていた。毎日午前中は、全部が英語の時間で、地理や歴史もその間に教えられた。教師たちは皆私を可愛がってくれたが、ことに若いガードナーは日曜日というとよく摩耶山や六甲山など近傍の山遊びに連れていってくれた。この三年間の英語の勉強は私の生涯に随分役に立つていることと思う。〉

 乾行は『易経』の「大川を渉(わた)るや乾行なり」からとられている。正道に従い、すこやかに努めおこなうという意味だそうだ。
 漢学や数学も教えていたというが、達吉は3年間、もっぱら英語で教育を受けたことを覚えている。漢学は従とみられていたようだ。
 この学校でも達吉はほかの生徒よりも年少だったのに、はるかに優秀で、秀才とみられていた。
 世界に開かれた貿易港の神戸には、当時、語学を教える学校が数多く設立されていたが、乾行義塾もそのひとつだった。
 乾行義塾の校長はヒュー・ジェームズ・フォス(Hugh James Foss 1848〜1932)で、当時、日本ではその名前をフォスではなくヒュースと呼んでいたらしい。そのため達吉も校長の名前をヒュースとして記憶している。
 フォスはイギリス聖公会の宣教師(のち主教)で、ケンブリッジ大学を卒業し、神戸に住み、宣教にあたるかたわら、1880年に三宮で乾行義塾を開き、日本の子どもたちに英語を教えるようになった。
 達吉が入学した1885年(明治18年)ごろは、英語教育のもっとも盛んな時代で、乾行義塾には二、三百人の生徒が通っていたという。
 それにしても、子弟に英語教育を受けさせようというのは、やはり新時代、明治の息吹である。
 達吉は英語を通じて世界に目ざめた。このとき学んだ英語は、その後、一生、役立つことになる。
 ちなみに乾行義塾は1889年(明治22年)に火災に遭って中山手通3丁目に移ったが、1910年のフォスのイギリス帰国にともなって廃校となってしまう。
 達吉は乾行義塾が火災に見舞われる前に、3年間の学業を終え、15歳で東京に出ることになった。
 のちに神戸聖ミカエル教会の牧師となるガードナー先生は、東京のショウという宣教師にあてて推薦状を書いてくれた。封がされていなかったので、中をのぞいてみると、この生徒は very young and clever と書かれていたので、達吉はすっかり気をよくした。
 このショウというのは、アレクサンダー・クロフト・ショー(1846〜1902)のことである。慶應義塾で教え、軽井沢に教会を建てたことで知られる。
 達吉は兄に連れられて、1887年(明治20年)9月、はじめて東京にやってきた。すでに兄の俊吉は大学予備門と呼ばれていた東京の高等中学に在籍していた。
 まだ東海道線が開通していない時代で、神戸から横浜まで船に乗り、三等船室で船酔いに苦しんだことを達吉はずっと記憶していた。

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高砂小学校──美濃部達吉遠望(6) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部研究会会長の宮先一勝さんには『評伝美濃部達吉』の著書がある。伝記としては、これにつけ加えるものは、あまりない。ぼくにできることは、達吉の生きた時代を遠くから眺めて、そのころの雰囲気を再現してみるくらいのものだ。
 達吉自身はみずからの詳しい遍歴を綴っていない。
 その思い出を記したものとしては、「大学に入るまで」、「大学を去るに臨みて」、「退官雑筆」の短いエッセイがある程度だ。
「大学に入るまで」には、子どものころの思い出が書かれている。
 その冒頭を読んでみよう(現代表記とし、漢字を仮名にするなどして読みやすくした)。

〈私の出身地は播磨で、相生の松で知られている高砂の町は、私の生まれた郷里だ。祖父の代から同町で医業を営んでいたが、そのころは医者というと、民間でも比較的には漢学などの素養のあった者が多かったらしく、私の祖父も、私の幼年のころは八十歳前後の老齢ではあったがまだ壮健で、私塾というほど大げさなものではないが、町の青年や少年を集めて四書五経などの素読を教えていたので、私もその中に交じって五つ六つのころから、三字経や千字文、大統歌などから始めて、四書、五経、日本外史、史記、左伝などの素読を祖父から教わった。
 意味もわからずにただ素読だけをするのであるが、それでも詩経などは成人になってからは一度も読んでみたこともないのに、語調のよいせいか今でもところどころ字句を覚えているのをみると、子供の時の素読の練習もあながち馬鹿にはならぬと思う。〉

 美濃部達吉は1873年(明治6年)5月7日に生まれた。達吉は次男で、3歳年上の兄(俊吉)と、姉、妹がいる。
 達吉が生まれたとき父の秀芳と母の悦は32歳、祖父の秀軒は71歳だった。1885年(明治18年)に84歳で秀軒が亡くなったとき、達吉は12歳になっていた。
 祖父から漢学の教えを受けたというのがほほえましい。そのころは四書五経をはじめとする儒学、日本外史や史記などの歴史が、江戸時代以来の一般教養としてまだ受け継がれていたのだ。
 明治になると国家による公教育がはじまる。達吉も小学校、中学校を経験している。

〈一体に早熟であったと見えて、今ならば規則違反でとうてい許されないことだが数え年の五つの歳、即ち満四年になるかならずに小学校に入れられ、十一の歳には、郷里から六里ばかり離れた今の県立中学の前身で、そのころは五郡かの連合で立てていた小野の中学校に入学することになった。学校には寄宿舎があって、そこに入れられたのだが、ほかの生徒たちはたいていは二三年から五六年も年上の人たちばかりなので、よく皆からいじめられたり泣かされたりしたことを覚えている。〉

 高砂町の東宮町に正式の小学校ができたのは1876年(明治9)のこと。それ以前にも寺子屋に毛のはえたような小学校もあったらしいが、それはすぐに廃止されたらしい。
 最初は偕老小学校と名づけられ、すぐに高砂小学校と改称された。達吉は町にこの小学校ができてからすぐに満4歳で入学している。このころの就学率は男子50%、女子20%と低かったらしい。町にまだ中学校はなかった。
 明治政府は1871年(明治4年)に文部省を創設し、翌年、学制を公布した。それまで武士以上にかぎられていた(高砂には申義堂という町人学校があったが)教育が全国民にほどこされることになった。
 その学制にいわく。

