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岡田内閣の発足──美濃部達吉遠望(70) [美濃部達吉遠望]

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 当初、犬養毅に代わる緊急避難内閣とみられていた斎藤実内閣は意外にも2年2カ月にわたって政権を維持した。それは政党、軍部、官僚からなる挙国一致内閣の形態をとっていたが、次期政権をねらおうとする動きは当初から存在した。
 議会で圧倒的な議席を誇る政友会は、政権に高橋是清を蔵相として送りこみ、高橋の辞任をちらつかせながら、政友会内閣の復権を模索していた。だが、斎藤首相は解散をにおわせて政友会を牽制し、高橋の取りこみを維持する。不況の克服と農村の救済を考えれば、高橋の手腕は政権に欠かせなかった。
 いっぽう、陸軍は荒木貞夫を陸相に送りこみ、軍を中心とする「革新政策」を実現しようとした。だが、経済政策ではとても高橋是清にはかなわない。荒木は病気を理由に辞任し、陸相は林銑十郎に代わった。こうした経緯により、陸軍内の荒木の人望、とりわけ青年将校の期待は地に墜ちた。
 斎藤実は老練に政友会や軍部を操りながら政権を維持した。だが民間右翼にたきつけられた新聞が暴く数々のスキャンダルを、ついに乗り切れなくなる。
 斎藤の後釜として、早くから首相候補の名が挙がっていたのが、国家主義団体の国本社を主宰し、枢密院副議長を務める平沼騏一郎(きいちろう)だった。平沼は検事総長や大審院長も歴任した関係から司法省に強い影響力をもっており、斎藤内閣にとどめを刺すことになる帝人事件でも、司法省を背後から使嗾(しそう)していたといわれる。
 だが、首相推薦権をもつ元老として隠然たる勢力を保つ西園寺公望は、国粋主義者の平沼を毛嫌いしていた。宮中は内大臣の牧野伸顕、宮内大臣の湯浅倉平、侍従長の鈴木貫太郎のリベラル派によって固められていた。枢密院でも、美濃部達吉の恩師で、8年近く宮内大臣を務めた一木喜徳郎が1934年(昭和9年)5月に枢密院議長に指名され、平沼の議長昇格は見送られた。
 1934年(昭和9年)7月、斎藤首相の後任として、海軍大将の岡田啓介に組閣の大命が下った。最後の元老、西園寺公望は重臣会議を開いて、新首相を選出するという新しい方式を採用した。重臣会議は牧野内大臣が主宰し、首相経験者(斎藤実現首相、高橋是清、若槻礼次郎、清浦奎吾)と枢密院議長によって構成されていた。
 またも海軍から首相が選ばれたことで、陸軍は憤激する。そのことが、権力奪取をめぐる陸軍内の派閥抗争(皇道派と統制派)を生み、やがて二・二六事件をもたらす要因になったことを頭に入れておいてもいいだろう。
 美濃部達吉は雑誌「経済往来」に寄せた政治評論のなかで、衆議院に二大政党が存在し、選挙で多数派を握った政党が政権を握るというのが憲政の常道にちがいないが、政界が混沌としている現状では、元老を中心に内大臣が主宰する重臣会議によって首相を選定する新方式が「比較的最も穏健な処置」と考えられ、将来もこの方式が踏襲されることを望むと記している。

〈こういう情勢[「政党勢力と非政党勢力ことに武力を中心とするファッショ勢力との対抗が、著しく尖鋭となって、いつ爆発するかもしれぬという状態]の下においては、純然たる政党内閣の組織が甚だ危険であることは、斎藤内閣のはじめて作られた時と大なる差異なく、さればといって、軍国主義的な武断的ファッショ内閣を作ることは、危険一層これよりも一層はなはだしきものがある。今日の情勢に処すべき策としては、政党のみに偏せず、また軍部を中心とするものでもなく、その中間に立ち、政党および軍部のいずれからもあまりに極端な反対を受くることのないような内閣、すなわちなるべくは斎藤内閣と同型の内閣を組織するのほかはない。〉

 達吉は、斎藤内閣と同型の岡田内閣が生まれたことを喜んでいた。岡田啓介はこれまで海軍大臣の経験しかないとはいえ、「海軍あるを知って国家あるを知らないような」海軍一点張りの人ではなく、年齢も比較的若く、「その平生の生活が簡易質素を極めた清貧の生活であること」なども世間の好感を呼んでいるという。
 とはいえ、岡田内閣は斎藤内閣と比べ官僚寄りの内閣にちがいなかった。内務大臣には後藤文夫、大蔵大臣には藤井真信(さだのぶ)[藤井の死後、高橋是清が復帰]、外務大臣には弘田弘毅と主要ポストは官僚系で押さえられている。
 政友会は協力を拒否し、野党となった。とはいえ、政友会を離党した床次竹二郎(逓相)、山崎達之輔(農相)、内田信也(鉄相)の3人が入閣し、民政党からは町田忠治(商工相)、松田源治(文相)などが入閣しているから、政党色も残っている。そして、軍の関係では、陸軍大臣として林銑十郎、海軍大臣として大角岑夫(おおすみ・みねお)が入閣した。
 議会で多数を握る政友会が反対党に回ったことで、衆議院の解散は避けがたくなった。この年の秋にも解散かと思われたが、それは意外にも遅れ、けっきょく総選挙は1936年(昭和11年)2月20日に実施されることになる。二・二六事件の直前である。
 岡田内閣が発足してひと月あまりたった1934年9月に発売された「中央公論」で、達吉は岡田内閣の使命を論じている。
 当時、1935年、36年の国際的危機がしきりに論じられており、岡田内閣の第一の使命は、この国際的危機に対応することだとみられていた。
 しかし、達吉はこの2年のうちに、それほど重大な危機が発生するとは思っていなかった。
 列強が満州国を承認することはすぐには考えられないが、それでも満州国が独立国家としての体裁を整えていくにつれ、満州国を事実上承認する方向となり、武力によってそれに干渉するする国はあらわれないだろうというのである。また、来年開かれる予定の海軍会議で満州国の問題が論じられても、それがただちに危機をもたらすことはあるまいとみていた。
「満州問題に関して日本の取るべき態度は、一(いつ)にその独立の国家としての基礎を固め、国内の治安を維持すること」に尽きるというのが、達吉の考え方だった。
 国際連盟から委任された南洋群島の統治についても、日本が国際連盟を脱退したからといって、それを返還する義務はなく、日本は既得権としてその統治を継続しうると達吉は論じている。
 満州事変の勃発以来、日本の国際関係が険悪になったのは事実である。だが、満州国の基礎が固まるにつれて、それも次第に緩和されつつあるという。

〈ただ患うべきところは、国際上の関係というと、ややもすれば無思慮な帝国主義的な強硬論が行われやすく、それがさも愛国的の思想のように誤解せられて、少壮血気の徒を誤らしむることである。国際上の危機は、あらかじめ危機として戒心せられているところには起こらないで、かえって血気にはやった不慮の出来事に基づいて生ずる危険がある。いわゆる一九三五、六年の危機に善処するためにも、国際関係それ自身に慎重な考慮と努力とを要するのはもちろんであるが、それと同時に、国内的にもこういう無思慮な強硬論に禍せられないように、十分の注意と努力とを切望したい。〉

 不慮の出来事が起こるのではないかという達吉のいやな予感は残念ながら当たることになる。それもまさか自分の身の上に生ずるとは予想だにしなかっただろう。
 この政治評論で、達吉は国際関係にまして国内の政治と経済は険悪で、これに対処するのはきわめて困難だと記している。
 相変わらず、さまざまなスキャンダルが続出していた。教育関係でも選挙関係でも汚職事件や買収事件が絶えないのは、根底に経済問題がある。政党間の抗争や政治的な策略が、それにさらに輪をかけている、と達吉は論じる。
 いまや財政と経済ほど重要な問題はない。一時的な救済措置だけで、現在の農村問題や失業問題を解決できるとは思えないとも述べている。

〈いわゆる資本主義経済の矛盾は、資本の力があまりに過大で、もしこれを自由競争に放任すれば、資本の力によって経済上の利益が独占せられて、正当な勤労に対する報酬があまりに過少であるのみならず、その勤労をなしうる機会すらも、一に資本の力によって支配せらるるを免れないことにある。これを改革して、資本の力を適当に統制し、その利益を一部少数者の独占に属せしめずして全国民の利益に帰せしめ、もって全国民をして普(あまね)く生活の安定を得せしむるように努むることは、今後の日本における最も重大な問題でなければならぬ。〉

 最後に達吉は、岡田内閣がより官僚内閣の色彩を強め、議会多数派の政友会を反対党に回したことから、挙国一致政治がむしろ政党政治のかたちになったと指摘している。
 そのため、いずれ選挙がおこなわれることになるが、そのことが政党内閣の復活につながる可能性もありうる。とはいえ、現在の状況においては、はたして政党内閣政治が最も適当で望ましいものであるかは断定できないとも書いている。
 達吉は政党内閣の復活に期待を寄せながらも、現状ではやはり挙国一致内閣の方向で行くしかないと考えていた。それはドイツのようなファッショ内閣をつくらないようにするための、議会政治最後の砦になるはずだった。

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攻撃のはじまり──美濃部達吉遠望(69) [美濃部達吉遠望]

