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明治国家論──美濃部達吉遠望(28) [美濃部達吉遠望]

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 美濃部達吉の『日本国法学』上巻上は、総論として、いわゆる国家論を論じていた。その内容は数年前から早稲田大学や日本大学で達吉がおこなってきた憲法講義と重なっている。達吉の講義はノートやメモを見ることもなく、理路整然とおこなわれたと伝えられるが、それはおそらくかれが講義の都度、少し角度を変えながらも、同じテーマを何度もくり返し語っていたからである。
『日本国法学』は、それまでいくつかの私立大学でおこなってきた憲法講義の内容について、言い足りなかった部分を含めて、みずからの筆で、さらに精緻化し、学術的にも申し分ないものとして鍛えあげたものだったといえるだろう。それはしっかりした石垣の建設をめざして、あたかもひとつずつ石を積むように綿密に築かれていた。
 最初に国家は社会現象であると同時に法律現象であることが示されているが、本書では法律上の観念としての国家を取り扱うという限定がなされている。すなわち「国法学」においては、形式としての国家を論じるものとされている。
 国家とは何か。
「国家は一定の地域を基礎とする多数人類より成り自己に固有なる統治権を有する団体なり」(原文カタカナ)
 達吉はそう規定する。
 領土と国民と統治権が国家の3要素である。
 そこから始まって、多くの学説が紹介されているが、やはり重要なのは、達吉が国家法人説を唱えていることである。
 天皇機関説も国家法人説抜きには成り立たない。何度も同じ話をくり返すことになるかもしれないが、国家法人説がどういったものかを、もう一度、達吉の説明によってふり返っておこう。
 国家は永続的かつ統一的な団体として、統治権を有する法人である、と達吉はいう。法人は抽象的な人格者として固有の意志を有している。団体が個人と同じく意志をもつのは事実であって擬制ではない。その意味で、団体もひとつの人格であって、法人と認められるというのが達吉の考え方である。
 そのままの引用では読みづらいので、口語に直しておこう。

〈意志がなければ権利はなく、人格もない。団体を人格者(法人)というときは、必ず団体に意志の力があることを前提とするものだ。団体に意志があるというのは、怪訝(けげん)に思えるかもしれないが、社会の実際を見ると、少しもあやしいことではないことがわかる。団体が一定の目的をもつことを認めるとするなら、団体に意志の力があることを認めるのは論理上の必然だ。……社会生活の実際においては、全団体[国家]の目的のためにおこなわれる意志活動は、その意志を発した個人の意志ではなく、全団体の意志とみなされる。〉

 国家という団体は、個人が意志を有するにように、法人としての意志を有し、法人として独立したものである。
 ただし、国家という法人が、組合や政党、学会などの法人と異なるのは、国家がそれ自体法人として存在するのにたいし、組合や政党などは国家によって、はじめてその法人性を認められる点にある、と達吉はいう。
 さらに、法人としての国家が他の法人と異なるのは、国家という法人が統治権をもっていることだ。

〈国家は単なる法人にとどまらず、統治権の主体なのである。国家は自己の権利として統治権をもち、この権利によって臣民に命令し、その命令を強制する力をもっている。臣民に命令するものは国家自身であって、治者は国家の機関として国家の意志を発するのである。〉

