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富永健一『近代化の理論』 を読む(1) [本]

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 本棚を整理していたらでてきた。1996年に出版された本だが、あのころ何げなく買って、例によって例のごとくの悪い癖で、そのまま読まずじまいになっていたらしい。
 ぼくは研究者ではなく、学問といったものは苦手で、物語のほうが好きなので、どちらかというと理論は敬遠したい気分がある。経済学や社会学をまじめに勉強したことはない。
それでも近代化という概念については、なんとなく興味がある。
 いまは近代という時代にはちがいない。その近代に半ばどっぷりつかりながらも、時折それがいやになること、別の可能性をみてみたいと願うこともしばしばだ。だから近代化にはどこか懐疑的である。年をとると、ますますそうした傾向が強まっている。
 著者の富永健一(1931〜2019)は社会学者で、東京大学文学部の助教授、教授を長く務めた。主な著書に『社会変動の理論』、『社会学原理』、『日本産業社会の転機』、『日本の近代化と社会変動』、『思想としての社会学』などがある。明治の三大記者のひとりとされる東京朝日新聞主筆の池辺三山は、母方の祖父にあたるという(あとふたりは陸羯南と徳富蘇峰)。
 本書はもともと放送大学の講義用テキストとして書かれたもの、「ですます」調で読みやすそうだ。社会学の知識のないぼくのような素人でもわかるかもしれないと考えて、ぱらぱらとページをめくりはじめた。いっぺんには読めないので、少しずつ読んでいきたい。
 著者によれば、20世紀の前半と後半は対照的な時代だが、両者を貫通するものとして「近代化」と「産業化」というテーマがあった。それは西洋にはじまり、東洋に伝播し、いまや東洋もその担い手になっているというのが、はじめの記述だ。
 産業化が出現したのは18世紀後半から19世紀前半にかけての産業革命期で、このころから生産の動力源として、「生物エネルギー(筋力や畜力)に代えて無生物エネルギー(蒸気力から電力から原子力にいたるまで)」が用いられるようになった。同時に機械化も進んでいく。
 産業化にともない、経済は自給自足経済から市場的交換経済へと移行していく。さらに第二次産業から第三次産業へと産業構造が発展していくにつれ、コンピューターを軸とする「ポスト工業化」の時代がはじまる。
 ポスト工業社会とは、より高度な産業化が実現した社会だ、と著者はいう。けっしてポスト産業社会ではない。農業や工業の生産性が飛躍的に高まり、より少ない人数で必要量を満たせるようになるため、第三次産業従事者の比率が増えていった。人間の頭脳的・肉体的労働は、機械(動力機械および情報処理機械・自動制御機械)に置きかえられるようになる。
「近代化」はどう定義できるのか。近代化は経済(技術)、政治、社会、文化の4つの側面で並行して進む現象としてとらえることができるという。
 経済面では人力・畜力中心から動力革命・情報革命にともなう機械化へ、自給自足社会から市場的交換経済へ、そして第一次産業中心から第二次産業・第三次産業中心へ。
 政治面では近代的法制度の確立、封建制から近代国民国家への移行、専制君主制から民主主義へ。
 社会面では家父長制から核家族へ、未分化な集団から組織へ、村落共同体から近代都市へ、さらには身分制から自由平等の時代へ。
 文化面では宗教的・形而上学的束縛から実証的知識へ、非合理主義から合理主義へ。
 これらの4つの側面は、それぞれ密接にからみあいながら進行していった、と著者はいう。
 近代化され産業化した社会が近代産業社会だ。そして情報化社会は近代産業社会の高度な段階ととらえることができる。
 近代産業社会はひとつのモデル(理念型)であって、どの国においてもそれがそっくり実現されているわけではない。東洋では19世紀後半の日本を皮切りに20世紀後半の韓国、台湾、香港、シンガポールにつづき、中国が近代産業社会をめざすようになった。
 東洋における近代化と産業化の先頭を切ったのは日本だが、それは西洋を追いかけるかたちをとった。大久保利通は殖産興業政策による「上からの産業化」を推進し、日本は明治末に世界の先進国入りをはたした。
 いっぽう中国は半植民地状態となり、ようやく1912年の辛亥革命によって中華民国が成立するものの、内戦がつづいた。1949年に毛沢東による共産党政権が発足する。しかし、大躍進政策が失敗に帰したあと、文化大革命の混乱がつづき、産業化が軌道に乗るのは、鄧小平が対外経済開放政策を打ち出してからだ。
 近代化と産業化が中世から自生した西洋とちがい、東洋がいわば普遍的課題である近代化と産業化を受け入れるには意識的な努力を必要とした。
 しかも、ヨーロッパの近代化は植民地化をともない、それによる西洋文明の伝播というかたちをとったから、植民地化の危機にさらされた東洋にとっては、西洋文明を受け入れるのは苦渋の選択だった。
 日本では倒幕による王政復古というかたちをとったうえで、はじめて近代化と産業化を導入することができた。それはけっしてそのままの西洋化ではなかった、と著者はいう。

〈文化伝播に模倣の要素が含まれていることはたしかですが、しかし文化伝播というのはけっして単なる模倣、つまり「オリジナル」の「コピー」をつくることを意味するものではありません。とりわけ大切なのは(1)文化伝播は選択的な受容である、(2)文化伝播は受容した諸文化項目をもとのものとはちがう文脈の中に移植するのにともなう適応問題の解決を必要とする、という二点ではないでしょうか。これらのことはそれ自体、創造的な能力が要求される課題です。そのような創造的な能力を発揮することができるならば、文化伝播を受容しても、文化のアイデンティティをたもつことは可能なのではないでしょうか。〉

 日本は文化的アイデンティティを保ちながら、みずからもつ創造的な能力にもとづいて、近代化と産業化を受け入れることができた、と著者は指摘しているようにみえる。
 しかし、そのかん、日本は西洋排斥と西洋崇拝のあいだを揺れ動いた。西洋主義の波とナショナリズムの波が常に入れ替わるのが日本の特徴だ、と著者は書いている。中国が台頭するなかで、その様子はいまもっと複雑になっているといえるかもしれない。(つづく)

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