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 斎藤実内閣のもと第65議会が1933年(昭和8年)12月26日から90日にわたって開かれた。閉会したのは翌34年(昭和9年)3月25日である。
 美濃部達吉も貴族院議員として、議場に顔を出した。年明け早々、「議会が開かれてみると、さすがに議会制度の効果が著しく感ぜられる」と、安堵したような感想をもらしている。活発な議論が交わされていたのだろう。それは独裁政治では味わえない議会の醍醐味だった。
 それでも懸念すべき兆候はすでに現れていた。
 陸軍省と海軍省の名で、12月29日に突然、「軍民離間運動に対する声明書」なるものが出されたのもそのひとつである。そこには、軍部当局への批判は天皇の軍隊への批判であり、そうした軍民離間運動を軍部は容赦しないという内容が記されていた。
 議場では、陸軍大臣と海軍大臣がともに、そうしたパンフレットはあずかりしらぬと答え、軍部は言論を圧迫するような意思はまったくないと断言した。それでも、この声明書にみられるように、軍部が思想統制を強めようとしていることは明らかだった。
 いっぽう、2月1日の貴族院本会議での外交問題に関する質疑はじつに意義深いものだった、と達吉は絶賛している。質問したのは元外相の吉沢謙吉で、応えたのは内田康哉に代わって外相となった広田弘毅。
 ふたりは次の軍縮会議に臨む政府の方針について論戦を交わしたのだが、国際連盟脱退後の難しい外交について、日本の信用を高め、世界との協和外交を展開することが重要という点で意見が一致した。これは、前外相の内田康哉が、満州国の承認に関連して、「国を焦土となすも辞せず」と公言したのとは大ちがいだった。
 達吉はふたりの質疑応答について「議会と政府とが相協力して帝国の協和外交の大方針を世界に宣明したもので、従来しばしば議場に現れ、しかもそれがために議会制度の不信用を来す一大原因をなした、政争のための政争、反対のための反対とは著しき対照をなし、議会の信用を回復する一助ともなるべきもの」だ、と絶賛している。
 ところが、第65議会では、外交問題や経済問題についてのきわめて理性的なやりとりとは対照的に、あまりにも国粋主義的で粗野な個人攻撃もはじまっていた。
 2月7日の貴族院で、軍人出身の菊池武夫議員は、商工大臣の中島久万吉が雑誌「現代」のエッセイで足利尊氏をほめたことを取りあげ、このような逆賊を賛美するのはけしからんと、中島の辞任を迫った。菊地をけしかけたのは、『原理日本』を主宰する国粋主義者の蓑田胸喜にほかならなかった。
 あらがいようもない天皇幻想が、実際の天皇制度(機関)を越えて、社会全体を揺り動かそうとしている。中島は2月9日に辞任した。
 問題は、その中島糾弾の演説のなかで、菊地が名指しではなかったにせよ、達吉の著書『憲法撮要』の一節を取りあげたことである。菊地は、天皇機関説というような国体に反する学説を一掃しなければ、国家の興隆は期することを得ないと大声でまくしたて、こういう考えをしている者が高等文官試験の委員長や委員をしているのだとすれば、それらの者は追い払うべきだ、と文相の鳩山一郎に迫った。鳩山は、検討して努力するというような、うやむやな答弁をして、その場を切り抜けている。
 達吉は菊地の論難にたいし、2月12日の「帝国大学新聞」で反論した。「君主が国家の機関であるということは、君主の統治が君主御一人の私の目的のためにせらるるものではなく、全国家の目的のためにせらるるものであることをいい表すものにほかならない」。そう説明したうえで、天皇機関説が国体を破壊するものだというのは、とんでもない曲解だと論じた。

〈国家は君民の団体であって君主も国民も共に国家を構成する要素である。国民ことごとく滅び君主御一人をもっていかにして国家を構成することができようか。国家をもって君主の統治の目的物となすに至っては、これ国家をもって活力なき死物となすもので、全然健全なる国家観念を裏切るものである。国家をもって活力なき死物と解することによって、いかにして愛国の念を鼓舞することができようか。〉

 達吉は菊地の考え方をひとつひとつ丁寧に論破している。

〈要するに、論者が公の議場において、私の著書を引用して、私の学説を非難し、ひいて大学および高等試験委員の名誉を毀損(きそん)するの言をあえてしているのは、全く根拠のない妄言であると断定してよい。国体の尊厳を説くはよろしい。日本精神を鼓吹することも、もとより歓迎すべきである。ただ一知半解の固陋(ころう)の見をもって、われ一人国体の擁護者であり、日本精神の支持者であるかのごとくに思惟(しい)し、自己と意見を異にする者に対しては、一も二もなく、国体を誤り、日本精神を蔑視する乱臣賊子であるとなし、国体を笠に着て強いて他の言論を圧迫せんとするに至っては国家および社会を毒することはなはだしい。〉

 きわめてもっともな反論で、これで問題は収まったかにみえた。だが、それは前哨戦にすぎなかったのである。一年後に問題はより大きなかたちで再燃する。
 1934年春の時点では、中島商工相を辞任に追いこんだことで、天皇の名のもとでファシズムを推進する軍部としては、斎藤内閣に揺さぶりをかけるという当面の目的を達したといえるだろう。
 ファシストの毒牙はさらに文部大臣にもおよんだ。ことの発端は、衆議院の議場で政友会久原派の岡本一巳(かずみ)代議士がみずからの犯罪行為を自白し、そのなかで鳩山一郎が製紙会社の旧樺太工業(王子製紙に合併)から賄賂を受けていたことを明らかにしたことである。これは鳩山を共同正犯に仕立てる「抱き込み」心中にほかならなかった。
2月28日の貴族院では大塚惟精(いせい)議員が鳩山一郎文相にたいする緊急質問をおこない、これにたいし鳩山は種々の風評が教育界に悪影響をおよぼすことを懸念し、「自分は明鏡止水の心持ちをもって善処する覚悟である」と述べ、辞任を表明した。
 こうして、商工大臣は松本烝治に代わり、文部大臣は首相の斎藤実が兼任することになった。
 中島商工相と鳩山文相が相次いで辞任したのは、世間で話題になりはじめていた「帝人事件」の報道とも関係している。
 帝人事件は1月16日に「時事新報」が「『番町会』を暴く」という記事を記事を掲載しはじめたときにさかのぼる。「番町会」というのは財界の巨頭、郷誠之助を中心とする経済人のグループで、財界と政界をつなぐ役割を果たしているというのが書き出しで、記事は番町会をめぐるスキャンダルを暴いたものだ。
 そのひとつに帝人問題があった。鈴木商店の倒産により、台湾銀行の担保にはいっていた鈴木商店系列の帝人(帝国人造絹糸)の22万株あまりのうち11万株を政商の永野護らが買い戻そうとして、政府と大蔵省にはたらきかけ、それに成功を収める。1株125円で買った株はすぐに値上がりし、140円から150円で売られて、番町会のメンバーは大儲けしたというのである。その帝人株を謝礼に受けとった者として、前商工相の中島久万吉、大蔵省次官の黒田英雄、さらに鉄道相の三土忠造の名前が挙がった。
 この暴露記事がでたあと、検事局は番町会の財界人メンバーを召喚、逮捕したあと、大蔵省の黒田英雄(次官)や大久保禎次(銀行局長)らを収賄容疑で拘引、起訴した。中島久万吉や三土忠造も逮捕されたが、その取り調べは苛烈きわまるものだったという。
 斎藤内閣は検事局の起訴が出された段階で7月3日に辞職を表明した。
 帝人事件の裁判は翌1935年(昭和10年)6月にはじまり、37年(昭和12年)10月にようやく終わったが、その結果は犯罪事実がなく全員無罪というものだった。判決文は、事件そのものが「空中楼閣」だったとしている。
 大内力は帝人事件は斎藤内閣を倒すために仕組まれた政治スキャンダルであり、その背後には、軍部に支援され次期政権の座を狙う平沼騏一郎(当時枢密院副議長)の画策があったと断言する。確たる証拠があるわけではない。だが、この事件によって、政党勢力が弱体化し、官僚と軍部がさらに勢いを増したことはまちがいなかっった。
 達吉が東京帝国大学法学部を退官したのは、帝人事件が世間を騒がせはじめたころである。とくに定年の決まりがあったわけではなく、教授どうしのあいだで、満60歳になったら辞表をだそうという内々の申し合わせがあったためだという。こうして、まもなく61歳を迎える達吉は3月、小野塚喜平次総長に辞表を提出した。
 4月号の「改造」に、「退官雑筆」というエッセイが掲載されている。そのなかで、達吉は大学での思い出を語り、最後に自分が世間では「自由主義者」と呼ばれていることについて、いささかの異議を唱えている。

〈すべて世間において何々主義と呼ばれている思想は、おおむねみな一面の真理を備えているもので、全面的に絶対に排斥しなければならぬものは、テロリズムのような明白な不法を主義とするものを除いては、まれであるといってよい。ただある特定の一主義のみを絶対の真理となし、これを
極端に推し広めて、他のすべての主義を排斥しようとすることは、いわゆる主義者の弊であって、それは私の取らないところである。国家主義といい、個人主義といい、家族主義といい、自由主義といい、社会主義といい、いずれも絶対には排斥すべきものでないとともに、そのいずれの一つにもせよ、それのみを絶対の真理として信奉すべきものでもない。ある特定の一主義にのみ徹底しようとすることは、社会のために大いなる禍であり、その意味において、私は自由主義者と呼ばれることに抗議したいと思う。〉

 自由を愛好するという意味では、人後に落ちない。国民の基本的人権は守られなければならない。しかし資本主義の自由放任主義には、ある程度の国家的統制が必要だと考えている。それぞれの人がもつ複雑な思想を「何々主義」とくくることは、往々にして誤解や曲解を招くおそれがある。
「この意味において、私はいかなる主義にもせよ、ある特定の固定した主義者として呼ばれることを厭(いと)う」
 達吉は、これからは人生の第3ステージがはじまり、退官後の新居とした吉祥寺の穏やかな環境のなかで、さらに学業に専念したいと願っていた。ところが、そうはいかない。いわゆる「天皇機関説事件」が発生し、その渦中に巻きこまれるのである。