 国家を団体ととらえる考え方はもちろん古くからあるが、そのことが意識されたのは19世紀になってからだった。というのも、一般に国家が成立するのは、政治権力が社会を統一的に掌握することによってだが、そのことによって、ただちに国家が共同的意志をもつ団体になるとはかぎらないからである。
 国家を団体、さらには法人ととらえる達吉の発想は、国家を外部的な暴力装置としてではなく、国民を構成員とする共通の利益団体ととらえるもので、近代的な発想だったといえるだろう。
 国家法人説が正しいのは、この見解を認めることによって、国家に関するすべての法律現象を矛盾なく説明できるからだ、と達吉はいう。
 統治者が代わったり、被治者が新陳代謝しても、永続的団体である国家は中断されるわけではない。すなわち国家は不可分の統一的一体性をもっている。また国家が活動力をもっているのも、それが法人だからだ、と達吉は強調する。
 本書ではさまざまな政治概念が説明されている。統治権、主権の概念、国家権力の問題、国体、三権分立、国家と法の関係などについては、前に早稲田大学での憲法講義で紹介したところでもあるので(それよりもはるかに厳密な規定となっているが)、省略することにしよう。
 国家の機関がどのようにとらえられているかについてだけを、少し詳しくみておく。
 国家は統一的な意志を有する法的な人格だ、と達吉はいう。しかし、その統一的な意志が形成されるのは、国家の機関においてである。機関なくして、国家は成立しない。
 国家の機関に携わるのはいうまでもなく人である。人は法の定めるところによって、こうした機関のもとで、みずからの意志を表明し、その意志が国家の意志として効力を発揮することとなる。
 ただし、国家の機関はそれ自身の目的のために存在するのではなく、あくまでも国家の目的のために存在する。機関はあくまでも国家の一部であって、その職分の範囲内において、国家のためにその意志を表示するのだ、と達吉はいう。
 国家の機関は数多くあり、その職分として処理すべき国家的事務を定められているが、その職分に応じて機関としての権限を有している。たとえば法律や予算を議決し、緊急命令に承諾を与えるのは議会の権限である。いっぽう法律を裁可し、議会を召集し、議会の閉会、解散を命じ、官吏を任命するのは君主の権限である。
 そうした法律上の権限が定められている点において、立憲君主制のもとでは、君主もひとつの国家機関だということができる、と達吉は論じている。
 国家の機関と、機関の地位にあたる個人とは明確に区別されなければならない。たとえ個人の意志がそのまま国家の意志となることがありうるとしても、国家機関の意志は個人の意志とは次元が異なる。国家機関のおこなう権利は国家の権利であり、その負う義務は国家の義務となる。
 国家機関の地位に就くことは、憲法あるいはその他の法律によって定められている。たとえば皇位継承もそうであるし、摂政を置く場合もそうである。議員は選挙で当選することによって、議会の一員となる。
 君主や議会などの国家機関は直接機関と呼ぶことができる。直接機関は国家存立の要件であって、こうした直接機関が消滅することは、国家の滅亡、あるいは革命による国体の変更を意味する、と達吉は説明する。
 国家機関は主動機関と制限機関、第一次機関と第二次機関あるいは直接機関と間接機関に区別することもできる。君主が第一次機関だとすれば、議会は第二次機関である。しかし、たとえ第二次機関だとしても、それが憲法によって独立性を保証されていることはいうまでもない。
 こうした区別は国体のちがいによって異なる。君主専制国においては、直接機関は君主のみで、その他のすべての機関は間接機関である。いっぽう、立憲君主国においては、常にふたつ以上の直接機関が存在する。立憲君主国においては、君主と議会とがともに直接機関である。共和国においては議会と大統領が共に直接機関となる。
 立憲国においては、君主と議会が並び立つために、その関係は単純ではない。君主専制国においては、国権のすべてが君主の一身に発し、君主だけが国権のすべてを総攬(そうらん)する。立憲国においてはこれに反して、国権は一定の秩序をもって各直接機関のあいだに分配されることになる。
 わが国の場合は、主動機関としての直接機関はただ君主のみであって、議会は君主の国権の発動を制限する力を有するにとどまり、立法権が与えられているとしても、みずから直接に国民を拘束する意志発動の力をもっているわけではない。
 また、直接機関が並び立つ場合も、ふたつの機関は必ずしも独立対等の地位をもっているとはかぎらない。いずれかが最高の地位をもつものでなければならない、と達吉はいう。
 ふたつの機関が対等独立の地位をもつ場合は国権の統一性が失われてしまう可能性がある。そのため最高の地位を有する直接機関が必要となるが、この機関を国家の最高機関と呼ぶ。
 国家の最高機関は国家にその原動力を与える機関である。最高機関の意志にもとづくのでなければ、国家はまったく活動することができない。最高機関の活動が停止すれば、国家の活動の停止を招くだろう。
 たとえば、わが国においては君主の召集がなければ議会も開会することができない。君主の裁可がなければ法律も命令も条約もまったく成立しない。君主の任命がなければ官吏も生まれない。君主が無為であれば、国家はまったくその活動力をもつことができない。それゆえ、わが国では君主が国家の最高機関である、と達吉はいう。
 これにたいし、共和国では、もし国民が選挙をおこなわなければ議会も大統領もなく、したがってまたその他の機関を発生することができない。国家の組織はまったく崩壊してしまうだろう。そのため、共和国では国民が国家の最高機関である。
 こんなふうに、国家の機関について論じながら、日本においては天皇こそが国家の最高機関だと達吉は論じている。この考えは終生変わらなかった。
 問題は明治憲法体制のもとでは、天皇の非公式な間接機関(明治期には元老、昭和期には軍部)が、しばしば天皇の名のもとに実際の統治権を掌握していたことである。

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