自今以後一般人民、華士族農工商及び婦女子、必ず邑(むら)に不学の戸(こ)なく、家に不学の人なからしめざるべからざるものなり。

 一般人民の義務教育、男女教育の機会均等、個性の自由尊重が高らかにうたわれたのである。
 この学制は、全国を8大学区とし、1大学区を33中学区に分け、さらに各中学区を210小学区に細別することを宣言していた。具体的には、8大学、256中学校、5万3760小学校が設けられる予定だった。
 だが、この計画は思いどおりにはいかない。文部省にはわずかの予算しかなかったのである。そのため学校の建設は地域にまかせるほかなかった。
 学制は強制的に実行されたものの、学校の建設は遅れ、地元民は大きな負担を強いられた。また義務教育とされながら、小学校で勉強するには月謝50銭(いまでいうなら5000円)を支払わねばならなかった。就学率が低かったのも理解できようというものだ。
 そのころ、達吉の父、秀芳は加古郡第4学区学務委員に任命されている
 小学校の学齢は満6歳から満14歳まででとされていた。しかし、達吉は満4歳で高砂小学校にはいり、11歳で中学校に進んだ。
 子どものころの達吉がどんなふうだったかをうかがう手立ては、息子の亮吉が高砂の古老に聞いた話として記述しているもの以外にない。
 美濃部亮吉の『苦悶するデモクラシー』には、こんな記述がある。

〈父[達吉]は、子供のときから変り者だといわれていた。どう変っていたのかはよくわからない。父とおなじ小学校にいたという二人の老人にいろいろ伺ってみたが、要するに同年輩の子供たちとなわ飛びや石けりなどをして遊ぶようなことは全くなく、ほかの子供たちなどはまるで相手にもしないという風だったということである。要するに子供のときから極端に人づき合いが悪かったようである。この習癖は死ぬまでなおらなかった。
 もう一つの特徴はいつも洟(はな)をたらしていたことだそうだ。鮭の頭だとか、ぼらだとかいうあだ名は、あの特徴のある頭の恰好と鼻の形からつけられたもののようである。そうして、その鼻は、鼻が悪いことから、ああいう特徴ある形になったように思われる。子供のとき、いつも洟をたらしていたのも、鼻自体が悪かったせいなのだろう。……
 変りものの洟ったらしの達吉さんも、学校では、文字通りの神童であった。小学校での美濃部の達吉さんは、ほかの子供たちとは、全然別格にとりあつかわれていた。そのころの小学校では、飛びぬけてよくできる子供は、一級ぬかしてその上の級に進学することが許されていたらしい。父はどんどん級をぬいて進級し、六年の小学校の過程を三年か、四年ですましてしまった。〉

 小学校令が出て、小学校が4年制の尋常小学校と4年制の高等小学校に分けられるのは、1886年(明治19年)のこと(その後、何度も修正が加えられた)。達吉が小学校に通ったのは、それ以前である。
 そのころ小学校は6年と定められていたわけではないから、亮吉の記述はあやまりである。実際には8年制だったようだ。日本の学校制度はころころと変わった。
 飛び級というのも伝説かもしれない。ただ、神童と呼ばれていたことはたしかだったようで、4歳から11歳まで高砂小学校で学んだあと、達吉は高砂から20キロほど離れた小野にある中学校に入学するのである。

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資本主義に代わるもの──シュンペーターをめぐって(5) [経済学]

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 シュンペーターが本書『資本主義・社会主義・民主主義』を書きすすめていたころには、まだ1929年の大恐慌の余韻がただよっていた。
 マルクス主義者は資本主義の終焉を唱え、ケインズ主義者は国家の積極的介入による資本主義改造を説いていた。
 シュンペーターはマルクスやケインズの側にくみしない。
 いまや投資機会が消滅しつつあるという議論も盛んになった。
 投資機会が消滅するのは、経済がいわば飽和状態に達するからだ。だが、長期的にはともかく、それをいまあっさり認めるわけにはいかない、とシュンペーターはいう。
 人間の欲望と技術の発展は、おそらく限度がない。それがつづくかぎり、消費は増え、需要も増えるだろう。
 いっぽう、出生率の減退が需要増加にブレーキをかける可能性もある。だが、逆に子どもの数が少なくなることによって、かえって消費が高まるとも考えられる。
 出生率の低下が生産を減退させるともかぎらない。死亡率が低下し、女性労働力が増え、労働節約的な工夫がなされるなら、生産はむしろ増えていく。
 土地や資源の開発が限度に達するという見方もある。だが、それはおそらく事実ではない、とシュンペーターはいう。むしろ、これからは技術力の発展が、豊富な食糧と原材料、鉱物資源をもたらすことになるだろう。
 地理上ではフロンティアは消滅するかもしれない。だが、経済においてはフロンティアの消滅はありえないのだ、とシュンペーターは断言する。
 新たな商品が生まれ、これまでの商品に取って代わることで、商品世界の様相は変化し、投資機会も次々と移り変わっていく。
 技術の進歩が究極に達し、もはや前進の余地がなくなるという議論にもシュンペーターは疑問を呈し、「技術的可能性は海図に載っていない海に等しい」と宣言する。
 技術的可能性は吸い尽くされることはないのだ。
 資本主義はすでに発展しつくし、これからは新たな資本財(生産財)の需要は見込まれず、あとは置換需要だけだという見方もある。だが、そうした悲観論もあたらない、とシュンペーターはいう。
 さらに、いまは資本節約的な時代で、かつての鉄道建設時代のような大型固定資本を必要としなくなったという意見もある。たしかに、そうした傾向はあるが、いまはむしろ一単位の資本が従来より高い生産効果を上げるようになっている事実をシュンペーターは指摘する。
 そのかぎりにおいては、投資機会はけっして減少せず、したがって資本主義がただちに崩壊する兆候は見られない。
 ケインズ主義者は、現在の投資機会分野は、私的企業よりも公共事業に求めるべきだという。都市美化や公衆衛生、通信、電力、社会保険も、たしかにそうだ。
 これからは、国家や地方自治体の経済部門が拡大されていくだろう。だが、それによって資本主義を担う民間企業が消滅することはありえない、とシュンペーターはいう。
 シュンペーターは、明らかに資本主義の可能性を信じているようにみえる。それなら、なぜ資本主義が社会主義に移行するのは必至だというのだろうか。

 シュンペーターは資本主義を単なる経済システムだとは考えていない。それをひとつの文明ととらえている。
 資本主義が合理的思考や合理的態度をさらに進めたことはまちがいない。貨幣は経済的合理性をはぐぐむ媒介物にちがいなかった。数学はけっして商業算術と無縁ではない。また資本主義が近代科学を促進したこともたしかだろう。
 近代の機械化された工場は、大量の生産物を生み出した。飛行機、冷蔵庫、テレビ、自動車などの製品、近代的医術に支えられた病院、これらも資本主義の産物である。さらに、衣服や建物、絵画や小説にも合理的思考の影響が認められる。
 その意味では、資本主義こそが近代の生活様式をもたらしたのだ、とシュンペーターはいう。
 さらに、自由主義や個人主義、民主主義、フェミニズムという思想も資本主義のもとで登場した。それは、神を恐れるより、人間を改良することをめざすべきだという功利的な精神のあらわれでもあった。
「近代資本主義社会におけるほど多くの心身の自由がすべての人に保証された時代はいまだかつてなかった」と、シュンペーターは書く。
 資本主義には貧民の苦痛を軽減し、大衆の利益を拡大しようとする手段、いや少なくとも意志が含まれていた。
 さらに資本主義は「反英雄的」であり、根本的に平和主義であり、そこには道徳的な戒律を国際関係にまでおよぼそうとする傾向がある。
「近代平和主義や近代国際道義はなお資本主義の産物たるを失わない」
 もちろん、こうした命題を虚偽だとする主張があること(とくにマルクス主義)、そして資本主義のもとで数々の悪行が重ねられてきたこと、実際に戦争が発生していることもシュンペーターは承知している。とはいえ、資本主義に以上の述べた傾向があることは認めなければならない。
 だからといって、資本主義がずっとつづくということにはならない、とシュンペーターは断言する。