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挙国一致内閣──美濃部達吉遠望(68) [美濃部達吉遠望]

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 斎藤実内閣は五・一五事件の勃発という事態を受けて成立した中間的な緊急避難内閣とみることができる。それは議会第一党の政友会と第二党の民政党、それに軍人、官僚からなる挙国一致内閣だった。
 日本は傀儡国家としての満州国を承認したあと、国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深めていた。軍事を第一とする政治がはじまっていたが、それにブレーキをかけようとする勢力もまだ残存していた。だが、それは次第に抵抗勢力とみなされ、排除されていく。
 貴族院議員に勅任された美濃部達吉は、このころ挙国一致内閣を認めるようになっていた。衆議院第一党の総裁が内閣を組織するのを常道とする政党政治を諦めたわけではないが、緊急時においては挙国一致内閣もやむなしと考えるようになっていた。だが、その後も長く緊急時の挙国一致内閣がつづくとは思っていなかっただろう。
 斎藤内閣以来9代にわたる挙国一致内閣はいずれも軍に振り回され、長続きしなかった。長くて2年もてばいいところで、1年足らずで交替する政権が多かった。
 1932年(昭和7年)5月から41年(昭和16年)10月まで、首相は斎藤実、岡田啓介、広田弘毅、林銑十郎、近衛文麿、平沼騏一郎、阿部信行、米内光政、ふたたび近衛文麿とめまぐるしく入れ替わった。そして、そのあと対米戦争がはじまり、東条英機の戦時内閣へとつづくのである。
 日本ではムッソリーニ、ヒトラー、スターリンのような独裁者は誕生しなかった。その理由は天皇が国家の最高機関として位置づけられていたからだといってよい。天皇の信任にもとづく輔弼政治は、信任に応えられないという理由から、しばしば崩壊した。そのなかで、軍部と官僚だけが国策を追求するという構図ができあがった。顔のないファシズムが進行していくのである。

 1934年(昭和9年)1月、美濃部達吉は「中央公論」と「朝日新聞」に、議会制度と政党政治の将来をめぐる政治評論を発表した。
「中央公論」で論じたのは、議会制度の前途についてである。
 議会は現在、本来の機能を失い、ほとんど無力な形骸的存在になりつつある。それは満州事変の勃発以降、軍の力が強くなり、政党の勢力がその実を失ってしまったからだ。しかし、いったん事態が落ち着けば、また政党政治の復活が期待できるだろうかと問うところから、達吉は議論をはじめている。
 現在が非常時であることはまちがいない。満州事変を契機として、日本の国際関係はきわめて険悪なものとなった。加えて国民の思想も動揺している。治安維持法により左翼の運動はまったく衰え、いまでは憂うるに足りないありさまになったが、それに替わって、極端な右翼的思想と暴力が横行するようになった。
 その背景には戦争の進展がある。だが、これ以上、戦争が広がるのは避けたいものだ。達吉はそのためにも通常の議会政治が一日も早く復活することを望んでいた。

〈もし国家が自ら戦争を目指して進むとすれば、それはほとんど薪を抱いて身を火中に投ずるものというべきである。今日の時局に処すべき国家の根本政策としては、忍びうべき限りを忍んで、あくまでも平和の維持を念とし、戦争の危険を避くることを努めねばならぬ。しかして平和をもって根本政策となす限りは、一日も早く議会政治の通常の状態に回復することが、得策と思われる。〉

 他方、達吉は現在が大きな社会転換期にあることを認めざるをえなかった。
 これまで議会は立法、予算への協賛、国政にたいする批判、内閣の形成、政治家の養成といった役割をはたしてきた。しかし、現在の転換期においては、そうした議会の役割は見直されなければならない。
 ひとつは、これまでのように経済が自由にまかせておけばいいものではなく、国家の問題として意識されるようになり、経済問題に対処するには、よほどの専門知識を必要とするようになった。ほかにも専門知識を必要とする部門が増えており、国民に選ばれたとはいえ、代議士がそうした諸問題に対応することは非常に難しくなっている。
 議会は立法権や予算の協賛権をもつといっても、それはただ形式にとどまっている。立法も予算も政府の立案したものが、そのまま議会を通過するというのが現実だ。
 それでも議会には国民に代わって政府を批判しうるという重要な役割が残っていることはまちがいない。その点が議会政治と独裁政治との根本的ちがいだ、と達吉はいう。
 社会変転期において求められるのは強力な政府だ。だが、それは武力にもとづく軍事政権であってはならない。現在の国情において戦争の危険を冒すことは国を破滅に導く恐れがある。
 軍人が経済や外交について専門知識をもっているとも思えない。政治的常識すら欠く者が多いのが実際だ。
 そこで、現在の社会変転期を乗り越えるには、政党が政権争奪のための争いをやめて、新たな精神で国政に臨まなくてはならない、と達吉はいう。

〈それはあえて政党を解消すべしというのではなく、またあえて一国一党たるべしというのでもない。ただ政党をもって政権争奪の機関たらしむることはこれを断念し、政党はもっぱら議会を通じて民意を表白し、国政を批判するの機関にとどめしめようとするのである。政党にしてもし誠心をもってこれを承認するならば、強力な挙国一致の内閣も必ずしもこれを構成するに難くないであろう。〉

 もってまわった言い方ながら、達吉が危機の時代においては政党内閣ではなく、挙国一致内閣を選ばなければならないと考えるようになっていたことはまちがいない。
 挙国一致内閣への支持は、朝日新聞への寄稿でもくり返された。
 達吉はこの論考で、日本における政党政治の歴史をふり返りながら、それが大きな弊害をもっていたことを指摘する。政党を維持し選挙で勝利を収めるには多額の資金を必要とする。そのため、政党と資本家が結びつきやすい。さらに、選挙においては、しばしば投票の買収と官憲による干渉がおこなわれる。また選挙での地盤を保持するため、利益誘導が最大の関心になってしまう。
 こうした弊害が存在するために、政党否認の思想は後を絶たない。それでも立憲政治においては政党は欠くことができない、と達吉は断言する。

〈私は政党の存立は憲法政治の必然の要素であり、政党なくして憲政は行われえないことを信ずる。それはなぜかといえば、議会ことに衆議院は、国民的の選挙によって構成せらるるものであり、また多数決によって事を決するものであり、しかして国民的の選挙制度および多数決制度が認められているかぎり、多数同志の団結によるほか、勢力を得ることは不可能であるからである。〉

 多数党の総裁が首相となり、その党員が閣僚となって政府を担うのが政党政治である。とはいえ、立憲政治は必ず政党政治である必要はない、と達吉は論を転じる。
 最近は「天皇政治」を主張する論者もいる。しかし、天皇政治とは、天皇がみずから国政を執りたもうことではないはずで、憲法では、国政についての責任は、大権を輔弼する任にあたる国務大臣がこれを負担することになっている。首相を含め国務大臣が政党に所属する政党政治は、けっして天皇政治と矛盾するものではない、と達吉はいう。
 とはいえ、天皇政治を声高に主張する論者は、政党から独立したかたちで、内閣を組織すべきだという。つまり、議会とはまったく無関係に内閣を組織せよと主張する。
 だが、立憲政治のもとでは、そのような内閣は長く存続しえない、と達吉は断言する。そうした政権を維持するためには「合法的の手段を抛棄(ほうき)し、武力をもって反対派の勢力を弾圧撃破し、議会をして強いて政府に盲従せしむるのほかはない」。すなわちファッショ政治意外にない。
 こうした政治はけっして容認できないと達吉はいう。

〈わが憲法の下において、天皇の軍隊のほかに、政党が私兵を擁することの許されえないことはもちろんであるのみならず、天皇の軍隊が、勅命にもよらずして、政治上の目的のために行動し、政治上の反対勢力を弾圧するために武力を用いるがごときは、天皇の統帥大権を私に僭用するものであって、それこそ統帥権干犯の甚だしきものといわねばならぬ。〉

 ファッショ政治は憲法停止の政治であり、全国一党の政治であり、国民からすべての自由を奪う政治であり、国の内外を兵乱に巻きこむ政治なのだ。こうした独裁政治は断じて認めてはならない、と達吉はいう。
 とはいえ、現在のような社会転換期においては、政党政治はあまりにも無力であり、時勢の要求に応えられないこともたしかだ。政党内閣もファッショ政治もだめだとすれば、残るところは「ただ議会の多数の政党の支援を得て組織せらるる人材内閣あるのみである」。
 こうして、ここでも達吉は、現在のような時代の荒波を乗り切るには政党が政権争奪の争いをやめて内閣に協力する挙国一致内閣を結成するほかないという結論に達するのである。
 それは現在の斎藤内閣を支持するということでもあった。
 憲法上、天皇主権をとる日本では、独裁的なファッショ政治は実現しなかった。だが、挙国一致内閣は軍部の独走を抑えることができない。むしろ軍部に押されるかたちで、なし崩しのファシズムが進行する。その流れは達吉自身をも押し流していくのである。

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軍第一の時代──美濃部達吉遠望(67) [美濃部達吉遠望]

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 文部大臣の鳩山一郎が京都帝国大学総長の小西重直に法学部教授、滝川幸辰の罷免を求め、京大側がそれを拒否した直後、美濃部達吉は「帝国大学新聞」に「滝川教授の問題」という一文を寄せている。
 最初に大学とは何かについての原則が述べられる。

〈大学は政府の政策を実行するために設けられた政府の属僚の集まりではなく、大学令第一条に明言されている通り、専門の学術を攻究し及び教授することを本分とするものであるから、その攻究及び教授の任に当たっている大学教授は、学術上の事項に関する限り、時の政府の政策によって拘束せらるることなく、専ら学問的の良心に従って攻究し教授し、また自ら真理と信ずるところを発表しうる自由を有しなければならぬもので、これが大学のもっとも大切な本質上の要素であり、また国家が莫大な経費を払って大学を設立している目的の存するところである。もし大学の教授が時の政府の鼻息をうかがい、その指導に従って、政府の政策の実行に便宜なような意見のみ教授し発表する機関に止まったならば、学問の進歩は閉ざされて、大学設立の目的は失われ、大学を設立した国家の本旨に反すること甚だしいものとならねばならぬ。〉

 学の独立と自由があってこそ、大学の存続は保たれる。
 とはいえ、学問の自由といってもおのずと限度はある、と達吉はいう。もし官立大学の教授が、国家を否定したり皇室への忠誠を欠いたりする場合は、大学教授を罷免されるのも致し方ない面がある。
 今回罷免の対象となった滝沢教授は、はたしてそんな不穏な思想をいだいているのだろうか。新聞報道から判断するかぎり、滝沢教授の主張はごく当然のもので、日本の国家および国体に反する思想をいだいているものとは、とても思えない。
 文部省は学問上の意見について軽率な判断をくだすべきではなく、大学教授の進退はあくまでも大学の自治に責任を有する総長の判断にゆだねるべきだ、と達吉は主張した。
 しかし、文部省は5月26日に文官高等分限令にもとづいて滝川の休職処分を一方的に決めた。
 これにたいし、京大の法学部教授会は教授全員の辞表をとりまとめて総長に提出した。滝沢処分にたいする抗議は、助教授や講師にも広がり、その多くが辞表を提出する。さらに学生たちも全授業のボイコットを宣言して立ち上がった。
 このときも達吉は「帝国大学新聞」でこう書いている。

〈京都大学の事件はますます紛糾して、千数百人の学生が既に久しく学業を休止し、いつ修学しうべきかの見込みもつかぬ状態にある。事のここに至ったのは一つには、滝川教授の論述がおうおう文字の穏健を欠き、読者の誤解を招くおそれのあることも、その一原因をなしていることを認めねばならず、大学当局者の態度にも必ずしも賛成しがたいものがないではないが、しかしその主たる原因は文部省の態度が当を得なかったことにあるものと断定せねばならぬ。〉

 慎重な言い方ながら、達吉は今回の紛擾(ふんじょう)の原因が文部省の態度にあると断定している。文部省は滝沢教授の考え方を反国家的なものと決めつけ、強権的に休職処分に処した。だが、それは大学総長の権限を不法に侵害するもので、明白な総長不信任である。にもかかわらず国は総長を罷免もせず、その辞職を聴許もしない。そんな無責任であいまいな態度をとりつづけているのはまったく不可解だ、と達吉は文部省を批判した。
 だが、けっきょく京大の抗議活動は敗北に終わる。滝川の罷免も撤回されなかった。
 文部省は辞表を提出した39人の教授、助教授らの切り崩しをはかった。7月11日にそのうち6人の教授の辞表を受けとり、免官とした。そのなかには抗議に弱腰の教授も含まれていたため、教授のあいだで動揺が広がった。
 7月20日になって、小西総長と文部省は協議のうえ、紛争解決案を作成する。それは大学の自治は認めるものの、非常特別な場合は例外とするという虚偽に満ちた妥協案にほかならなかった。それでもこの紛争解決案により、辞表を提出した教授、助教授らの半数以上が辞表を撤回した。文部省が免官とした教授の一部も復帰を認められている。
 けっきょく、辞職したのは教授が7人、助教授が5人、ほかに2人の講師と4人の助手、2人の副手となった。辞職した教授は滝沢をはじめとして、佐々木惣一、末川博、田村徳治、恒藤恭(つねとう・きょう)、宮本英雄、森口繁治である。滝沢は弁護士となり、戦後、京大に復学して、法学部長をへて、総長を務めた。佐々木、末川らは立命館大学に移り、立命館の名を高めることになる。
 京大法学部の優秀な教授たちが辞職するのを知って、達吉は「京大法学部壊滅の危機」という一文を「中央公論」に発表した。
 京大法学部ともっとも関係の深い東大法学部の教授たちが、京大の教授たちと行動を共にせず、傍観的な立場をとったことを非難する言説があることを紹介しながら、達吉はいささか弁解に走っている。

〈もし不当なる権力の濫用に対し、団結の力をもってこれと抗争することが、社会の常態となるならば、それはただ力と力との争いであり、社会の秩序は破壊せらるるのほかはない。もちろん時としてそれすらもやむをえない手段として是認せらるべきことがあるにしても、われわれは出来うる限りこれを避けることに努めねばならぬ。いわんやその力の初めより充実しておらぬ場合においておや。〉

 時代の空気が抵抗を許さなくなっている。達吉はいう。そもそも滝川事件の発端は、社会の一部に大学の教授の言論を取りあげ、「赤化呼ばわり」する者がいて、それを文部省がまに受けて取り締まろうとする傾向が強まっているからだ。それでも、学問の自由と独立は認められなければならない。
 2カ月の紛争を経て、京都大学の滝川事件は、教授側の全面敗北によって終わりを告げた。「これがはたして真の解決であろうか」と達吉は嘆く。

〈政府はしきりに思想善導を叫び、学生の思想の動揺を憂いているが、思想善導の最も枢要とするところは、歴史を尊び、伝統を重んずることにある。不法に権力を濫用して歴史ある大学を壊滅に帰せしめ、幾多の学生に修学の途を失わしめて、いかにして思想善導を期することができようか。われわれはただ天を仰いで嘆ずるのみである。〉

 しかし、嘆くだけでことは収まらなかった。まもなく火の粉は達吉自身にもふりかかってくる。

 この年の秋、犬養毅首相を暗殺した五・一五事件の被告にたいし判決がくだされた。
 裁判は被告の所属に応じ、海軍と陸軍の軍法会議、それに東京地方裁判所でそれぞれ別々に開かれた。
11月9日に海軍軍法会議でくだされた判決は、首謀者の古賀清志中尉、三上卓中尉に禁固15年、そのほかの8人に禁固13年から1年という求刑よりもはるかに軽いものだった。いっぽう陸軍軍法会議はすでに9月19日に、同調者の元陸軍士官学校候補生11名に禁固4年の判決をくだしていた。
 これにたいし、東京地方裁判所の判決は翌年2月3日まで持ち越され、民間人被告20人のうち、橘孝三郎に無期懲役、大川周明に懲役15年などと、非常に重い判決となった。
 かれらはその後、恩赦により、いずれも減刑され、古賀と三上は4年9カ月で仮出所した。大川周明は1937年に、橘孝三郎は1940年に出獄した。大川が二・二六事件で逮捕されなかったのは獄中にいたからである。
 達吉は書く。
 現行の日本の制度では、軍人と一般人の犯罪は、それに適用される法律も処決する裁判所もちがっている。軍人の犯罪は陸軍、海軍の軍法会議で裁かれ、一般人の犯罪は通常の裁判所で裁かれる。しかし、法律は社会の各人にたいし公平かつ平等であるべきはずで、軍人と一般人とで、判決に著しい差が生じてはならないことはいうまでもない。
 達吉がこの一文を記した段階では、まだ「五・一五事件」の民間人にたいする判決は出されていなかった。ここで、かれが比較するのは、1930年の浜口首相狙撃事件と2年後の犬養首相暗殺事件(五・一五事件)とのちがいである。
 浜口首相狙撃事件の犯人は民間人であり、未遂であったにもかかわらず死刑が宣告された(ただし、犯人の佐郷屋留吉はのち無期に減刑され、その後出所している)。
これにたいし、犬養首相暗殺事件の場合は既遂であったにもかかわらず、関与した軍人には最高で禁固15年の刑がくだされたにすぎない。民間人と軍人とでは裁判制度が異なるとはいえ、これはいかにも不公平という感をいなめない、と達吉はいう。
 浜口事件の判決が正当なものであったことを達吉は認めている。犯罪の動機に関して、情状酌量の余地はなかった。

〈内閣の政策を攻撃し非難することは、もとより立憲国民の自由に属することであるが、それには言論の自由が許されている。内閣の更迭を希図することも、必ずしも不法ではないが、それはただ議会を通じてのみなしうべきところである。こういう手段をほかにして、単に政治上の意見を異にするが故をもって、一国の内閣総理大臣を殺害し、これによって内閣の顚覆(てんぷく)を謀(はか)ろうとするがごときは、その動機において最も忌むべきものであり、毫(ごう)も仮借すべき事由あるものではない。〉

 浜口狙撃事件で、大審院がたとえ未遂であっても最終的に首相を死にいたらしめた犯人に極刑をくだしたのは理解できる、と達吉はいう。
 ところが、今回の五・一五事件の判決に関しては、軍法会議はまるで異なる考え方を示した。つまり、犯罪の動機が憂国の至情にでたものであることをもって、刑を軽減すべき理由としたのである。
 達吉はいう。

〈不法の暴力をもって総理大臣を殺害し内閣の顚覆を謀ったのをもって、罪悪恕(じょ)に値するものとなすのは、果たして国家の秩序を尊重するものと言い得らるるであろうか。国憲に従い国法を重んずるの念は、国を憂うるの情よりも、遥かに重大である。身政治の任にあらずして、国を憂うるが故をもって、濫(みだ)りに武器を執(と)りて、国の政治を動かさんと企つる者を仮借するならば、国家の秩序は危うきこと累卵(るいらん)のごときものがある。〉