 資本主義が行きづまるとすれば、それはどのようにしてだろうか。
 ひとつは、生産方法がこれ以上改善しえない状況に達することである。その場合、利潤と利子率はゼロに近づき、企業家の役割は企業の管理だけになってしまう。
 資本主義においては企業家の役割は、さまざまな新技術や発想を取り入れることで、商品の可能性を広げることに置かれていた。新商品をつくりだすだけではない。原材料の新供給源を見つけることや、商品の新販路を開拓すること、さらには組織改編により生産体制を向上させることもそのなかに含まれている。
 旧来の慣行を乗り越えて、信念をもって行動する力こそが、企業家の素質だといえる。
 しかし、こうした英雄的素質は次第に失われていくだろう、とシュンペーターはいう。革新そのものが日常化するなかで、企業の経営はますます専門家の仕事となっていく。
 シュンペーターによれば、「経済進歩は、非人格化され自動化される傾きがある」。
 そうなると、かつてのブルジョア階級は消え去り、官庁化した企業においては、経営の専門家があたかも官僚を束ねるようにして、巨大な産業単位を管理するようになる。

 ブルジョアのスピリットが失われるだけではない。その社会的地位もあやうくなっている。
 資本主義の発展は封建制度の破壊を促進してきた。しかし、いっぽうで、資本主義は封建制度に守られて、育ってきたともいえる、とシュンペーターはいう。そのことはイギリスの貴族が政治にはたした役割をみてもわかる。ブルジョアは王や貴族の威信のもとで、みずからの自由な経済活動を保証されてきたのだ。
 フィレンツェにしてもヴェネツィアにしても、ブルジョアに支配された都市国家は例外にすぎなかった。商人の共和国は、国際政治の大きな勝負ではつねに失敗した、とシュンペーターはいう。ブルジョア階級は政治的には無力であり、国民を指導しえなかったばかりか、自己の階級利益を守ることさえおぼつかなかった。そのため、ブルジョア階級はみずからを守ってくれる主人を必要とした。
 資本主義の発展は封建制度の枠組みを破壊した。それだけではない。資本主義を支えてくれた土台をも破壊しようとしている、とシュンペーターはみる。
 資本主義は小生産者や小商人の経済基盤を攻撃するにいたる。小農民や企業農はかろうじて保護された。その結果、何が生じたかといえば、大企業体制の確立である。中小企業は大企業に従属するかたちで、ようやく生き残る。
 そして、この大企業体制のもとで、私有財産やビジネスの意識は希薄となり、企業統治と称する計画的な官僚的支配が広がっていく、とシュンペーターは書いている。いまはブルジョアの時代ではない。大企業の時代なのだ。

 しかも、資本主義過程はみずからへの敵対的雰囲気をつくりだすことになる。資本主義は「最後には資本主義自体に反抗のほこ先を向けるようになる」。
 反逆はおかまいなしだ。大衆は長期的な展望などにかまっていられない。敵対的衝動が盛り上がり、社会不安が爆発する。
 民衆の不安を集約し先導するのが、体制に敵対する社会集団である。そして、知識人こそがこうした社会集団をつくりだすのだ、とシュンペーターは独自の「知識人の社会学」を展開する。
 知識人は直接事態にかかわらない傍観者ではあるが、大衆の名のもとに社会を批判する階層をつくりあげている。こうした知識人の生み出す言論が尊重されるようになったのは、資本主義のもとにおいてである。資本主義のなかから生じたこの潮流をせきとめることは不可能だった。
 大衆の生活水準が上昇し、余暇が増えるにしたがって、書籍や雑誌、新聞、ラジオが広く求められるようになり、知識人はそれらの媒体を大きな拠り所にするようになった。高等教育の拡充も知識人の増大に寄与した。
 知識人の増大によって社会批判的な意識が高まり、資本主義への敵対感情が発展する。
 資本主義は労働運動を生み出したけれども、それは知識階級の産物ではなかった。しかし、知識階級が労働運動に方向性と意味をもたらしたことはまちがいない。いまや大衆こそが知識人のパトロンとなった。
 知識人は直接政治に加わっているわけではないが、なんらかのかたちで政治に影響をおよぼしている。さらに現代のように公共管理の領域が拡大される時代には、増大する官僚のなかに知識人が流れこんでいく、とシュンペーターはいう。

 自然環境の制約や政治的な規制によって、産業王国の発展にストップがかかることはまちがいない。そのことのほうが、投資機会の消滅可能性よりもよほど重要な問題だ、とシュンペーターは書いている。
 しかし、資本主義の解体をもたらすのは外的な要因ばかりではない。内的な原因もはたらく。
 現在の実業家は官僚機構ではたらく給与所得者のようなもので、財産の所有意識は低く、ブルジョア意識に乏しい、とシュンペーターはいう。
 かつてのブルジョア家庭も崩壊してしまった。結婚にたいする意識も変わった。結婚はもはや財産ではない。家族にたいする考え方も変わり、子どもの数も少なくなった。
 ブルジョアたちはいまや大邸宅を捨て、家事使用人もいなくなり、こぢんまりと暮らすようになった。
「一方では小さくて機械化された世帯を営み、他方では家庭外のサービスや家庭外の生活を極大に利用しようとする傾きがある」のがいまのブルジョア家庭の姿だ。
 かつてのブルジョア的な家庭生活は、ブルジョア的な利潤動機の主動力となっていた。こうした古いタイプのロマンと英雄主義はもはや失われた。そして資本主義的な倫理も失われる、とシュンペーターはいう。
 ブルジョアのあいだでは、かせぎ、貯蓄し、投資するという熱意が失せ、反貯蓄的な気分がみなぎってくる。会社はもはや自分の企業ではなくどこか遠い法人となってしまう。こうして19世紀的な資本主義は自己崩壊に向かう。
「すなわち、事物と精神とがますます社会主義的生活様式に従いやすいように変形されていくのである」
 ここで、とつぜん社会主義がでてくるのは、びっくりするほかない。
 おそらくシュンペーターのいう社会主義を、ソ連や中国のような政治体制と理解するのはまちがっている。
 社会主義は単純に産業の国有化を意味するわけではない。社会主義には無限に多様な経済的・文化的可能性があるともシュンペーターは述べているからである。
 しかも、現実に社会主義が出現するかどうかもわからないという。シュンペーターが社会主義は土牢になるか天国になるかもわからないし、その前に戦争が人類を焼き尽くしてしまうかもしれないと書いたのは、まだ第2次世界大戦がつづいていたからである。
 資本主義には依然として活気があり、ブルジョア集団の指導力も完全には衰えておらず、中産階級もまだ大きな勢力を保っている。短期的にみれば、資本主義がもう一度成功を収めるという可能性はじゅうぶんにある。
 しかし、一世紀だって「短期」といえるかもしれないのだ。長期的にみれば、資本主義は限界に達し、社会主義の時代がやってくるのだ、とシュンペーターは予言している。
 シュンペーターにとって、資本主義の終焉は19世紀的な資本主義の解体を意味した。だが、その解体にともなって出現するものを社会主義と名づけるのが、はたして適切だったのだろうか。
 つづいてシュンペーターの社会主義論をみていくことにしよう。