 軍第一の時代がはじまっていた。
 満州事変以来、戦争と戦争気分が帝国全体をおおっている。政治面でも経済面でも、突出するのは軍部とその支持者である。軍の動きを警戒する政府や議会、宮中、メディア、学界などはいまや抵抗勢力となった。そして、大衆もその多くが軍を賛美し、応援していたのである。

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滝川事件──美濃部達吉遠望(66) [美濃部達吉遠望]

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 1933年(昭和8年)5月、斎藤内閣の文部大臣、鳩山一郎は京都帝国大学総長、小西重直に法学部教授、滝川幸辰(ゆきとき)を罷免するよう求めた。総長と教授会がそれを拒否すると、文部省は5月26日に文官高等分限令にもとづいて、滝川を一方的に休職処分とした。これにたいし、京大ではその後数カ月にわたり、全学的な抗議活動が巻き起こった。
 いわゆる「滝川事件」である。
 このころ東京帝国大学法学部教授の美濃部達吉は60歳を迎え、昨年から貴族院議員に勅任されていた。29歳になる息子の亮吉は、東大経済学部を卒業後、助教授になるあてもないまま農学部の講師を務めたあと、ドイツに留学していた。ちょうどそのときにヒトラー政権が誕生する。
 後年、1958年(昭和33年)になって、亮吉は著書『苦悶するデモクラシー』のなかで、滝川事件の顚末が「京都自由法学の終焉」をもたらしたのだと述べている。そして、それは約1年半後におこる「天皇機関説事件」の前触れともなったのである。
 滝川事件が発生したころ、日本軍は華北への侵攻を開始していた。張学良の影響の強い熱河省を制覇したあと、万里の長城の終着点である山海関を越えて南下し、中国側と塘沽(タンクー)停戦協定を結んで、新たな停戦ラインを引いた。だが、満州の防衛政策に歯止めはかからない。
 そんな緊迫した状況のなかでおこった滝川事件をふり返るさいに、なぜか美濃部亮吉は父と訪れた京大総長官舎の庭での懐かしいひとこまをエッセイの頭にふっている。

〈明治がまだ大正と改まらないころのことだから、私が小学校にもあがらない時のことであった。明治何年の何月ごろかという記憶は全然ない。広い青々とした芝生の向うに古めかしい洋館の見える美しい庭で、父(達吉)と二人で風船をもって遊んでいた。その風船は、その日どこかに散歩に行った時に買ってもらったものにちがいない。ゆらゆらと青い空に舞い上る風船が自分のものになった喜びで、私の小さい胸は一杯であった。父は風船を手からはなし、舞い上る風船を空中で受けとめて私を遊ばしていた。私はキャッキャッといって喜んでいたらしい。そのうちに、どうかしたはずみで、父は風船を受けとめ損ってしまった。風船はゆらゆらと空中に舞い上り、暮れなずむ空のかなたに消え去ってしまった。私はわんわんと泣き出した。父は、東京に帰ったら新しいのを買ってやるからといってなぐさめてくれた。しかし、東京に帰ってからもとうとう買ってくれなかったように思われる。子供心に、買ってくれると約束しながら、なかなか買ってくれない父を大いに恨んだ記憶が残っている。〉

 亮吉がこの庭で遊んでいたのは、当時、母方の祖父、菊池大麓(だいろく)が京大の総長をしており、一家は達吉の郷里、兵庫県の高砂(ぼくの郷里でもある)に行った帰りに、総長の官舎にしばらく滞在していたためである。
 菊池大麓が京都大学の総長をしていたのは、1908年(明治41年)から1912年(明治45年)にかけてのことだから、その任期半ばのころ、亮吉が小学校にあがる前に、一家は高砂を訪れ、それから京都でしばらくすごしたのだろう。達吉が高砂を訪れたのは父、秀芳の7回忌が営まれたためかもしれない。
 空に飛んでいった風船は、ちょっと手をゆるめただけで、穏やかな時代があっという間に逃げ去ってしまったことの象徴にほかならなかった。
 かつて祖父が総長をしていた京都帝国大学で大事件が勃発したことは、達吉の息子、亮吉にとっても、他人事ではすまされないできごとだった。しかも、事件を引き起こした文部大臣の鳩山一郎は、美濃部達吉の教え子であり、親戚筋にあたる──鳩山の弟、秀夫の妻は達吉の妻民子の妹だった──という複雑な関係にあった。
 亮吉によると、文部省が刑法担当の滝川教授を罷免しようとした理由ははなはだあいまいだったという。マルクス主義から出発するその学説が世間の安寧秩序を乱し、良風美俗を害するものだから大学教授にふさわしくないというのが文部省の言い分だった。
 その一例として文部省が挙げたのは、滝沢が1932年(昭和7年)10月に中央大学で講演したさい、トルストイの『復活』をめぐって、犯罪は国家が悪いから生ずるのであって、国家が犯罪者に刑罰を与えるのは矛盾だと主張したことだった。だが、それは文部省による曲解で、滝沢は「犯人の前で眼をとじてはならない、犯人に近づき、理解と同情をもってこれを導くべきである」と話したにすぎなかった。
 さらに槍玉に挙げられたのが、滝沢の著書『刑法読本』である。文部省はその内容がマルクス主義的な階級観念にもとづく危険思想だと断定した。
 この著書で、たとえば滝沢は、現行の姦通罪は男の姦通のすべてを許し、女の姦通のすべてを犯罪とする、あまりにアジア的なものだと論じていた。
 さらに、内乱罪についてもこんな記述があった。内乱の行為者の動機は必ずしも排斥されるべきものではなく、彼らはただ敗れたから罰せられるにすぎない。文部省は滝沢があたかも行為者を擁護するするような発言をしていると断じた。
 尊属親殺人罪についても、滝沢は死刑、無期懲役という極刑を科すのがいかに不合理であるかを指摘しているが、それは危険思想にあたる。
 そして、文部省が最大の問題としたのが、『刑法読本』の結論部分に見られる次のような一文だった。

〈窃盗、強盗等々の非組織的な犯罪から組織ある共産主義の運動に至るまで数々の犯罪は悉(ことごと)く社会の下積みになっている無産者によって行われる。逆にいえば、犯罪によって損害を蒙(こうむ)る者は常に有産者だということになる。ここまで来ると、刑法によって防衛される社会と、刑罰によって教育される人の何であるかは、おのずと明[らか]になる。……刑罰によって刑罰をなくすことは到底出来ない相談である。それは犯罪のない社会を築き上げることを前提として初めて可能となる。故に私はいう、刑罰からの犯人解放は犯罪からの人間解放である。〉

 滝沢は、刑罰によって犯罪をなくすことはできない、それよりも国家は犯罪のない社会を築くことをめざさなくてはならないと主張したにすぎない。それは亮吉にいわせれば、「せいぜい進歩的、自由主義的」な主張にほかならなかった。しかし、当局はそうした発言をマルクス主義的とみなし、かれを大学から追放しようとしたのである。
 滝沢事件の背景には、前年11月に発生した「司法官赤化事件」があったとされる。このとき東京地方裁判所の一人の判事、ならびに数人の書記が共産党員であることが判明したとして、治安維持法により逮捕された。逮捕劇はそれから全国に波及し、東京地裁だけではなく、長崎地裁、札幌地裁や山形地裁の判事や書記にもおよんだ。
 すでに経済学者の河上肇は、1928年(昭和3年)に文部省の圧力を受けた京都大学に辞任を迫られ、自主退官していた。河上は1932年9月に共産党に入党、この年、33年8月に治安維持法違反により逮捕されることになる。小林多喜二が虐殺されたのも、この2月のことだ。
 当局の追及は共産主義者だけではなく、滝沢などの自由主義者にもおよぼうとしていた。大陸への侵攻が進むなか、政府や社会を批評する言論も封じられつつある。自由にものが言えない時代になっていた。
 ここで、亮吉は蓑田胸喜(みのだ・むねき)の名前を挙げている。蓑田はいわば私的思想検閲官として、1930年代の思想統制に大きな役割を果たす人物である。
 立花隆によると、蓑田は1925年(大正14年)に創刊された雑誌「原理日本」を主催する国粋主義者で、言ってみれば「日本のマッカーシー」だという。慶応義塾大学の講師もしていた。学生たちは蓑田の名前を「むねき」ではなく「キョウキ」と呼んでいた。
 蓑田は「次から次に、自分たちが気にくわない学者、言論人をヤリ玉にあげて、共産主義者、反国体思想、不忠反逆思想、革命賛美者などのレッテルを貼り、これに執拗な攻撃を浴びせていった」と立花はいう。
 やっかいなのは、蓑田の攻撃が言論活動にとどまらなかったことである。「赤化容共反国体思想」をもつ帝国大学のリベラルな教授たちを個人攻撃する雑誌やパンフレットを猛烈な勢いで出版していただけではない。それを各界要人や役所、マスメディアに配布した。加えて、当局にはたらきかけて、問題教授の著書の発禁や公職追放を求めている。
 その活動費は軍の機密費からでていた。
 政界や軍部ともしっかりとつながっていた。保守派の大物、平沼騏一郎(きいちろう)や小川平吉、軍部の荒木貞夫、永田鉄山、東条英機と接触があった。議員では貴族院の三室戸敬光(みむろど・ゆきみつ、子爵)、井田磐楠(いだ・いわくす、元軍人)、菊地武夫(元軍人)、衆議院の宮沢裕(ゆたか)などとも深いつながりをもっていた。
 こうした議員は議会でさかんにリベラル派を攻撃するキャンペーンを張った。「天皇機関説事件」もその延長上にあったといってよいだろう。
 蓑田による滝沢批判がはじまったのは、1929年(昭和4年)からだ。この年、京都大学のある団体から招かれて講演した蓑田は終始、激しいことばで河上肇を攻撃しつづけた。河上びいきの学生たちは反発する。会場の学生たちからヤジを浴びせられると、蓑田は壇上で立ち往生した。講演部長の滝沢が学生たちをとめなかったため、滝沢を恨んだ。
 蓑田はそれ以降、滝沢を批判するようになった。広島県選出の代議士、宮沢裕(宮沢喜一の父)をたきつけて、1933年2月の衆院予算委員会で、司法官赤化事件にからんで政府に質問させたのも蓑田である。宮沢はこのとき滝沢の『刑法読本』を取りあげ、こういう赤化した教授はやめさせるべきだと文部大臣の鳩山一郎に迫った。文部大臣としては、何らかの対応を示さざるをえない。
 5月に鳩山が京大総長に滝川の罷免を求めた背景には、こうしたいきさつがある。理屈はいくらでもつく。だが、京大側は政府の理不尽な要求に抵抗した。
 達吉自身はこの滝川事件をどのようにみていたのだろう。その影響がやがて自身にもふりかかってくるとは、その時点ではおそらく予想していなかった。

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斎藤実内閣──美濃部達吉遠望(65) [美濃部達吉遠望]

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 五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅に替わる首相をだれにするのか。その選定は難航した。犬養の後継者として、政友会は鈴木喜三郎を新総裁とし、憲政の常道として自党に大命が降下するのに備えていた。
 これにたいし、軍部は政党内閣では陸軍大臣に就任する者はあるまいという態度を示し、政党内閣の存続にあくまでも反対していた。
 貴族院議員の近衛文麿は、陸軍の意向を踏まえて、木戸幸一内大臣秘書官長に次期首相として平沼騏一郎(きいちろう)の名を挙げ、興津の西園寺公望にもそう伝えている。平沼は当時枢密院副議長で、国粋主義者として知られていた。
 木戸自身が推していたのは斎藤実(まこと)である。斎藤は穏健派の海軍長老で、ロンドン海軍軍縮条約にも賛成しており、前年まで朝鮮総督を務めていた。牧野伸顕(のぶあき)内大臣もおおむね斎藤首相案に傾いている。
 5月19日に西園寺は別邸のある静岡県興津から上京し、いよいよ次期首相選定の運びとなる。当初、西園寺は政友会の鈴木喜三郎を首相にと考えていたが、軍部の反対が強いのを知って断念した。
 西園寺が駿河台の邸宅にはいると、侍従長の鈴木貫太郎がやってきて、昭和天皇の意向として、首相は人格の立派な者、ファッショに近い者は「絶対に不可」、憲法を擁護すること、外交は国際平和を基礎とすること、事務官と政務官の区別を明らかにし、綱紀の振粛を実行することなどを伝えた。これにより、平沼騏一郎の目はなくなった。
 5月20日から22日にかけ、西園寺は政官界や軍の要人と会い、22日午後、天皇に拝謁、次期首相に斎藤実を推薦した。こうして斎藤に組閣の大命が下り、5月26日に斎藤内閣が発足する。
 斎藤内閣では、政友会から高橋是清(蔵相、留任)、鳩山一郎(文相、留任)、三土忠造(鉄道相)、民政党から山本達雄(内相)、永井柳太郎(拓務相)、実業界から貴族院議員の中島久万吉(商工相)、軍から荒木貞夫(陸相、留任)と岡田啓介(海相)、そのほか官僚出身者が入閣し、挙国一致内閣が形成された。外相は当初、斎藤首相が兼任したが、まもなく満鉄総裁の内田康哉(こうさい)が任命される。
 穏健な事なかれ主義の内閣だったといえる。だが、時代はずるずると、なるがままに動いていく。
 美濃部達吉は斎藤内閣の成立をどうみていたのだろう。
「帝国大学新聞」に「斎藤内閣の成立によって、我が国の政党政治は、少なくとも一時はその通常の軌道を脱することになった」と書いている。
 政党政治が一時的に断絶されたことを達吉も認識していた。それでも、立憲政治を存続すべきだという思いは強かった。
 立憲政治はそもそも政党政治と密接に結びついており、政党政治の否定は立憲政治の否定に帰するほかないという。政党政治がすぐにでも復活することを願っていた。
 戦争のときや国家非常の危機においては、政党の争いを一時中止して、独裁専制の政治がおこなわれるのもやむをえないかもしれない。しかし、それが認められるのは、よく民心を導く大政治家が現出する場合においてのみである。
 だが、いつもそうした政治家が現れるとはかぎらない。独裁政治はたいてい武力による国民の抑圧に帰着する場合が多い、と達吉は書く。
 ただし、政党政治によって、その都度、国の基本方針が揺らぐことも懸念している。政党政治の欠陥を補うには、国防、外交、財政、経済などの根本問題については超党派的な委員会のようなものをつくって国家方針を定め、内閣はそれにしたがって政治をおこなうようにするべきではないかと提案している。
 達吉は政治の主導権争いに終始する現在の政党政治に替わって、「いずれの党派にも属さない円満温厚の政治家をもってしられている斎藤子爵」に内閣組織の大命が下ったのは、現時点においては、おそらくもっとも穏健な方策だったとみていた。単一政党内閣も軍事政権も適当ではないとすれば、斎藤内閣の成立は妥当なところであり、歓迎すべきものだとも述べている。
「しかしながら、内閣がはたしてよくそれだけの[現在の諸問題を解決するだけの]実力を具備しているや否やといえば、われわれは安んじてこれを期待するだけの信頼を有しえないことを遺憾とする」といわざるをえないところに、達吉の不安と迷いが宿っていた。

〈しかし、もしこの内閣が失敗に終わるようなことがあるとすれば、国民はいっそう重大な政治上の危機に当面せねばならぬ。……内閣がにわか作りの挙国一致内閣であり、その基礎の強固さを欠いているのは、はなはだ遺憾であるが、しかしわれわれは出来るだけ内閣の長く継続することを希望し、内閣の全力を挙げて国利民福のために尽瘁(じんすい)せらるることに依頼するほかはない。〉

 達吉は祈るような気持ちで、この挙国一致内閣による政治運営がうまくいくことを願っていた。さらに、できるだけ早く政党内閣による立憲政治が回復することを期待していたといえるだろう。だが、犬養内閣の崩壊後、日本では戦後にいたるまで、15年にわたって政党政治が復活することはなかったのである。
 8月23日から9月5日にかけ、第63臨時議会が開かれた。
 農村の救済や不況の打開が大きな議題となっていた。そのために、さまざまな措置が講じられたが、多数党である政友会がしばしば政府を窮地に陥れ、農村負債整理組合法案が不成立に終わったことは残念だった。「非常時であることの自覚を有する以上、政権争奪の念をなげうち、協力一致ひたすら国難の匡救(きょうきゅう)に焦慮するのほかはない」と、政友会の姿勢を批判している。
 しかし、この議会では経済対策もさることながら、政友会の森恪(つとむ)が満州国の承認について政府に質問したのにたいし、外相の内田康哉が「この問題のためにはいわゆる挙国一致、国を焦土にしても、この主張を通すことにおいては、一歩も譲らない」と答弁したことが周囲を驚かせていた。あとから考えると、この焦土演説は不気味な予言となった。
 9月15日、日本政府は日満議定書にもとづき、満州国を正式に承認した。
 国際連盟はすでに現地にイギリスのリットン伯爵を団長とする調査団を送り、満州事変に関する調査をおこなっていた。その調査報告書は10月に出ることになっていた。日本はその報告書が出る前に満州国を正式承認したのである。
 リットン報告は満州における日本の権益を認めつつも、満州を国際管理下に置くことを提言していた。
 ジュネーブの国際連盟理事会では、リットン報告を受けて、12月2日から満州問題の審議が再開された。日本は全権代表として、元外交官で満鉄理事を務めた政友会代議士、松岡洋右(ようすけ)を送りこんだ。
 日本は満州国について、いっさいの妥協に応じない姿勢を示した。松岡は英語で1時間20分にわたり、「十字架上の日本」と称される大演説をおこない、日本の立場を擁護した。
 1933年(昭和8年)2月24日、国際連盟総会で満州問題に関する勧告案が日本を除く圧倒的多数で可決されると、ただちに松岡は退場した。そして、3月28日、日本政府は国際連盟からの脱退を正式に通告することになる。
 そのころ美濃部達吉は、あくまでも立憲政治の存続にこだわりつづけていた。

〈立憲政治と独裁政治とは絶対に相両立しえない思想である。あるいは国家の存亡危急に際して憲法の中止もやむをえないというような極端な説があるかもしれぬが、独裁政治によって果たして国家の危急を救うことができるかどうかは、極めて不確実な問題で、独裁政治が成功しうるためには、第一にはその主脳者たるべき威望ある大政治家を得ることが必要であり、第二には時の国情が独裁政治に適していることが必要である。こういう特別な事情のある場合でなくして、しいて独裁政治を行おうとすれば、そこにはただ混乱あるのみで、それは国家を救う所以ではなく、かえって国家を破壊に導く所以である。〉

 達吉は憲法停止などという過激思想にもとづいて、ファッショ的な独裁政権が樹立されることを懸念していた。とはいえ、立憲政治にも政党内閣と現在のような非政党内閣があることを認める境地になっていた。非政党内閣では、議会での多数派政党とは関係なく、政党以外から事務に練達し、国勢を担任するだけの能力ある者によって内閣がつくられることになるだろう。