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維新の波──美濃部達吉遠望(5) [美濃部達吉遠望]

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[高砂・十輪寺。ウィキペディアより]

 美濃部達吉の生まれた高砂という町は、さほど日本全国に知られているわけではない。
 だが、世阿弥のこの謡曲は、だれもが知っているだろう。

  高砂や この浦舟に 帆を上げて
  この浦舟に帆を上げて
  月もろともに 出潮(いでしお)の
  波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
  はやすみのえ[住吉]に 着きにけり
  はやすみのえに 着きにけり

 夫婦の変わらぬ愛と長寿を祈るおなじみの謡が朗々と響く。
 謡われているのは、じつは神霊の老夫婦[尉と姥]が、月に照らされた高砂の浦から船をこぎだし、淡路の島影をみながら、鳴尾(西宮)の沖を過ぎ、大坂の住吉神社に向かう場面である。
 播磨灘に面した高砂は、かつて姫路藩有数の商業地として知られていた。
 ほんとうは近世になってからつくられた町である。池田輝政が加古川東岸にあった町を西岸に移し、その後、計画的に方形の町割りが施され、周囲に堀川がめぐらされた。
 加古川を下った播州の年貢米は、高砂の百間蔵に集荷され、灘や大坂などへ送られた。塩や綿の積み出しがさかんになるのは、江戸時代中期以降である。
 そんな商業都市、高砂に姫路藩家老、河合準之助寸翁の肝煎りで、文化年間(1804〜18年)に準藩校として申義堂がつくられた。町の学問所である。高砂の少年たちに四書五経や小学、近思録、左伝(春秋左氏伝)などを教えた。
 美濃部達吉の父で、蘭方医の秀芳は、幕末になって、この申義堂の教授を務めた。
 申義堂は少年たちにしかつめらしく儒学の経典を教えていただけではない。教授たちも、その仲間も、みずからも研鑽に励んでいた。
 幕末が近づくと、この学問所にも尊皇攘夷の波が押し寄せる。人びとのあいだでは、朱子学に加えて、国学がとうとばれるようになった。
 とうぜん志士気分が盛りあがる。
 しかし、秀芳が政治活動にのめりこんだ形跡はない。父の後を継いで、あくまでも医の道に精進していたのだろう。
 町はずれの共同墓地(ぼくらはセンドと呼んでいた)には美濃部達吉の祖父秀軒(夫妻)と、父秀芳、その妻ゑつ(悦)の墓が残されていた。いまこの3墓は町なかの十輪寺に移設され、碑文も読むことができる。
 秀軒の墓碑を読むと、次のようなことがわかる。
 秀軒は1802年(享保2年)に加東郡木梨村(現兵庫県加東市木梨)に大熊清兵衛の5男として生まれ、努力の末、高砂の本町(おそらく北本町)に医者として開業した。妻は高砂の名家(儒者で医者)、三浦松石の娘で、秀軒のあいだに二男三女をもうけた。その次男が1841年(天保12年)生まれの秀芳、すなわち達吉の父である。
 大熊家に生まれた秀軒がなぜ美濃部姓を名乗ったのかはよくわからない。何か先祖にまつわる言い伝えがあったのかもしれない。
 達吉の父、秀芳(1841〜1904)は通称禎吉、霽海(せいかい[晴れた海の意])と号した。
 秀芳は1855年(安政2年)ごろ、兄良平とともに加東郡上見草村(現加東市)の蘭方医西山静斎に入門したが、静斎が急死したため、高砂に戻り、父のもとで引きつづき蘭方医術を学んだ。
 1866年(慶応2年)ごろ、加東郡古川村(現小野市)の儒医、井上謙斎の次女、悦と結婚した。2男2女にめぐまれている。
 達吉はその次男だが、長男の俊吉は、東京帝国大学卒業後、農商務省、大蔵省を経て、北海道拓殖銀行の頭取、朝鮮銀行総裁になった。
 2女のうち姉のみちは、神戸の外科医、井上学太郎の妻となり、妹のえみは、達吉の同窓で、のち台湾銀行理事となる南新吾と結婚した。
 父の秀芳は医者を開業するかたわら、町の学問所、申義堂の教授をつづけていたが、申義堂は維新の改革により1871年(明治4年)に廃校となった。それでも高砂の名士であることに変わりなかった。
 この年7月、廃藩置県により、高砂の属する姫路藩は姫路県となり、11月には飾磨県と改称された。
秀芳はさっそく新政府の飾磨県第6大区医務取締に任命されている。
 新政府の制度いじりは目まぐるしいほどだ。全国を統一的に支配するため、毎年のように行政組織を改編しつづけていた。全人民を掌握するための戸籍法が公布されたのも1871年のことだった。
 5年後の1876年には、飾磨県が廃止され、摂津、丹波、但馬、淡路島とあわせて、兵庫県となった。達吉が生まれたのはこの年だ。
 1878年(明治11年)、西南戦争の荒波を乗り越えた新政府は郡区町村編制法を公布し、さらに全国を細かく行政の網に組みこんでいった。
 高砂町は兵庫県加古郡に属することになった。このとき秀芳は加古郡第4学区学務委員に任命されている。学区を数字で分類するところに、新政府の近代的な統治感覚があらわれている。
 1880年には区町村会法が制定され、高砂町にも町会が設けられることになった。秀芳も高砂町会議員になっている。
 1888年(明治21年)、明治政府は郡区町村編制法に代わるものとして市制と町村制を導入した。自治を認めようというのではなく、むしろその正反対。翌年の憲法公布とそれにつづく帝国議会発足を前に、内務大臣や府県知事の権限を強化し、地方の統制をさらに強めることが目的だった。
 こうして、1889年に加古郡高砂町が新たな行政単位として発足した。
 このあたりの変遷はまことに目まぐるしい。
 新しい町では町会により町長が選出された。
 秀芳は1893年(明治26年)8月から97年7月まで第2代高砂町長を務め、1904年(明治37年)に数えの64歳で亡くなった。
 その墓碑に、長男の俊吉はおよそ次のように記している。

〈その[父、秀芳の]人となりは、恬澹(てんたん)として欲寡(すくな)く、栄利[栄達や利益]を慕わず、医術のかたわら子弟を集め、経籍を講じた。また、町の公務に参与し、公私のためにすこぶる尽力し、人びとから信頼された。晩年、妻を亡くしたあとは[妻の悦は1895年[明治28年]に55歳で亡くなった]、社交を謝絶し、古い友と酒を酌み交わし、詩を賦し、碁を囲んで、悠々自適の生活を送り、天寿をまっとうした。〉

 それが孫の亮吉(つまり達吉の長男)の筆にかかると、祖父の描写はよりドラマチックになる。

〈祖父は、医者ではあったが、あまりはやらず、町内の子供達に習字や漢学を教えて、主としてその月謝でくらしていたということである。
 したがってその生活もあまり豊かではなかったが、書や漢学においては高砂有数の学者として尊敬されていた。いわば、高砂における最大のインテリの一人であった。
 また、大へん酒が好きであった。もっとも、酒に乱れるということはなかったけれども、いつも酒を手元に置いて、番茶代わりに飲むという風であったらしい。
 そして碁も好きだったということである。祖母[悦]がまた大変な賢夫人であった。並々ならぬ知識と教養を持ち、祖父に代わって患者を診たり、書や漢学を教えたりした。達吉さんがあんなに偉くなったのは、悦さんのおかげだということに、高砂では意見が一致していたということである。〉

 無類の酒好きで、飄々(ひょうひょう)とした貧乏学者のイメージが浮かびあがる。世間の評判など気にもとめない理想の文人像とも受けとめられる。だが、おそらくこれは実像ではない。町長を務めたことからもわかるように、秀芳には政治家としての(たとえ政治家らしからぬ政治家だったとしても)素質も備わっている。
 そして、政治への関心はおそらく子の達吉にも、孫の亮吉にも伝わったものなのである。飄々としたなかにも、政治的信念が芽吹き、はぐくまれ、不動のものとなっていったことは、美濃部家三代に共通している。
 もうひとつ達吉が親から受け継いだ遺伝があるとすれば、それは酒と碁だった。これに相撲と芝居、映画が加われば、達吉の趣味はほぼ完結する。
 そうしたことを語るのはまだ早い。いまは達吉が生まれ育ったころに焦点を合わせてみることにしよう。

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創造的破壊──シュンペーターをめぐって(4) [経済学]

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 経済学で規定される完全競争はいかなる時代でも現実だったことはない、とシュンペーターはいう。1890年代以降は大規模企業が優勢になり、大衆の生活水準も上昇した。
 資本主義はそれ自体発展的であり、けっして静態的ではなかった。
「その運動を継続せしめる基本的衝動は、資本主義的企業の創造にかかる新消費財、新生産方法ないし新輸送方法、新市場、新産業組織形態からもたらされるものである」
 つねに新しい商品がつくられ、商品が改良されていく。古いものを破壊し、新しいものを創造して、たえず内部から経済構造を革命化する産業上の突然変異、すなわち「創造的破壊」こそが資本主義の本質だ、とシュンペーターは書いている。
 その過程はけっして連続的ではない。比較的平穏な時期のあと、いきなり突然変異が生じる。それが資本主義の特徴だ。つまり、創造的破壊が爆発的に生じるといってもよい。
 その点からいうと、経済学者の構築する価格競争や寡占産業の理論はあまりに教科書的である。重要なのは、新商品、新技術、新供給源、新組織形態の競争なのだ。
 たとえば小売業でも、経済学者はよく競争の原理を取り上げるが、現実に問題になるのは、百貨店やチェーンストア、通販店、特価市場の登場によって、小売業の構造が変わってしまうことなのだ、とシュンペーターはいう。

 従来の経済学への批判はつづく。
 これまで経済学は、独占企業や大企業が経済の発展を阻害すると批判してきた。だが、かならずしもそうではないというのがシュンペーターの見方だといってよい。
 経済の先行きが見えない時代においては、企業は慎重な行動をとる。商品の価格を維持するため、生産量を制限することで利潤を確保するのもそのひとつだ。要するに自己防衛に走ることになる。
 しかし、創造的破壊の過程においては、多くの企業が壊滅せざるをえない。ある種の産業は損失をこうむり、失業も発生するだろう。そのなかでも生き延びていく企業がある。
 カルテルやトラストをすべて有害だとする考え方は、かならずしも合理とはいえない。硬直価格についての議論も、あまりに完全競争の経済理論にとらわれすぎている。
 価格の長期的硬直性を示す実例はない。新商品はこれまでよりも安い価格で一定の欲望を満たすことになるだろう。いずれにせよ、価格は技術的進歩に適応し、相対的に低下していく傾向がある。
 それでも短期的には、価格はできるだけ高く維持されることになるだろう。だが、それによって不況がさらに深刻化する恐れは少ない。いっぽう価格が下がっても、生産量、雇用量、利潤が増えるとはかぎらない。それはかえって経済を不安定化させていくかもしれない。
 大企業の時代には、資本の温存がはかられるので、経済が進歩しなくなるという見方がある。だが、新生産方法が商品の単位あたり費用を安くすることが期待されるなら、大企業もそれをためらわないだろう。総資産の価値を極大化しようとするのは、大企業とて同じである。大企業は古い設備にこだわって、新しい機械を導入しようとしないというのもうそである。だが、それは設備改良の様子をみながら、慎重におこなわれるだろう。
 純粋な長期的独占はまれな現象である。鉄道や電気、ガスの会社も競争にさらされるし、それが公共事業と位置づけられる場合も、企業は独占的に行動していないかをチェックされるものである。
 独占という概念は実際にはあいまいで、むしろ心理学的だ。それは悪いイメージを呼び起こすために用いられてきたといってもいいくらいだ。そして、アメリカでは独占はほとんど大企業と同義語になりつつある、とシュンペーターはいう。
 経済学は独占状態においては、生産量が抑えられ、高価格が維持されると教える。だが、現実にはかならずしもそれは真実ではない。独占より競争がすぐれているとはかぎらない。それに独占や寡占のもとでも、商品が代替性や類似性をもつ以上、競争はかならず生じている。
 現代の経済は大企業による支配を特徴とする。それは創造的破壊の過程によって生まれ、また創造的破壊によって再編されていく。独占価格を含めて、その独占的地位はかならずしも保証されていない。正確な意味で独占的地位が得られるのは、ごく短期である。
 革新に成功した者には、特許や企業戦略などによって、独占利潤が与えられるかもしれない。だが、それも長期的に保証されるわけではない。
 もちろん新規参入や価格競争を否定するわけではないが、完全競争モデルが非現実的であることをシュンペーターはくり返し説明している。それどころか、このモデルに合致する無数の小企業からなる産業(たとえばアメリカの農業やイギリスの石炭業、繊維産業)は、しばしば生産方法の改善を怠り、経済に「不況の細菌をまき散らしやすい」とまで書いている。
 近代的産業においては「大規模組織が経済進歩、とりわけ総生産量の長期的増大のもっとも強力なエンジンとなってきた」ことを認めなければならない、とシュンペーターはいう。