〈もし今日の時局が真に国難に面しているとすれば、政党はすべからく政権争奪の念を断ち、内閣を助け励まし、協力して国難を救うの途を講じなければならぬ。かくして始めて政治の安定があり、政治の安定があって始めて国策を確立しうるであろう。〉

 達吉自身は立憲政治を維持しながら現在のような挙国一致内閣がつづくことを望むようになっていた。満州国の独立を擁護する日本の立場を国際連盟も認めるのではないかと思っていた。
 だが、それは甘かった。
 斎藤内閣は穏健とはいえ、達吉も危惧するように「統一性を欠いた寄り合い内閣」にほかならなかった。そして、軍部はそうした「寄り合い内閣」を尻目に拡張路線を突っ走るのである。

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五・一五事件──美濃部達吉遠望(64) [美濃部達吉遠望]

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 犬養内閣は1932年(昭和7年)の年明け早々、衆議院の解散に踏み切った。それは議会での数からいえば、与党政友会が少数与党であったがゆえの、やむを得ない行動だったといえる。前民政党若槻政権の不人気と、名望ある犬養毅への期待もあって、選挙結果は政友会の圧倒的勝利に終わった。
 だが、そのひと月の選挙期間中には、いくつかの大きなできごとが発生している。
 満州事変はますます拡大し、1月3日に日本軍は張学良の本拠、錦州に入城、さらに2月5日にハルビンを占拠し、満州の主要都市をほとんど支配下に置いた。軍部は清朝最後の皇帝、溥儀を保護し、満州に傀儡国家を建てる方針を固めている。
 1月28日には上海事変(第一次)が発生した。そのきっかけとなったのは、1月18日に上海市内を托鉢していた日蓮宗僧侶が中国人に襲われ、死亡した一件である。のちに、この事件は満州の錦州占領後、アメリカから非難されていた日本軍が、その矛先をかわすために仕組んだ謀略だったとされる。
 その後、日本人と中国人巡査との衝突もあって、上海での紛争は拡大し、ついに日本海軍の陸戦隊と上海郊外に駐留していた中華民国第19路軍が戦火を交えるにいたった。日中双方とも軍を追加投入するなか、戦闘は本格化し、3月3日に停戦するまで、日本側は796人、中国側は4086人の戦死者を出したとされる。それでも上海事変の拡大を阻いだのは、犬養内閣の功績といえるだろう。
 上海での戦闘がつづく間、日本軍は3月1日の満州国建国に向けて、着々と準備を進めていた。
 国外で満州事変が進展し、上海事変が発生するなか、国内では2月9日に前蔵相の井上準之助が選挙応援のために訪れた東京・本郷の駒本小学校で血盟団員の小沼正によって射殺されるという事件がおこった。
 さらに選挙後の3月5日には、同じく血盟団員の菱沼五郎によって、三井合名理事長の団琢磨が日本橋の三井本館入り口で射殺される。
 井上の場合は金解禁により不況を招いたこと、団の場合は金輸出再禁止直前に大量のドル買いにより巨利を得たことが暗殺の理由とされた。
 通称、血盟団は日蓮宗の僧侶、井上日召が結成したテロ組織で、農民や学生、軍事を巻きこんで、皇国思想にもとづく国家改造をめざしていた。
 井上準之助が暗殺されたあと、美濃部達吉は「中央公論」に追悼文を寄せている。

〈井上準之助君が突然一兇漢の狙撃を受けて、ついにこの世を去られたことは、満天下を震撼したとともに、同君の一家のためにはいうに及ばず、民政党のためにも、進んでは我が日本帝国のためにも償うあたわざる大損失を与えたもので、まことに哀悼に堪えないところである。〉

 達吉はそう切りだしつつ、なぜこのような事件がおこったのかを探ろうとしている。
 井上準之助君が凶変に遭ったのは、かれが金本位制を堅持する政策を掲げたからで、もし政治家としての信念を主張することが生命の危険を意味するとすれば、力ある政治は望めなくなってしまい、それは国家のわざわい以外のなにものでもない。浜口(雄幸)君につづき、井上君までもがこの1年のうちにテロに遭ったというのは、じつに「忌みかつ恐るべき風潮」であって、「こういう傾向が除かれないかぎりは、日本の立憲政治の前途は暗黒の感なきを得ない」。
 達吉はそう述べたうえで、テロが横行するようになった背景には、極端な人身攻撃の言論が近来まかりとおるようになり、相手にたいし、国賊とか売国奴、破廉恥漢といったレッテル貼りがなされ、それにもとづいて陋劣な言辞がくり広げられるようになったことがあると指摘している。
 そうした言論はつつしまなければならないのにかかわらず、政治的、社会的に高い地位にある人や軍の首脳部までが、みずからそうした言を吐き、しばしば過激な国家主義団体を擁護しているのが現在の状況である。

〈政府が左傾思想の取り締まりにのみ汲々(きゅうきゅう)として、こういう過激な右傾的な暴力思想の取り締まりに寛大であったことは、今回のごとき凶変の頻々として起こる有力な一原因をなしているものでなかろうかと思う。〉

 達吉は立憲政治の原則に立ち戻るべきだと主張する。

〈立憲政治は寛容の政治である。反対の主張に対しても寛容の態度を取り、それが国法を無視し国家を否定するものでないかぎりは、ただ言論によってのみこれに対すべく、権力や暴力をもってこれを圧迫することをしないのが、その根本精神の存するところである。それはまた目的のために手段を選ぶことを必要とする政治である。たとえ、その目的において適切であっても、その目的を達するために不法な権力や暴力をもってすることは立憲政治を否定するものである。〉

 だが、そんな正論は次第に耳にはいらなくなっていた。
 達吉はいう。
 ここ数年来、とりわけ満州事変以降、政党が不信用をこうむり、ファッショ政治団体が台頭しているのは事実である。政治的、経済的危機のなかでは、力強い政治が求められるのはたしかだ。かといって独裁政治によって明るく自由な社会が生まれたためしはない。あくまでも暴力否定の精神を貫くことこそが、不幸にも災厄に遭った井上君の霊をなぐさめる唯一の手段だろう。そう達吉はこの追悼文を結んでいる。
 達吉の願いにもかかわらず、それ以降もテロは収まらなかった。

 犬養政権の状況はどうだったのだろう。
 犬養首相は政友会総裁ではあったが、自身はいわば、かつぎあげられた存在で、政友会内部の実権は司法官僚出身の鈴木喜三郎、古参の床波竹二郎、それに新参の久原房之助の派閥連合が握っていた。
 そのため、犬養自身の政権基盤は弱く、満州事変についても、古くからの中国コネクションを使って、独自の和平工作を展開しようとしたものの、軍によってはばまれるありさまだった。そもそも内閣書記官長(いまでいう官房長官)の森恪(つとむ)が軍と密接につながっていた。
 総選挙に勝利したあとも、政友会内の派閥抗争はやまなかった。内閣改造も内務大臣のポストをめぐって、もめにもめる。けっきょく、議会開会中は犬養が内相を兼任することにし、その後、ようやく党内の妥協が成立し、鈴木喜三郎が内相に就任した。
 総選挙後の3月20日に開かれた第61回臨時議会は、満州事変関係の経費捻出のため公債を発行することを決めただけで、わずか5日で閉幕した。
 犬養内閣はすぐさま満州国を承認しようとはしなかった。日本軍の主導によって強引につくられた満州国には問題があるとみていた。慎重な検討を必要とした。
 そんなさなかである。
 5月15日午後5時半ごろ、三上卓海軍中尉をはじめとする海軍士官4人と陸軍士官学校生、計9人が2台のタクシーに分乗し、首相官邸に乗り込んでくる。ピストルを撃ちながら内部に乱入したかれらを犬養首相は客間に招き、みずからの考えを話そうとする。だが、そのうちの一人が「問答無用、撃て、撃て」と叫び、銃弾が放たれた。頭部に2発銃弾を受けた犬養はしばらく息があったが、その日のうちに死亡する。
 いっぽう、古賀清志海軍中尉の率いる第2組5人は泉岳寺に集合し、三田の牧野伸顕内大臣邸に向かった。午後5時に手榴弾を投げこみ爆発させたものの、それだけで引き上げている。
 そのほか、政友会や警視庁、憲兵隊本部、三菱銀行、日銀にも襲撃が及んだ。だが、いずれも手榴弾が投げられた程度で、かたちだけの襲撃に終わっている。
 橘孝三郎を中心とする別働隊の農民決死隊は、東京府下の変電所6箇所の破壊活動をおこなうことになっていた。しかし、たいして被害を与えることができず、府下を停電にするというもくろみは完全に失敗した。
 五・一五事件では、陸軍の青年将校は時期尚早として決起に加わらなかった。満州事変の行方をいま少し見守るという姿勢をとっていた。
 事件がおこったあと、美濃部達吉はすぐに「帝国大学新聞」に「テロリズム横行と政局の前途」と題する感想を寄せている。次の首相はまだ決まっていなかった。
 危惧したのは、五・一五事件の主犯が現役の軍人だったことである。

〈こういう驚くべき事変の起こったのは、もとより突然の出来事ではなく、大正の中頃から多年積もりに積もった種々の原因が鬱葱(うっそう)して、遂に爆発するに至ったもので浜口、井上、団諸氏の凶変もやはり同じ原因に基づいていることは疑いない。ただ今回の事変に特有な事柄は、軍人がその主犯者であることで、この点にことにその重要性がある。経済上の世界的恐慌に基づく、国内産業の窮迫、ことに地方農村の悲惨を極めた状態とこれに対する政党政府の無能力さは、政党政治に対する不信用、憤懣の念を広く一般国民の間に拡がらしめ、しかして左右両翼(ことに右翼)から来る不謹慎な議会否認、政党呪詛の叫びは一層この勢いを煽動した。この国民的な憤慨の感情が軍人の間にも及んでいることは、もとより怪しむに足らぬところで、これが遂に今回の事変をひき起こすに至ったものと思われる。〉