さらに資本主義を論じるにあたっては、外部的な諸条件を検討してみる必要がある。シュンペーターは5つの外的要因を挙げている。

(1)政府の活動
(2)金の生産(貨幣)
(3)人口の増加
(4)土地(環境)
(5)技術的進歩

 これまでは、こうした外的要因が、資本主義の発展を支えてきた。しかし、はたして、これからはどうなるのか。
 シュンペーターの出す結論は驚くべきものだ。
 資本主義から社会主義への移行は必至だというのだ。
 いまでは時代錯誤と思える展開を引きつづき追ってみる。

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迫力の名演説──美濃部達吉遠望(4) [美濃部達吉遠望]

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 貴族院の本会議場では、美濃部達吉による弁明、いや正確にいえば菊池武夫の言いがかりにたいする反論がつづいている。
 天皇ははたして万能無制限の権力を有しているのか。そうではない、と達吉は断言する。

〈わが国体を論じまするものは、ややもすれば絶対無制限なる万能の権力が天皇に属していることが、わが国体の存するところなるというものがあるのでありまするが、私はこれをもってわが国体の認識において大いなる誤りであると信じているものであります。
 君主が万能の権力を有するというようなのは、これは純然たる西洋の思想である、ローマ法や17〜8世紀のフランスなどの思想でありまして、わが歴史上におきましてはいかなる時代においても、天皇の無制限なる万能の権力をもって臣民に命令したまうというようなことはかつてなかったことであります。
 天の下しろしめすということは、決して無限の権力を行わせられるという意味ではありませぬ。〉

 日本の歴史上、かつて天皇が無限の権力をふるったことはない。
 まして帝国憲法第4条には、「天皇は国の元首にして統治権を総攬しこの憲法の条規に依りこれを行う」と明記されている。
 つまり、天皇の統治の大権は、憲法の規定にしたがって発揮されるものだ、と達吉はいう。
 はっきりと口に出してはいないが、達吉は現代の日本の天皇が立憲君主であることを明言している。
 菊池はまた先週の議会で、美濃部の著書をこんなふうに批判していた。美濃部は議会は天皇の命令に服従しなくてもよいと書いており、それなら解散の命令があっても議会はそれに従わなくてもよいことになるではないか。
 そんなふうに、あやしげな美濃部批判をくり広げていたのだ。
 達吉はその言いがかりを一蹴する。
 こうした議論を持ちだすのは「同君がかつて私の著書を通読せられないか、または読んでもこれを理解せられない明白な証拠であります」。
 議会が天皇の大命によって召集され、またそれによって開会・閉会・停会および衆議院の解散を命ぜられることは、憲法第7条にはっきり規定されている。
 だが、憲法の規定にもとづかないまま、天皇が議会に命令することはない。自分が言いたいのはそのことだ、と達吉はいう。
 現に、菊池がしばしば内閣を批判できるのも(内閣に悪態をつけるのも)、議会の独立性を前提としているからだという皮肉も加えている。
 それでも、なかには議会が天皇の機関だという者もいる。
 それにたいし、達吉は、この考えはまちがっており、議会人は議会の独立性に誇りをもつとともに、みずからの立場を自覚するべきだ、と訴えた。

〈しかし、議会が天皇のご任命にかかわる官府ではなく、国民代表の機関として設けられていることは一般に疑われないところであり、それが議会が旧制度の元老院や今日の枢密院と法律上の地位を異にするゆえんであります。
 元老院や枢密院は、天皇の官吏から成り立っているもので、元老院議官といい、枢密院顧問官というのでありまして、官という文字は天皇の機関たることを示す文字であります。
 天皇がこれをご任命あそばされまするのは、すなわちそれにその権限を授与せらるる行為であります。
 帝国議会を構成しまするものは、これに反して議員と申し、議官とは申しませぬ。それは天皇の機関として設けられているものでない証拠であります。〉

 帝国憲法にもとづき、議会は貴紳を集めた貴族院と、庶民から選ばれた衆議院によって構成されるが、その設立目的は、両院あわせて、全国の公儀を代表することにある。そのことは伊藤博文公の『憲法義解』にもはっきりと書かれている。
 すなわち、議会はあくまでも国民を代表する重要な機関なのだ、と達吉はくり返し説明した。
 そして、自分に「学匪」、はては謀反人、反逆者と激しいことばを投げつける菊池に、こう反論した。

〈私の切に希望いたしまするのは、もし私の学説について批評せられまするならば処々から拾い集めた断片的な片言隻句(へんげんせきく)を捉えて、いたずらに讒誣(ざんぶ)中傷の言を放たれるのではなく、真に私の著書の全体を通読して、前後の脈絡を明らかにし、真の意味を理解してしかる後に批評せられたいことであります。〉

 自分の学説を批判するのであれば、言葉尻をとらえるのではなく、著書全体を読んで、その意味を理解してからにしてほしい。
 達吉はそう訴えたあと、「これをもって弁明の辞といたします」と述べ、1時間近くにわたる演説を終えた。
 異例なことに、議場からは拍手がおこった。
 この日、傍聴席で父の演説する姿をみていた長男の亮吉(のち東京都知事)は、この日の思い出を次のように書いている。

〈私も、父のこの弁明の演説をききに行った。貴族院は議席も傍聴席も超満員だった。坐る席がない所(どころ)か手すりによじ上(のぼ)らなければ、父の顔を見ることもできないほどの騒ぎだった。父は、東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかって作った原稿を手に、二時間[実際は1時間]に及ぶ弁明の演説を行った。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみていたが、なかなか迫力のある名演説であった。〉

 達吉のこの弁明によって、菊池による論難には根拠がないことがあきらかになった。これですべてが決着したように思えた。
 だが、そうではなかった。それまでほとんどだれもが知らなかった天皇機関説が波紋をおこすにつれて、日本はますますファシズム体制にのめりこんでいくことになるのである。

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資本主義はおしまい?──シュンペーターをめぐって(3) [経済学]