 達吉は事件の背景を十分に認識している。それでも現役軍人による犯行はゆゆしき事態であり、将来に向かって国家と社会の安定を保つためには、厳正な措置をとらねばならないと主張している。
 犬養毅なきあと政治の行方はまだ混沌としていた。政友会総裁を継いだ鈴木喜三郎が政友会内閣を組閣するのか、それとも挙国一致内閣をつくるのか、あるいは軍部を中心とした軍事政権が生まれるのか。
 その行方は首相指名権をもつ元老西園寺公望の手にゆだねられていた。

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犬養内閣の成立──美濃部達吉遠望(63) [美濃部達吉遠望]

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 満州事変が拡大するさなか、イギリスは9月21日に金輸出を禁止した。金本位制の基軸国であるイギリスが、金輸出の禁止を決めたとすれば、その影響はまもなく世界に波及することが予想された。金本位制が崩壊するのは時間の問題だと思えた。
 日本国内では先の動きを見込んで、財閥などによるドル買いの動きが強まった。だが、井上準之助蔵相はあくまでも金本位制維持の姿勢を崩さなかった。
 軍の一部では、桜会の橋本欣五郎中佐が3月につづき、大川周明らとともに今度こそクーデター計画を実行しようとしていた。首相官邸や警視庁などを襲撃し、若槻礼次郎首相や牧野伸顕内大臣を暗殺し、陸軍中将の荒木貞夫を新首相とする軍事政権を樹立しようという計画である。
 計画は事前に漏れ、憲兵隊は10月17日に橋本らを逮捕したが、厳しい処分はなされず、まぼろしのクーデター計画として、うやむやのうちに処理され、桜会は解散させられた。「十月事件」と呼ばれる。昭和天皇もこうした計画があったことを、事件直後に知らされている。
 11月にはいると、民政党の実力者で内務大臣の安達謙蔵が、いまの内閣では危機を乗り越えられないから、民政党と政友会が協力内閣(連立内閣)を組んで、非常時局に臨むべきだと主張するようになる。安達は政友会幹事長の久原房之助と連携して、この話を進めていた。
 美濃部達吉は安達の協力内閣説に違和感を覚え、11月30日の「帝国大学新聞」にそれを批判する見解を発表する。
 安達内相が野党政友会との連携をはかろうとするのは、政策の転換をはかろうとするためだろう。だとすれば、それは内閣の意見の不一致を暴露したもので、内閣の信用を傷つけることはなはだしく、かえって内閣の足を引っぱっているのではないだろうか。
 現在の状況を達吉はこうとらえている。

〈現内閣の重要な政策として見るべきものは、主として二点にある。一は財政政策であり、一は外交政策である。財政に関しては、緊縮、節約、金本位制の維持、非募債主義を標榜し、外交に関しては、国際協調平和主義を基調として、今日に至った。しかるにこの二点は共に最近に至って重大な危機に陥いり、これを貫徹することがはなはだしく困難となった。〉

 金本位制がまさに崩れようとし、満州事変にともなう愛国的運動が勃興するなかで、いまの政府に人気がないことはわかる。
 たしかに金輸出を再禁止すれば、一時的に景気は回復するだろうし、国際的な協調を顧みず、国威を強硬に主張すれば、一時的に人気は得られるかもしれない。
「しかしながら、国家の重責に任ずる者は、そういう一時的の人気によって動かさるべきではなく、国家百年の大計をもって念となすべきことは、いうまでもない」と達吉はいう。
 達吉は野党との連合などという無定見な態度を排除して、内閣が自信をもって、その政策を実行することを望んだ。
 だが、そうした希望はもろくも崩れる。
 12月11日の閣議に安達内相は出席せず、辞表を求められてもこれをこばんだ。こうして若槻内閣は閣内不一致により、退陣に追いこまれた。
 最後の元老、西園寺公望は、内大臣の牧野伸顕、宮内大臣の一木喜徳郎、侍従長の鈴木貫太郎などと相談のうえ、政友会の犬養毅を次期首相に推薦することにした。政局を不安定にしかねない、政友会・民政党の連立内閣案はしりぞけられた。
 こうして12月13日、「憲政の神様」と呼ばれた不屈の人、犬養毅(木堂)が政友会総裁として、76歳で首相の座に就くことになる。
 犬養内閣は成立早々、金輸出の禁止を決定した。すなわち金本位制から離脱したのである。それを決定したのは、犬養に壊れて4度目の蔵相に就任した77歳の高橋是清である。
 井上準之助前蔵相を支持する達吉は、高橋の決定にたいし、かなり批判的な立場を示している。
 12月21日の「帝国大学新聞」には、こんなふうに書いた。
 金輸出禁止によって、ドルに対する円の為替レートはいきなり2割下落し、この円安によってドル買いをしていた少数の資本家は巨額の利益を得た。そのいっぽう、貨幣価値の下落によって、一般消費者階級はインフレに苦しむことになった。これは財産の一部没収と同じである。
「中にも憐れをとどめたのは官吏階級で、前には緊縮政策の犠牲として減俸を強いられ、いままた貨幣価値の低落によって二重の打撃を受くることとなった」
 達吉は若槻内閣が倒壊したのは、国民の多数の支持を失ったためではなく、あくまでも内閣不統一によることを強調し、その背後には資本家の画策があったのではないかとまで憶測している。
 さらに政友会内閣の成立によって、各省の次官や局長が更迭を強いられ、県知事なども一挙に交替させられ、さらにその動きが満鉄総裁や政府系銀行、警察組織にまで及ぶことはまちがいないとみて、こうした政党政治のあり方がはたしてよいものだろうかと疑問を呈している。
 金輸出禁止に次いで、犬養内閣は翌1932年(昭和7年)1月21日、第60議会の最中に衆議院の解散を決定した。
 このとき、達吉はこんな感想をいだいた。

〈日本の議会制度はいまだ十分には完成の域にも達しておらぬのに、早く既に弊害百出、全く行き詰りの状態に陥り、このままでは、結局没落のほかはないと懸念せらるるに至った。総選挙の結果、政友会が勝利を得るか、民政党が多数を占むるかは予想しえないが、いずれにしても多くを期待することは不可能で、政党政治の前途に光明を望みがたく、ファッショ政治の危険が目前に迫っているともいうべき有様にある。〉

 なぜ達吉は、犬養政権の発足をみて、政党政治の前途が絶望的で、「ファッショ政治の危険が目前に迫っている」などと感じたのだろうか。
 犬養政権に期待をいだいていないことがわかる。
「政党政治の弊害は万人の目にあまり、政治が国民一般の福利のために行われないで、少数の財閥や、私党のために行われる傾向は、ますます著しくなった」とも書いている。
 満州事変の解決や金輸出禁止の善後策が問われているときに、議会は政争に明け暮れ、これから一カ月を選挙争いに明け暮れていていいのか、という思いがあった。
 1932年(昭和7年)2月20日におこなわれた第18回総選挙は、普通選挙としては3回目だったが、これまで少数与党だった政友会の圧勝に終わった。政友会はこれまでの171議席から一躍して303議席を獲得した。これにたいし、民政党は249から146に議席を減らした。無産政党は伸びず、わずか5議席にとどまっている。
 政友会の地滑り的勝利は、けっして喜べなかった。政友会と民政党が選挙戦を繰り広げているひと月のあいだ、いやそれ以前から不穏な動きが頻出していたからである。
 まず1月8日には桜田門事件が発生する。陸軍観兵式を終えて宮城に戻ろうとする天皇の車列に警視庁庁舎前で手榴弾が投げられた。手榴弾は宮内大臣一木喜徳郎の乗る馬車の後輪にあたって炸裂したが、その破片が近衛兵の乗る馬を負傷させた程度で、大きな被害はなかった。天皇の御料車はその30メートルほど後ろを走っており、天皇は何かの音を聞いただけで、まったく無事だった。
 犯人は李奉昌(りほうしょう、イポンチャン)という人物で、上海で結成された大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に属していた。
 この事件に接した犬養首相は、その日夕方、辞表を提出するが、天皇は元老の西園寺と相談したうえ、犬養に留任を言い渡す「優諚(ゆうじょう)」を下した。
 この優諚によって留任した犬養内閣が、それから10日ほどのうちに、衆議院の解散を決定したことに、天皇主義者の達吉は憤慨し、「帝国大学新聞」に次のように書いた。

〈いうまでもなく今日は時局極めて重大な際であって、満蒙事件の解決といい、金輸出禁止の善後策といい、政府は全力を挙げてこれに従事すべき義務をもっている。畏(かしこ)くも留任のご沙汰を下し賜いし勅諚にも「時局重大の際なるが故に」ということであったと、政府自ら発表している。それは申すまでもなく全力を挙げてこれが解決に尽くせというご沙汰と拝承せねばならぬ。このご優諚に基づいて留任に決しながら、いたずらに党争を事とし、今後一ヶ月を選挙争いに浸頭せんとすることは、ご優諚に対してもいかにも畏れ多い極みと思う。〉

 そして、達吉が危惧したとおり、実際、一カ月の選挙戦の最中に、大きな事件が次々と巻き起こるのである。それは犬養首相の暗殺をもたらす五・一五事件の予兆でもあった。

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