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 第2部「資本主義は生き延びうるか」にはいる。
 資本主義は生き延びることができるか。いや、できるとは思えない、とシュンペーターはいう。ウィットが好きな人だから、このことばにびっくりしてはいけない。
 本書の初版本が発行されたのは1942年、第2次世界大戦のさなかだった。自由主義的な資本主義は終わり、これからは社会民主主義の時代がはじまると感じていた。
 シュンペーターの社会主義は、プロレタリア独裁と官僚化と国有化の国家社会主義とはことなる。
そのことを念頭に、けっしてわかりやすいとはいえない、へそ曲がりの記述にあふれた本書を少しずつ読んでみよう。
 ここで展開されるのは、あくまでも事実と論証だ、とシュンペーターは宣言している。将来については「必然性」があるわけではない。あくまでも、こういうことが起こりうるというのにすぎない。予見には誤謬がつきものだ。それでも、事実と論証から、ひとつの太い線は描きだせるものだ。
 資本主義は失敗を重ねて崩壊するわけではない。むしろまれにみる成功を重ねた結果、不可避的に社会主義を志向せざるをえなくなるだろう、とシュンペーターはいう。
 ここで、ややこしいのは、シュンペーターが社会主義者ではないということである。自由資本主義のたそがれ、ヨーロッパのたそがれを見送ろうとしていたのだ。
 もしさらに20年生きながらえて、戦後の繁栄をみていたなら、どんな感想をいだいたかは想像するほかない。しかし、現在の21世紀はじめが、またひとつのたそがれなのだとしたら、戦時中にいだいたシュンペーターの寂寥感も、また現代に通じているとも考えられる。
 シュンペーターは資本主義のたそがれを、どうみていたのだろう。
 不思議なことに、当時アメリカでは資本主義はもう終わりだという雰囲気が広がっていたことがわかる。だが、逆にへそ曲がりのシュンペーターはむしろこれに反発している。ルーズヴェルトは大嫌いなのだ。
 経済的成果を示す概数のひとつが総生産量指数であることはまちがいないところだろう。そこでシュンペーターは、その指数を検討し、1870年から1930年までのあいだに、アメリカが年平均で2%の実質経済成長率を達成したきたことを示す。1929年には大恐慌が発生したが、それは資本主義の長期循環のひとつであって、何も特別なことではない。その後、徐々に景気は回復している、とシュンペーターはいう。
 これからもし2%の割合で経済が成長していけば、50年のあいだに一人あたりの平均所得は2倍になり、富者と貧者の格差は縮まり、貧困は解消されるだろう、とシュンペーターは予測する。
 2%という指数はあくまでも1870年から1930年のあいだの傾向から割り出されたもので、ここでは画期的な新商品の登場や、品質の改良、技術進歩、経済効率の向上といった要素は含まれていない。
 経済成長率という指数がだいじなのは、何も生産がどれだけ増えたかを示すからではなく、人びとがどれだけ満足な生活ができるようになったかをが示すからだ、とシュンペーターは書いている。
 現代の労働者は、ルイ14世が望んでも得られなかったようなもの──たとえば虫歯の治療──も手に入れているし、エリザベス1世がようやく確保した絹の靴下も数多くもっている。ごくふつうの人が、安価な衣料、靴、それに自動車さえ買えるし、電灯だって利用できるようになった(シュンペーターの時代はまだ電化製品がそれほど普及していない)。
 これらは資本主義によって実現されたものだ。
 シュンペーターは産業革命以来の資本主義の長期波動を次のようにとらえている。
 ひとつは1780年ごろに発生し、1800年ごろに最盛期を迎え、それから下降して1840年ごろの回復で終わる産業革命の波動。
 もうひとつの波動は1840年代に発生し、1857年ごろ頂点に達し、1897年に終わる。そして、その後、1911年に頂点に達し、1940年代に終わる波動がつづく。
 こうして並べると、シュンペーターは約55年を長期波動の循環サイクルととらえていることがわかる。いわゆるコンドラチェフ循環である。
 この伝でいうと、1940年代半ばから2000年にかけて(1970年代をピーク)の波動があったことになるが、はたしてあたったかどうか。
 しかし、シュンペーター自身は、1940年代からのコンドラチェフ循環を信じることなく、資本主義の終焉ないし転換を想定していたようにもみえる。
 それはともかく、資本主義にこうしたうねりが生じるのは、新生産方法、新商品、新組織形態(企業合併など)、新供給源、新取引ルートや新販売市場などが開発されるためだ、とシュンペーターはいう。そして、その効果がなくなって、経済が硬直化してくると、長期の不況が生じるようになる。
 ブームは消費財の奔流からはじまる。それらはすべて大衆消費の品物だ。資本主義には、大衆の生活水準を徐々に上昇させるメカニズムが備わっている、とシュンペーターはいう。これにより、農産物にせよ、住宅にせよ、多くの商品が大量に供給されるようになった。
 しかし、そうはいっても、資本主義のもとで、大量の失業が発生しているのは事実である(1929年には大恐慌があった)。
 シュンペーターはそのうち失業は解消されるとも、ますます増大するとも言っていない。失業はどうしても発生する。失業には循環的な傾向がみられるが、新たな産業への適応ができないといった側面もある。
 問題は経済発展を阻害することなく、失業者をじゅうぶんにケアできる体制を整えることだ。
「われわれの生きている時代は、資本主義発展の初期の無能な時代と、十分に成熟した資本主義の有能な時代との中間のどこかである」
 シュンペーターは、資本主義の発達にともない、政府と民間が協調することで社会保障体制がつくられていくものと考えている。
 以前の50年の増加傾向が、そのまま以後の50年にも持続するかどうかは、はなはだ疑問である。それでも、その可能性について検討してみなくてはならない、とシュンペーターはいう。
 資本主義のエンジンは、はたして次の50年も同じように動きつづけるか。資本主義を動かしているエンジンはなにか。
 シュンペーターによれば、資本主義社会は一種のゲームの世界だ。
 事業家はその事業によって富を約束されるか、破産の脅威にさらされるかのどちらかである。
 富が約束されるのは、仕事にたいして才能と精力と並はずれた力量をもつ人にかぎられる。かれらの前には大きな賞品がぶらさがっており、それを獲得するチャンスは対等に与えられていると信じられている。そのため、だれもが自己の最善を尽くしてやまない。だが、ポーカーと同じで、成功か失敗かは、おそろしいほどはっきりする。
 資本主義体制のもとでは、成り上がったり、内部で出世したりする人が、とりあえず有能な実業家とされる。そして、かれらは自己の能力のつづくかぎり実業家の道を歩みつづけることになるだろう。こうしたゲームに勝とうという習性が、いわば資本主義を動かすエンジンになっている。
 古典派の経済学者(スミスやリカード、ミルなど)は、実業家が利潤の極大化をめざすものと考えた。だが、古典派の功績は、利潤をめざすからといって、それが労働者や消費者の利益に反するわけではないことを論証したところにある、とシュンペーターはいう。
 古典派は貯蓄と蓄積を結びつけ、経済は進歩すると想定した。だが、その理論はかならずしも厳密に証明されたものではなかった、とシュンペーターはいう。古典派の経済学は、いわばはりぼての理論である。
 マーシャルやヴィクセルは完全競争の仮説をもとに緻密な経済理論を構築した。独占や不完全競争の場合は、あくまでも例外とされていた。だが、むしろ例外的なのは完全競争のほうなのだ、とシュンペーターは切り返している。
 完全競争は一部農産物などの場合でしか成立せず、その場合、生産者も消費者も、みずから価格を決定することができない。価格は完全競争理論にもとづいて調整されることになる。
 しかし、それ以外のたいていの商品は独占的競争のもとで、製造業者によって価格が決められる。そこでは、製造業者は価格戦術や品質戦術(ブランド)、広告などを用いて、みずからの商品市場を維持するよう努めているのだ。
現代の市場は、むしろ独占的競争や寡占が支配的だといってよい。そこではマーシャルやヴィクセルの命題は当てはまらない。ここには確定的な均衡はなく、企業間のたゆまぬ競争状態がつづく。古典派が想定したような完全雇用も生産量極大も保証されていない。
 棲み分けによる独占的競争や少数の売り手しかいない寡占が市場を支配するようになると、資本主義はいったいどうなっていくのか。シュンペーターが懸念したのはそのことだったといってよい。
 話はつづく。

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天皇機関説──美濃部達吉遠望(3) [美濃部達吉遠望]

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 静まりかえった貴族院の議場で、美濃部は菊池への反論を開始する。

〈菊池男爵は私の著書をもって、わが国体を否認し、君主主権を否定するもののごとくに論ぜられておりますが、それこそ実に同君が私の著書を読まれておりませぬか、または読んでもそれを理解せられておらない明白な証拠であります。わが憲法上、国家統治の大権が天皇に属するということは、天下万民一人としてこれを疑うべき者のあるべきはずはないのであります。〉

 国家統治の大権が天皇に属することは帝国憲法に明記されており、それを疑う者はいない。まして、私の著書に、国体を否認し、君主主権を否定するようなことは、どこにも書かれていない、と美濃部は言う。
 さらに、達吉は日本の憲法の原則は、君主主権主義に立憲主義の要素を加えたもので、このことは「将来永遠にわたって動かすべからざるもの」だと強調した。
 ただし、天皇の統治大権は万能無制限の権力ではなく、憲法によって定められた権能だと説明した。
 天皇はけっして自分の利益のため、あるいは自身の目的のために、国家統治の大権を有しているわけではない。

〈天皇はわが国開闢(かいびゃく)以来、天の下しろしめす大君と仰がれたもうのでありますが、天の下しろしめすのは、けっしてご一身のためではなく、全国家のためであるということは、古来常に意識せられていたことでありまするし、歴代の天皇の大詔(たいしょう)のなかにも、そのことを明示されているものが少なくないのであります。〉

 天皇が統治するのは、自身のためでも、その一家のためでもなく、国家のためだ、と達吉は強調する。さらに、そこが日本が西洋とちがっているところで、西洋では国王が国家を私物化することがあったが、日本ではこうしたことは一度もなかったと論じた。
 このあたり、達吉の弁論は巧みである。西洋にない日本のよさを示して、軍人出身者を含む議員たちの矜持(きょうじ)をくすぐっている。
 憲法をつくった伊藤博文の考えを紹介し、さらに『古事記』の一節を取り上げながら、天皇が統治するのは、私のためではなく、あくまでも天下国家のためだということを、さらに強調する。

〈しこうして、天皇が天の下しろしまするのは、天下国家のためであり、その目的の帰属するところは、永遠恒久の団体たる国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言い換えれば、国の最高機関としてこの国家の一切の権利を総攬(そうらん)したまい、国家の一切の活動は立法も司法もすべて天皇にその最高の源を発するものと観念するのであります。〉

 まわりくどい言い方だが、要するに天皇は国家の元首であり、国の最高機関として国家の一切の活動を総攬するのだという。
 そのうえで、達吉は天皇機関説について説明しはじめる。

〈いわゆる機関説と申しまするのは、国家それ自身で一つの生命あり、それ自身に目的を有する恒久的の団体、すなわち法律学上の言葉をもってせば一つの法人と観念いたしまして、天皇はこの法人たる国家の元首たる地位におわしまし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬したまい、天皇が憲法に従って行わせられまする行為が、すなわち国家の行為たる効力を生ずるということをいい表わすものであります。〉

 国家はひとつの生命であり、それ自体、目的を有する法人と考えられる。天皇はその法人を代表する最高位にあって、国家の一切の権利(活動)を総攬する立場にある。天皇機関説は天皇がそうした立場にあることを示す学説にほかならない、と達吉はいう。
それであるがゆえに、天皇が憲法にしたがっておこなう行為は、国家の行為としての効力を発揮するのだ。
 国家を法人としてとらえるというのが、ドイツのイェリネックから受け継いだ美濃部学説の肝だったといえる。ここでいう法人とは、無形人でありながら、法律上の諸権利を認められた団体をいう。
 国家はそのような法人(団体)として、税を徴収したり、条約を締結したりといった国家的な行為をおこなう権利を有している。そして、その法人を代表して、その最高機関におわすのが天皇なのだ、と達吉は説明した。
 さらに、こうつけ加える。

〈率然として天皇が国家の機関たる地位にありますというようなことを申しますると、法律学の知識のない者は、あるいは不穏の言を吐くものと感ずる者があるかも知れませぬが、その意味するところは天皇はご一身、ご一家の権利として、統治権を保有したまうのではなく、それは国家の公事であり天皇はご一身をもって国家を体現したまい、国家のすべての活動は天皇にその最高の源を発し、天皇の行為が天皇のご一身上の私の行為としてではなく、国家の行為として、効力を生ずることを言い表わすものであります。〉

 こうした説明も、国家が法人だとする規定から出発している。法人の代表は、いうまでもなく公人であって私人ではない。
 しかも天皇はただの公人ではなく、国家の統治権を総攬する公人なのだ。その点を誤解しないよう、達吉はさらにことばを重ねた。

〈もちろん統治権が国家に属する権利であると申しましても、それは決して天皇が統治の大権を有せられることを否定する趣旨ではないことは申すまでもありません。
 国家の一切の統治権は、天皇の総攬したまうことは憲法の明言しているところであります。
 私の主張しまするところは、ただ天皇の大権は天皇のご一身に属する私の権利ではなく、天皇が国家の元首として行わせらるる権能であり、国家の統治権を活動せしむるか、すなわち統治のすべての権能が天皇に最高の源を発するものであるというにあるのであります。〉

 帝国憲法では、すべての国家の権能が天皇に源を発し、天皇は公人として統治権を総攬すると規定されていることに、達吉はあらためて注意を喚起する。
 そのうえで、天皇ははたして万能の権力を有するのか、統治権を総攬するとは、いったいいかなることなのか、と問うのである。
 帝国議会で、天皇とは何かについて、これまでこのような本質的な議論がおこなわれたことはない。
 美濃部の説明を前に、議員たちはかたずをのんでいた。

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